「じゃあ、診察を始めるわね。はい、服を上げてくれる?」
何はともあれ、どうにか通常の軌道に戻ってくれたようで心底ほっとする。そうして滞りなく検診は進み、さらさらとカルテへ結果を書き込んだ彼女は再び俺に向き直った。
「後は簡単な質問をするわ。気楽に答えて頂戴ね」
「はい」
この問診を終えれば定期健診は終了だ。内容は日に三度きちんと食事を取っているか、睡眠の質に問題はないか、などごく一般的なもので、俺も何ら気負う必要なく答えていく。
ただ一問を除いては。
「それじゃあ、最後の質問ね」
分かりきっていたことにも関わらず、そう告げられた瞬間、思わず俺は唇を引き結んだ。問いは毎回決まっている。それに対する答えだって、もう一生変わりはしないのだろう。お互いそんなことはとっくの昔に理解しているはずなのに、今日もまた意味のない茶番劇を滑稽に演じていく。
「あの日の夢。まだ見続けているの?」
記憶に一番鮮烈に灼き付く光景。俺の全てを狂わせたと言っていい原初の悪夢。
「……はい」
「そう。最近見たのはいつ頃かしら」
「今朝……です」
「内容はいつもと同じ?」
「はい」
「そう……分かったわ。ありがとう」
そのまま彼女が手元へと視線を落とし、しばし会話が途切れた。カルテに何やら記入する様子を所在なく見つめ、そこで改めて彼女の身に付けた装身具に目が止まる。
「そのペンダント……」
俺の言葉に彼女がこちらへ顔を向けた。四枚の花弁を模した金属型、その中央に嵌め込まれた淡黄色の宝石が、制服の上から羽織った白衣越しでも分かる豊かな胸の上で静かに揺れている。
「まだ、してるんですね」
「ええ。……やっぱり貴方に返すべきかしら」
「いいえ。俺には意味のないものですから」
そうきっぱりと拒否し、俺は真っ直ぐ彼女の瞳を見据えた。暗に“貴女には意味のあるものでしょう”と述べたのだが、それが伝わってもなお彼女は顔色一つ変えず、白魚のような指で細いチェーンをなぞる。
「……何と言うのかしら。私にはまだ信じられないの。貴方のお兄さんが、まさか――」
そして彼女は口を噤んだ。俺に気を遣い言い淀んでいるというよりは、纏まりきらない感情が次の文句を堰き止めているように思えた。それほどまでに兄の存在は彼女の中で大きいのだ。あんな兄なのに――……知らぬが仏とはよく言ったものだと、他人事として捉えてしまえるのが何だか物悲しい。
昔はこうではなかったのだ。無口で無愛想な兄だったが、俺にとっては優しい兄であり、血の繋がりがないと教えられた後も特別気に留めたことはなかった。
あの日以来――あの出来事が俺の全てを一変させてしまった。
「だからね。預かっている、という感覚なのよ。いつか帰ってきたら返そうって。それまでは私が持っていようって……。――ただの感傷よ、気にしないで。一番辛いのは貴方の方だものね」
その言葉に、俺は内心を隠せず苦笑した。それこそ大層な思い違いだ。俺は兄がいなくなり辛いと感じたことなど一度もない。あるにはあるが、それは兄の残した伝説にも等しい噂によるもので、顔を見る度兄の話を持ちかけてくる無粋な輩には本当に辟易させられた。
彼女は何も知らない。俺と兄との間に何があったのか。あの日、あの場所で、一体何が起こったのかを。だから彼女は今もこうして兄を信じ待ち続けていられる。例えそれが叶わぬ期待だと理解していても。
このまま真実を知ることなくいてくれればいいと心より願う。それがおそらく――幸せなことなのだろうから。
「まあ、それはいいの。何か身体の不調があったら、どんな些細なものでもいいからすぐに来ること。貴方はいつも来ないんだもの。聞いたのよ、この前の出動で怪我したんですってね」
そうして柄にもなく感慨に浸っていた所を全くの不意打ちで、俺は傍目に分かるくらいびくっと身体を震わせた。そんな俺へ、射抜くような彼女の視線がこれでもかと突き刺さる。怪我を負ったのは事実であり、治療に来なかったのも確かだが、それはただ単に診療を受けるほどの傷じゃないと判断してのことだった。実際放置していても、数日で痕すら残さず消えてしまった。
しかし彼女はそういう素人判断を信用していない。何かあってからでは遅いのだと、これまでも口酸っぱく言われてきたことだ。そしてそれに嫌気が差していた俺は、今から数年前の反抗期時代、いつもの説教を途中で遮り言い返したことがある。
『死ぬ時は死ぬし、そうじゃない時は嫌でも生き残るんだから、放っといてくれよ!!』
