「む?」

四限目の授業が終わり、腹を空かせた生徒達が弁当を広げ出した教室で、鞄の中を覗いていた楽歩が不意に声をあげた。

「む? むむむ?」

頭の上に疑問符を浮かべつつも、必死に鞄の中を引っ掻き回す。終いには鞄を上下逆さにして中身をぶちまけ出した楽歩に、不思議に思った海斗が尋ねた。

「どしたのがっくん?」
「……昼餉が無い」

どさり、と鞄を床に置くと同時に、楽歩はがっくりと項垂れた。

「え、お弁当忘れたの…?」
「うぅ…今日のおかずには茄子田楽があったと言うのに…何たる失態…」
「がっくん…僕のおかず半分あげるから、元気出しなよ」
「か…かたじけない!」

楽歩は鼻をすすると、自らが散らかした机上の整頓を開始する。

その様子を見て、流架はちらりと自分の真下の弁当箱に視線を移した。四角い箱の中には、まだ手を付けていないおかず達が仲良く並んでいる。これだけあるんだから、おかずの一つくらいあげても良いのではないか。それに、今日の卵焼きはいつもより綺麗に焼けた。困ってるみたいだし、少しなら楽歩に恵んでやっても…。
だが、それを行動に移そうとすると、どうしてもプライドが邪魔をする。もし下手に餌をやって、自分が楽歩に気があるなどと勘違いされるのは真っ平御免だし、上手に焼けた卵焼きを楽歩にあげたら、まるで楽歩の為に作って来たかのように思えて、何か悔しい。

あげようか否か、流架が眼下の卵焼きと睨めっこしながら葛藤している時だった。

「あ、居た居た」

入り口から声がしたかと思うと、ひょこ、と扉の影から黄緑色の頭が飛び出した。真新しい高等部の制服を指定通りに着た、一年生の女子生徒だ。彼女は、黄緑色の髪を肩の高さで切り揃え、何に使うかは不明だが頭には赤いゴーグルを装着している。
見慣れない生徒に流架は首を傾げたが、漸く机の上を片付けた楽歩は、彼女を見た瞬間に目を丸くした。

「ぐみではないか。どうした?」
「ボクの鞄に何故か弁当箱が二つ入っていたから、お届けにあがったんです」

ぐみと呼ばれた生徒は大きな溜息を一つ吐くと、その手に持つ巾着に包まれた箱をぶらぶら揺らしながら、楽歩の机まで歩み寄った。先程まで絶望に青くなっていた楽歩の表情が、歓喜に塗り替えられていく。

「おお、でかした!」
「でかした!じゃないよ。どうせ間違えてボクの鞄に入れたんでしょ」

言って、彼女はやれやれと肩をすくめる。

その時、みしっと何かが軋んだ。我関せずと言った具合に弁当を口に運んでいた芽衣子も、目の前で奇妙な音が鳴ったのには流石に驚き、顔を上げる。それは流架が手に持つ木製の箸が悲鳴をあげた音だったが、当の本人は気づいていない。



流架は苛立っていた。



折角おかずをあげようと思ったらその必要が無くなった事を一瞬でも残念がった自分に、流架は腹が立ったのだ。

「楽歩さん、どちら様ですか?」

感情を鎮める為に、先程の思考を忘れ去る為に、流架は真っ先に思い浮かんだ疑問をそのまま口にした。何故か、意識していないのに声が冷たい。

「ああ、流架殿とは初対面だったな。この娘は…」
「中島恵、通称ぐみです」

ぐみは、回れ右をして流架に向き直ると、びしっと右手で敬礼をした。

「まあ、妹みたいなものだ」
「お兄ちゃん、あんま頼りにならないけどね。お弁当忘れたりするし、幽霊怖がったりするし」
「こらぐみ! 外であまりそういう事は…」
「沽券に関わるから言うなって?」
「……」

完全に言い負け、楽歩は文字通り頭を抱えて机に突っ伏した。

「流架…どうしたのよ?」

唐突に自分の名を呼ばれ、慌てて意識を隣の楽歩から正面の芽衣子に移す。その時になって漸く、流架は自分の手にある箸が見事にひしゃげている事に気がついた。

「いっいえ…別に…」
「そう? なら良いけど」

そう言ってくすりと笑うと、芽衣子は肉団子に箸を伸ばした。





* * *

夕方。
主婦達で賑わうスーパーマーケットのレジの近くに設けられた買った商品を纏めるスペースに、流架の姿があった。流架は、グラデーションが施された薄手のロングスカートに白いブラウスと言った春らしい格好で、次から次へと食材をビニール袋の中にかなり乱暴に詰め込んでいく。
下校してからも、流架の心は晴れなかった。
何故、自分はあの時苛立っていたのだろうか。誰も何も悪い事をしていないのに、自分一人だけ気分を悪くしていた。
心当たりは、無い事も無い。只、それを認めるのが非常に気に食わないのだ。
それともう一つ、気になる事もあった。それは、楽歩の妹だと言っていた昼間の彼女の『名字』だ。血縁なのに、何故か二人の名字は一致していない。彼女が本当に妹なら、名字も同じ『神威』ではないのか。
考えれば考える程、不愉快さと疑問は流架の中でむくむくと成長していく。このまま此処で思案の海に潜っていても仕方ないので、流架はぱんぱんに膨れたビニール袋を片手に持ち、買い物籠を定位置に戻すと、早足で自動ドアをくぐり抜けた。その頬に、ぽたりと雫が一粒こぼれ落ちる。

