[悪ノ]
むかしむかしのおはなしです。
*
父上は仰った。眼下に広がる肥沃な大地、美しい城下町、果てしなく青い空、国はお前の物だと。蠢く人々を目に、あれさえもと。何もかもがお前の思うままにして良いのだと仰った。私は幼く、父上に抱かれバルコニーからの眺めを見ていた。
覚えている。雪が溶け北風が止み春がようやく訪れた頃に、突然子供部屋から私だけを連れ出した父上。珍しい父上の訪問に歓声をあげ駆け寄って来た私たち二人のうち、父上は私の体だけを抱き上げた。当時の私たち二人を両腕に抱えることは父上にとって容易く、たまたま私が先に抱き上げられただけだと思っていた。
父上は後ろ手で静かに扉を閉めた。ばたり、と重たげな音で遮られた私の視界には、何も分かっていない弟の綺麗な青い瞳だけが最後に焼き付いた。父上の肩越しに遠ざかる扉を見て、私は暫し呆然としていた。角を曲がって気付いたのは近衛兵も側近さえも連れず父上が歩いている事だった。そんな姿は見たことがなかった。子供心にもおかしいと感じた。靴音が大きく響き城の奥へ高所へと歩を進める父上に何事かと尋ねる事も出来ず私はただ、その肩にしがみつくだけで精一杯だった。
帰りは道を覚えさせるためか、手を引かれて歩いた。窓も無く昼というのに薄暗い螺旋階段をゆっくりと降りながら、父上は呟く。来たいときに来なさいと、誰の許可もいらない、お前の好きな時に好きなだけ眺めれば良いと。私は頷いた。父上はちらりと私を見ては、続ける。しかしあの場所を誰にも教えてはならない、母上にも女中たちにもだ、と。余りに真剣な声音に頷く事さえ忘れ理由を考えていると、父上の足が止まった。見上げると父上は私の方を向き、分かったのかと私の反応を求める。三度頷いても父上の疑念は晴れず、本当にか、などとしつこく念を押す姿にただならぬものを感じて私は恐ろしかった。
恐ろしかった。弟を無いものの様に扱った父上が恐ろしかった。先ほどの扉の閉め方や会話の中に名前さえ挟まない、その意図的な態度に感じたものは勘違いや思い過ごしではなかったのだと今では思う。
あの日に私たちの運命は分かたれた。
父上と曲がり角で別れ、半ば走る様に部屋へと戻った。子供部屋の扉にしてはいやに重たい精巧な造りの一枚板を押し開く。あの景色を早く見せたかった。城の中でも高い位置にあるこの部屋よりも、更に見晴らしの良い秘密の小さなバルコニー。日が沈む際にはきっともっと美しいに違いない。父上は誰にも教えてはいけないと仰り、母上や世話役の女中は名指しで駄目だとしたが弟の名前は出さなかった。いつも一緒だったから言うまでもないのだと思っていた。私が与えられた物はつまり弟の物で、弟に与えられた物は勿論私の物でもあった。あくまで姉という立場上、先に教えて貰っただけなのだと。
部屋に入ると違和感を感じた。やけに静かだった。不安に駆られ大して狭くもなく広くもない部屋の中を歩き回る。調度品の裏や下も覗き込んでみるが、弟の姿は見当たらず、私はワンピースの裾を握り名前を呼んだ。
「……レン……? 」
返事は無く、空しく私の声が響くだけだった。
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