本気でそう考えていたのか、反抗出来れば何でも良かったのかは覚えていない。ただそう口にした直後、俺は思いっ切り平手で頬を張られていた。ひりひりと熱持つ痛みで呆然と動けなくなった俺とは対照的に、彼女は何度も何度も俺の頬を引っぱたいた。そうして叩き続けながら、何故だか彼女の方が苦しげに瞳を潤ませていた様を、今でもはっきり思い浮かべることが出来る。
当時の俺は、暴言を吐いたことより彼女を泣かせてしまったことに強烈な罪悪感を覚え、即座に謝った。彼女が普段の柔らかい笑顔を見せてくれるまで、しつこいくらいに詫び続けていた記憶がある。真剣に人の命を考えているからこそ、彼女はあそこまで怒ったのだろう。幾分大人になった今の俺には、それが分かる。
いかな彼女でさえ、一度喪った命を取り戻すことは出来ない。何か身に染みる出来事が過去にあったのだろうか。命に対する際の彼女は触らなば斬らんといった雰囲気が漂い、抜き身の刀を首筋に当てられているかのような緊張感を常に意識させられたものだ。
その時のことを思い出し、年齢の問答とはまた違う意味で戦々恐々としていたのだが、彼女に俺を責めるつもりはないらしく、穏やかな口調のまま言葉が続いた。
「幸いかすり傷だったみたいだし、さっき確認してみたけれどもう痕も残ってないわ。でもね、何かあってからでは遅いの。mikiちゃんが卒倒せんばかりになって心配していたわよ。此処へ来る度に、今日はKAITOさん来ましたかって訊いてくるの。あとご迷惑をかけて申し訳なかったと一言謝りたいって。けなげな子ね。一度顔を見せて安心させてあげるといいわ」
「とは言っても、俺は彼女の予定も知らないですし。安心させてあげればと言われても……」
思わぬ所で後輩の名が飛び出し、先程よりは軽いながらも動揺で身体が揺れた。丁度今日は俺も後輩のことを考えていたから余計だろうか。
そんな俺を見ていた彼女は、人差し指の腹を頬に押し当て小首を傾げてみせた。蠱惑的と言えなくもないが、どちらかといえば幼さを強調する動作だ。そのような仕草が普通に似合ってしまうのだから恐ろしい。本当に彼女は――なのだろうか。
「いきなり部屋に押しかけるのもね。年頃の男女なんだから、やっぱり色々と気まずいわよね」
「……まあ、そうですね」
まず俺は後輩の部屋も知らない。一度チームを組んだ相手だからといって、そこまでプライベートな部分を明かすような関係になるわけではなかった。また当然のことながら仕事の内容により編成は変わるため、下手をすると二度と顔を合わせないことだって有り得る。むしろ一期一会と思い切り当たるからこそ、仕事がスムーズに運ぶとも言えた。甘えが排除され、適度な緊張感が維持されるという意味では、その方が都合がいい。
「大丈夫よ。こんなこともあろうかと、mikiちゃんの予定はしっかり押さえてあるの。だから安心してね」
どんな予知能力者だ。慄然としていると、彼女は机上に貼り付けてあったメモらしきものを手に取り、その紙面に視線を走らせつつ口を開いた。
「まあ、毎日来てくれるから話している内に分かるだけなんだけど。えっと今日は――十三時から五十七号室でトレーニングの予定が入っているわ。自主練習みたいだから、一緒にやってきたらどう?ちなみに覚えていると思うけど、彼女はCタイプ。貴方の訓練方式とはまた違うの。つまり――……言いたいことは、分かるわよね?」
そうして彼女は顔を上げ、ふわりと微笑んだ。まるで花が開いたように魅力的な笑顔だ。やはり彼女が三十路だとは信じられない。
けれど見た目の美麗さに騙されてはいけない。彼女はそのたおやかな所作や柔らかな微笑と裏腹に、とんでもないことを平然と口にする。いつだったか、俺が仕事中に重傷を負い担ぎ込まれた際も、いつもの調子で迎えた彼女は、手術台の上に力なく横たわる俺を見下ろし澄んだ声でさらりと告げたのだ。
『死ぬほど痛いけれど、実際に死ぬことはないから安心してね。せいぜい気を失う程度だから』
そして彼女の宣告通り意識が飛ぶ寸前。ちらと視界に映ったその顔には果たして、男なら惹き付けられてやまない魅惑的な笑顔が浮かんでいた。昔俺を泣きながら叩き続けた人と同一人物とは思えない。どちらが本性なのかは――考えたくなかった。
そんな恐ろしい彼女に楯突けるわけもない。昼の予定が否応なく決まってしまったことに、俺は深く嘆息した。
夢の痕~siciliano 4-②
①の続きです。
最後の方に名前だけちらっと出てくるキャラクターが、次回登場のキャラクターだったりします。
こちらは、おそらく年齢詐称(上下どちらも)にはなっていないと思います。
…自分の目と感性がおかしくなければ、ですが^^;
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