「え?」

顔を上げた流架の頬にまた、空から舞い降りた雫が涙のように伝う。少し間を置いて、黒い空からぽつぽつと水滴が降り注いできた。

「うわぁ…最悪…」

流架は半歩下がってスーパーの屋根の下に戻ると、空を仰いだ。ザアア、と降りしきる雨は、暫く止みそうにない。通り雨なら止むまで待つが、そうでなければ、傘を持っていない流架はこの雨の中をビニール袋を片手にずぶ濡れになって帰らなければならなくなる。



ついてない。



折り畳み傘を広げて入り口から出ていく主婦達を少し羨ましく思いながら、流架は大きく息を吐いた。

「あの~」

突然、背中に聞いた事がある声が投げかけられた。頭で声の主を推測するより早く、反射的に首が動き、背後に居た人物を視界に入れる。

「流架さん…だよね?」

流架の持つそれと同じように膨れたビニール袋を片手に提げた昼間の一年生が、大きくつぶらな瞳で流架を見上げていた。彼女は、可愛らしく人参を食べる兎の絵がプリントされた七分袖の黒いTシャツにデニムのジーンズを着用し、頭には昼間と同じように赤いゴーグルをちょこんと乗せている。

「あ…ぐ…ぐみちゃんだっけ?」
「そうだけど…流架さんはこんな所に立ち止まって何してるの?」

流架は口ごもった。傘を忘れた、なんておおっぴらに言うのは、何だか恥ずかしい。
が、

「あれ、ひょっとして傘持ってないの?」
「……」

その直球は見事に図星と言う的のど真ん中に命中した。かと言って肯定するのも恥ずかしくて、思わず俯く。
ややあって、流架は観念したかのようにこくりと頷いた。

「じゃあ、ボクの傘に入ってく? ボクん家この近くだから、お菓子食べながら雨宿りでもしてってよ。急ぎなら傘も貸すし」
「でも…」

持っていたオレンジ色の傘を広げて手招きするぐみから視線を逸らし、流架は言い淀んだ。今日会ったばかりの、しかも年下の女の子に気を使わせるのは、正直気が引ける。だが、ここで見栄を張って断っても家に帰れないのは事実だし、ぐみも気分が悪くなるだろう。

「……ありがとう」

数秒逡巡してから、流架は素直にオレンジ色の傘の中に収まった。





「へー流架さんって帰国子女なんだ」

勢いを緩める事無く降りしきる雨の中、ぐみが感心したような声をあげた。
二人は今、スーパーのある大通りから一本外れた、車一台がギリギリ通れそうな狭い道を歩いていた。左側にはコンクリートブロックの塀が道の向こうまで続き、右側にはかなり古い家々が窮屈そうに並んでいる道だ。流架の記憶が正しければ、この先は川になっていた筈だ。だとすると、右側に建てられたお世辞にも綺麗とは言えない家の中のどれかがぐみの家なのだろう。
思い切って流架は、隣で瞳を輝かせているぐみに尋ねてみた。

「ねえぐみちゃん。ぐみちゃんの家って後どれくらい?」
「ここだよ?」

そう言ってぐみが指差したのは、左側に延々と続く塀。

「へ? でもこれって…」

塀だけど、と続けようとしたが、ぐみの指が塀の向こうに向いている事に気づき、そちらに目をやった。雨と夕闇のせいで狭まった視界の中で、必死に目を凝らす。音も視界も遮断する雨粒の向こうに、ぼんやりと大きな何かが見える。
そこにあったのは、古来の日本の家と言う形容がぴったりの巨大な家だった。学校のグラウンドより大きいであろう一戸建てのその家は、立派な資材で組み立てられているのが遠目からでも分かる。屋根は瓦で覆われ、庭らしきスペースには松の木や池もあった。

「……」
「ほら、ここが玄関」

続いてぐみは、既に開いていた流架の目線程の高さの木製の門を指差す。感嘆に浸るのは取り敢えず後回しにして、流架はぐみの歩幅に合わせて少しゆっくり目に歩いた。門から玄関までの数メートルの道にも、藤の花などが美しく咲き誇っている。玄関の屋根の下に到着すると、ぐみは傘をくるくる回して水気を吹き飛ばした後、パチンと音をたててそれをしぼませた。

