ねえ、もしも。あと一年で俺が大人になったら、あなたは振り向いてくれますか。
生徒のままでは、一人の男としてのスタートラインにすら立てないというんですか。
幼い子どもは、身近な年上の存在に恋をすることが多い。
そう言ってしまえば偏見かもしれないけれど、よくある話の一つではあると思う。俺もその多数の一人で、俺の場合は近所に住む少し年上のお姉さんがそうだった。
近くだから、俺が通りかかる度に挨拶をしてくれて、時々一緒に遊んでくれもした優しい人だった。俺が落ち込みながら歩いていると話を聞いてくれたし、ハロウィンの時期は「もらったお菓子のおすそ分け」と言いながら俺に菓子をくれた。都会の学校に行くから、と笑ってある日突然どこか遠くへ行ってしまったけど。
幼い頃の淡い思い出として割り切るには、俺の中でお姉さんの存在が強すぎたのかもしれない。決してもう会えないはずのその人のことを思い続けて、もういい加減に諦めたほうがいいかもしれないと思った矢先の高校二年の春。
「咲音芽衣子です。みんなの力になりたいから、気軽に相談してね」
その爽やかな笑顔は、昔となにも変わることはなかった。そして、後方の席に座る俺と、唯の一度も目が合うことはなかった。
連絡手段のひとつも残さず目の前から消えた人が、立場を変えて戻ってきてしまった。彼女の教師という新しい立場は、恋という勘違いを抱きやすい身近な大人そのもので。
ああ、どうして俺はもっと早く諦めなかったのかと後悔した。席から教壇までの距離が、どこにいるかもわからなかった頃よりもずっと遠く感じてしまう。
「先生、質問があるんですけど」
職員室で彼女の姿を見つけ、ノートを片手に彼女に近づく。
「あら、もう予習をしているの? 感心ね」
『昔近所に住んでいた始音海斗です、あなたと話がしたい』
ノートを開き、挟んでおいたメモを見た彼女は少し考えるそぶりをしてから言った。
「始音くん、だったわね。準備室まで来てもらえる?」
「わざわざ移動してもらって悪かったわね。それで、話って何かしら」
「俺は、あなたがいなくなった後も、ずっとあなたのことが忘れられなかった」
「……それで?」
「昔のように、とは言いません。ただ、時々でいい。話をさせてください」
「意図が汲めないのだけれど、どうしてなのか、理由を聞いてもいい?」
言うべきか口を噤むべきか、言葉を詰まらせる。言えばきっと彼女を困らせる。たまたま優しくしていたことがあるだけの年下の子どもに、こんな感情を抱かれるなんて思ってもいないだろうから。
「……めーこさんのことが、好きだから」
視線に急かされて飛び出た言葉が、その眉を寄せるのを見た。言うつもりがなかった、とは言わない。だけどいずれ伝えると決めていた言葉だ。決してこんな、哀れみにも似た表情をさせたいわけではなかったけれど。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、ごめんね。私は、キミの気持ちには答えられない」
「わかっています、だから、諦める努力をします」
「本当にわかってる?」
どういう意味だろう。彼女がセンセイだから、俺は好きでいてはいけない。最も大きな理由さえ挙げれば、俺は長年抱えたこの思いを捨てる決意ができるのに。
「話をするのは別に構わないわ。でもね、キミのその気持ちは、そんな単純なものではない気がするの」
彼女は、俺の何を見透かしているんだろう。
「それで、夕飯の後にドーナツとスナック菓子と、それからコンビニのガトーショコラを食べたら、胃を痛めました」
「馬鹿じゃないの? いくら食べ盛りと言ってもね、無闇矢鱈になんでも食べてもいいってわけじゃないのよ」
「肝に命じました……」
恋をした、というとあまりにも簡潔で、色鮮やかな言葉で付け足したくなるのに、だけどそれ以上に適切な言葉が見つからない。
こうして傍目に見てもくだらない話題でも、彼女の言葉や関心が僅かでも俺に向けられるのが嬉しかった。だけどいつもその目線は手元のペンが刻む文字を追っていて、決してこちらを向かないことが切なかった。
それでも彼女の視線を奪いたくて、少しでも長く傍にいたくて、俺は何でもないような話を続けた。彼女にとってはどうしようもなく退屈な話だったかもしれないけれど、それでも俺は楽しそうに笑う彼女が好きだったから、そんな風に笑ってくれているだけで幸せだったんだ。そして、それだけでいいと思っていた。昔と同じように。
それなのに、いつの間にか欲張りになっていた。
「……先生、好きです」
だから、決定的な告白の台詞を喉が発したことを、とうとう彼女が呆れたようにため息をつくまで気づかなかった。呆れの理由は明らかだ。俺は、“諦めるための努力“として対話を望んだのだから。
「何度も言っているはずだけど。私はね、キミとは付き合えないの」
「すみません。困らせるつもりはなかったんです」
「じゃあ、もうさっきのようなことを言うのはお終いにして。いい?」
俺の返事も聞かずに彼女は席を立つ。書きごとは途中だったはずなのに、パタンと無造作に閉じられたノートを携えて。
それとも、うつくしく刻まれた文字列すらも、俺の話をただのBGMとするための流れ作業だったのだろうか。
夕焼けの色を溢した教室は、彼女が去ったというだけでひどく無機質な色に思えた。
寒さに身を震わす十月でも、駅前のロータリーにはイルミネーションが飾りつけられている。クリスマスには気が早いだろうに。それともこうでもしない限りは駅周りがすっかり寂れてしまっているからか。
かつては綺麗だと思っていたのに、今ではただ木を覆っているだけの電飾がわずらわしい。午後六時の太陽はもうほとんど傾いていて、夜の暗闇がじわりじわりと足並みを伸ばしている。早く帰ろう、と踵を返すと、視界の端に見慣れた姿が映り込んだ。
声をかけようと思ったけど、やめた。彼女が楽しそうに笑っていた隣の人が、誰なのかわからなかったからだ。
真っ先に考えるのなら家族の誰かか。だけど腕を組んで決して俺に見せないような無邪気なその態度はきっと、家族ではないが恋しく思う相手のはずで。
俺じゃコイビトどころか、一人の男としてすら見てもらえない。それは当然だった。所詮はかつて仲良くしていた子どもで、相手がいるのなら尚更。
片想いの相手と、そのパートナー。こんな場所に好き好んで留まろうとは思えない。さっさと帰ろうとした時、短い悲鳴と倒れ込むような音がした。
え、と音の発生源に目をやると、俺の知らない彼女を知る男に彼女は傷つけられたらしい。頬を押さえて座り込む彼女を見て、そちらに向かって走った。
「大丈夫ですか!」
駆け寄ってきた見知らぬ俺を見て眉根を寄せる男に、彼女が俺を手で制した。
「大丈夫、私の生徒よ」
「生徒? ……わかったよ。今日は帰る」
面倒だと思ったのか、男はどこかへ立ち去った。彼女の頬は赤くなっていた。ぶたれたらしい。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だから、安心して。カレ、怒りっぽいの」
にこ、といつも通りに笑っているように見える彼女の目は、普段の学校での明るさを灯してはいなかった。
「大丈夫って……もしかして、”いつも通りだから“大丈夫なんですか」
彼女は何も答えない。俺の問いかけに肯定も否定も返さなかった。
変なオトコはやめて早く別れてしまえ、なんて最低なことを考えていた。あなたの幸せを願うのならきっと、眼に映るあなたの全てを肯定しなければいけなかったのに。俺はたった一瞬のやりとりを目にしただけで、彼女にとってのあいつは、俺が認識しているよりずっと優しいひとなのかもしれないのだ。
「彼ね、ハロウィンの悪戯が下手なの」
「いたずらって、あなたを傷つけていい理由にはならないでしょう」
「大丈夫。私は平気」
本当に平気なのだとしたら、わずかに震える手を俺から見えないように隠すのはどうしてなのだろうか。
「俺じゃ、駄目なんですか」
「始音くんは、始音くんだもの」
「俺はずっと、昔からあなただけしか見えていないのに。めーこさん、俺が、」
俺があと一年で大人になったら、あなたは男として見てくれますか?