「広いでしょ? ボクも広すぎて暫く居心地悪かったんだ」
「え?」

その台詞が、少し引っ掻かった。が、流架がそれを問う間もなく、両手に傘とビニール袋を持ったぐみは、足でがらりと玄関の引き戸を開け放った。

「ただいまぁ」

可愛らしくて澄んだぐみの声が、玄関に通る。流架も一旦ビニール袋をどさっと床に置くと、室内を観察した。
外から見た通り、中もかなり広かった。まず玄関だけで畳十畳分くらいはあるし、そこから真っ直ぐ伸びる板の間の廊下の両隣に並ぶ襖の数は両手両足でも足りないし、奥にもまだまだ部屋はありそうだ。家全体から香る木とい草のにおいは、海外に長く居た流架には新鮮なものだった。



「おお、帰ったか」



どきり、と体が強張る。そのテノールの声には、聞き覚えがあった。いや寧ろ、毎日飽きる程聞いている声だ。勝手に鼓動を速くした心臓を内心で叱咤しつつ、流架はゆっくりと声の発信源に目をやる。
そこには、黒い帯で締めた藍色の和服を軽く着崩し、長い紫の髪をうなじの下あたりで緩く縛った、流架の予想していた人物が佇んでいた。



忘れてた。



ぐみが楽歩の妹だと言う事を。

「るっ流架殿!? 何故家に…」

一拍置いてぐみの後ろの流架に気づいた楽歩は、ぎょっと目を剥く。予期せぬ人物の来訪に、その声は少し上ずっていた。

「スーパーで会ったんだ。傘が無いみたいだから家で雨宿りしてもらおうと思って」
「はぁ…だが今宵の雨は恐らく一晩中降るぞ?」
「ええっ!?」

聞いてない。だって、今日は一日中気持ちの良いお天気になるでしょう、と天気予報で言っていた筈だ。訳の分からない事で苛ついたり、天気予報に騙されたり、今日はとことん良い事が無い。文句は後回しにして、流架はどうやってこの雨の中を帰るかを思案する。やはり、傘を貸してもらうのが妥当だろう。帰ったら直ぐに傘を乾かして、明日…は休みだから月曜日に学校で楽歩に返せばいい。
流架がそこまで考えた時だった。ぐみが突然、突拍子も無い事を言い出したのは。

「だったら流架さん、家に泊っていってよ!」
「「はあ!?」」

流架のハスキーな声音に楽歩のテノールの声音が重なり、美しいハモリを一瞬だけ奏でた。

「こらぐみ! 流架殿の都合も聞いてないのに勝手に決めるなっ!」
「明日学校休みだし良いでしょ? それに、こんな雨の中、重い荷物を持った女子高生を一人で帰らせる方が危ないよ?」
「けけけけけけ結構です! そこまでお世話になる訳にはいきませんし…」

楽歩の…じゃなくて、人様の家に泊り込むなんて冗談じゃない。傘に入れてもらって更に宿泊までさせてもらうなんて図々しい事、流架には出来ない。



「……ダメか」



ぽつり、と。
雨音に掻き消されそうな程小さなものだったが、流架と楽歩の耳はその音をしっかりと拾った。早口で言い立てていた二人は、急に歪んだぐみの声に顔を見合わせる。

「ゴメンね流架さん、無理言って…」

ぎゅっと噛みしめたその小さな唇で、ぎこちなく弧を描く。その表情は、さっき楽しそうに流架と話をしていたぐみと同一人物とは思えない程、暗くて悲しくて、寂しそうだった。

「ぐみ…」

ぐっと拳を握り締め、楽歩は流架に改めて向き直ると、キッ、と顔の筋肉に力を入れた。

「すまぬが流架殿、我が家で一泊していってくれ」
「はい!? 貴方まで何を…」

頼む、と腰を九十度曲げる楽歩。急に態度を変えられ、帰る決心を固めていた流架の心は大きく揺れ動いた。
本心では、楽歩の家に厄介になるのは御免こうむりたい。が、ぐみの沈痛な表情が、二人に背を向ける覚悟を流架から奪い取っていくのだ。それに、そこまで必死に頼まれてNOと言える程、流架は石頭では無い。

「……分かりました。一晩だけお邪魔します」
「ホント!?」

溜息混じりに言った流架の台詞に、瞳に雫を溜めていたぐみは弾かれたように顔を上げると、心の底から嬉しそうに笑った。

「そうだ流架さん、一緒にお風呂入ろ? それから布団ももう一組持ってこないと! ボクの部屋でいいよね?」

きゃっきゃとはしゃぎながら腕に絡み付いてくるぐみをやんわり宥め、流架は濡れた靴から自分の足を引き抜いた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

巡り会えたこの場所で 9

GUMIはボクっ子です。
テトさんとカブっていようと、ボクっ子です。
誰が何と言おうとボクっ子です。

ボクっ子万歳。

閲覧数:416

投稿日:2010/05/17 22:32:48

文字数:5,524文字

カテゴリ:小説

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