その本音を伝えようとして、まごついて、飲み込んだ。一年で彼女の思いを変えられるのなら。でも、たった一年だ。長い間変えられなかったそれを、短期間で切り替えられるのか。
「それ以上はね、言ってはダメよ。そうだ、これ、始音くんにあげるね」
鞄から差し出したのは、カボチャのパッケージにはにつかわしくない甘さの、苺味の飴粒だった。奇しくもそれは、かつての彼女がおすそ分けと称して俺に手渡したものと同じ菓子で。量だけが、数粒から一袋丸ごとへアップグレードしていたが。
「ハロウィンだもの、悪戯をされたら困るから」
「今のめーこさんに必要なのは、悪戯でも菓子でもなくて、心に溜め込んだ不安の捌け口でしょう」
「諦める、って約束でしょう?」
高校生という子どもの、生徒の一人のままではスタートラインにすら立てていない、そうしているうちに彼女はどんどん遠ざかってしまう。それはわかっていた。だけどきっと、彼女の中での俺は、いつまでも年下の手のかかる子どもで、相談相手にすらなれない。彼女はもう一度にこりと笑って、俺の手を振り払って一人で先へ歩いて行ってしまった。
大きくなったらめーこさんと結婚する、なんて子供時代に言っていた。それを一時の子どもの戯言なんかだととらえないでほしい。
だって俺は、ずっとずっと、離れてもあなたのことが忘れられなくて、あなただけを思い続けているのに。
これをただ諦めろというなら、俺が生きてきた十数年はいったい何のためにあったのだというのでしょうか。
今になって、彼女の言葉を理解した。燻り続けた俺の思いは、もう俺自身でどうすることもできないほど、厄介な代物なのだと。諦める努力なんてしたところで、長年抱えた重荷が邪魔をする。
パッケージを破いて、包み紙を剥がして飴玉を口内で転がす。同じ帰り道と、同じ苺味の飴玉。昔のまま変わらないものもあるのに、俺の感じ方だけがおかしくなったのか、べたついた苺の味がやけに甘ったるく吐き気がする。
彼女にとっての俺も飴玉と同じなのだろうか。一度受け入れるとべたべたして、固形がなくなってもその後味を舐めきってしまうまで、いつまでも存在を残し続ける鬱陶しい存在。
それでもきっと、俺は諦められないのだろう。いつまでも、いつまでも、受け取りを拒まれ続ける醜い片思いを。
いっそのこと、手酷く俺を拒んでくれればいいのに、それをしないのは彼女が昔のまま優しいから。その優しい甘さが、俺をいつまでも捉え続ける。
「……やっぱり甘い」
球体が消えても尚、後味の主張を続ける口内へ飴玉を放り込んで、淡い思い出を打ち消すように噛み砕いた。
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Turndog~ターンドッグ~
ご意見・ご感想
オオン…ビターァ…実にほろ苦ハロウィン…
昔っからビターに定評がありましたが経験を重ねてますますビターに磨きがかかっておられる…
しかもただ苦いだけでなく熟成された甘みが十重二十重。イイ…
一途なカイトボーイ…もっとそのまま拗らせて…
「カイトが年下ってのもいいですねぇ」などと言おうとして
よく考えたらめーちゃんよりカイトが年下なのは発売順的に何もおかしくないのでは??という事実に気づいた私。
2021/11/01 21:58:49
ゆるりー
最近ビター系というか、甘めの話が書けなくなってきました。
拗らせたカイト兄さんも好きです。どちらか片方が拗らせる話を今年は書きがちなので完璧にマイブームですね。
褒めていただいて嬉しいです!
手癖で男性陣を年上設定にすることが多いですが、カイト兄さんは年下でもかわいいんですよね……最近再認識しました。
発売順を思い返して「本当だ」となるのはよくあります。が、V3以降のボカロに関しては数が多すぎてもはや覚えられず困っています。
2021/11/03 07:16:00