その次の日の昼休み。俺は購買部でサンドイッチとおにぎりを買うと、校庭でそれを食べながら音楽を聞いていた。ちなみに今日も聞いているのは『RENT』のサントラだったりする。何度聞いても『RENT』の曲はいい。
食べ終わった後も、俺はずっと『RENT』を聞いていた。……あれ、誰か来たぞ。
顔を上げると、そこにいたのは巡音さんだった。どうしたんだろう。俺は耳からイヤフォンを外した。
「……巡音さん、俺に何か用?」
「あ、えっと……」
劇場で会ってから妙に縁があるが、そのおかげで、ちょっとは彼女のことがわかってきた。無口とか人付き合いが悪いとか言われているらしいが、実際のところは、ただ単に喋るのが苦手なだけのようだ。待ってればそのうちに話すだろう。
「それ、昨日と同じ曲?」
「そうだけど」
まさかそれ訊くためだけに、わざわざ来たわけじゃないだろうなあ。巡音さんはしばらくためらった後、手に持っていた紙袋をこっちに差し出してきた。
「これ……貸そうと思って。『ラ・ボエーム』のDVDなの」
……え? 俺は紙袋を開けてみた。確かにDVDが入っている。パッケージはよりそう二人の男女の写真で――たぶん、ロドルフォとミミだろう――『La Boheme』と書かれていた。
オペラってDVD出てるのか。知らなかったぞ。
「え……いいの?」
「見たいって、言ってたから」
わざわざ持ってきてくれたのか。へえ、なんというか……。
「じゃ、遠慮なく貸してもらうよ。……あ、返すの、多分週明けになると思うけど、それでもいい?」
平日は他にやることあるから、見るのは週末になるな。
「ええ。……それじゃあ」
巡音さんは帰って行った。
土曜日の夜、晩飯の後で、俺は姉貴にDVDを見ていいか訊いた。俺の部屋にはPCがあるので、DVDならそれでも見れるけど、居間のテレビの方が画面が大きいから、できればこっちで見たい。
「何見るの?」
「オペラ『ラ・ボエーム』」
「……珍しいもの見るわね」
姉貴は驚いたようだった。ま~、それは俺も認めよう。
「『RENT』の元ネタだから、前から一度見たいと思ってたんだよ」
「別にいいわよ。今日は特に見たい番組も無いし」
姉貴がそう言ったので、俺はDVDを持ってきて、プレーヤーに入れて再生ボタンを押した。姉貴も暇なのか、焼酎のお湯割りを飲みながら一緒に見始める。
パッケージの裏面によれば、これは外国の大きな劇場の公演を収録したものだそうで、最初に映るのはその劇場の外観だ。なんだか既に別世界って感じがするんだが……中も広いし、内装もえらく豪華。早いところ中身が見たいので、この辺りは倍速にしておく。
序曲(かなり明るい)の後で、いよいよ幕が上がって、オペラが始まる。セット凝ってるなあ。十九世紀のボロアパートの屋根裏がしっかり再現されてる。ロドルフォとマルチェロの衣装も、いかにも当時の人が着てるみたいな感じだし。二人とも若者のはずなのに、役をやっているのがおっさんなのがひっかかるけど。どう見ても両方とも四十代だ。歌はさすがに上手い。普段聞く音楽とは全然違う歌い方だけど、上手いのはわかる。朗々と響くというか、声量のある歌声だ。
見ていると、『RENT』に登場したのと同じ台詞やシーンがちょこちょこでてきて面白い。「オウムのソクラテスは天国に羽ばたいていったのさ」は、「秋田犬のエビータは地獄に落ちたの」になったんだな。ミミの「ロウソクに火を点けて」や、「みんなわたしをミミと呼ぶの」もある。ロドルフォがミミの手に触れて「冷たい手だね」もちゃんと入っている。第二幕でのカフェの前で物売りが呼び交わすシーンは「クリスマス・ベルズ」にもあるし、子供が玩具屋の後を追いかけていくのは、ヤクの売人の後をジャンキーが追いかけていくシーンに変更されている。
一方で違うところも多い。コリンズとエンジェルに当たる、コッリーネとショナールはあんまり目立たない。ロドルフォとミミは一目で恋に落ちるし、積極的なのはロドルフォの方だ。「僕が暖めてあげましょう」とか言って、ミミの手さすってるし(『RENT』では、ミミの方がロドルフォに抱きついて誘いをかける)……そのくせ第三幕では貧乏な自分と一緒だと未来がないから、と、よくわからない理由でミミを捨てる。貧乏なのはどっちもどっちのはずなんだが……。ムゼッタはマルチェロと一度はよりを戻すし、第三幕の冒頭の牛乳売りのシーンは『RENT』には無い。気になっていた「ムゼッタのワルツ」は、巡音さんが言うとおり、かなり感じが変わっている。って、こっちがモトネタか。歌詞は冒頭部分のみ「テイク・ミー・オア・リーヴ・ミー」と共通だけど、『RENT』が喧嘩別れするシーンになっているのに対し、こちらではよりを戻す。……なんというか、マルチェロだらしないな。これがいわゆる「惚れた弱み」という奴なんだろうか。
一番違う印象を残すのは、やっぱり最後の幕切れだろう。病気で死にかけている割に『ラ・ボエーム』のミミはよく喋るが、それはまあ置いておいて、『RENT』ではミミは死なず、最後にみんなで、「ノー・デイ・バット・トゥデイ」を歌い上げて賑やかに終わる。一方『ラ・ボエーム』では、ミミは死んでしまい、ロドルフォが彼女の名を悲痛な声で呼んで、暗い音楽で幕切れとなる。
……うーん、俺はやっぱり『RENT』の方が好きだな。『ラ・ボエーム』はなんというか、話自体がすごくあっさりしているというか、シンプルな感じだ。その割に長いが、これは登場人物が同じことをずーっとだらだら歌ってるせいだろう。『RENT』の方が密度が濃くて、ぎゅっと濃縮されている感じがする。それに、『ラ・ボエーム』の幕切れは正直好みじゃない。最後のカーテンコールを見ながら、そんなことを考えていた時だった。
「どんだけ、こいつはヘタレなのよっ!」
不意に姉貴が叫んだ。
「ヘタレって?」
「こぉのロドルフォとかいう男よ!」
げっ、やばい。姉貴酔ってる。しかも悪酔い。普段は酔ってもケラケラ笑ってるだけで苦労しないんだけど、たまにこうなるんだよな……。オペラに集中してたせいで、姉貴の酒量にまで気を配ってなかった。焼酎の瓶、空になってるよ。
「なあにが『一番悪いのが僕の部屋の寒さなんだ』よ! かっこつけちゃってさ。どうせ同じ貧乏人なんだから、最後まで傍にいてやんなさいっての! バッカじゃないの。そんなんだから、あんたは死ぬ時も彼女の手すら握ってあげられないのよ」
参ったな……こうなると姉貴は止まらないんだ。
「大体あんたに甲斐性ってもんがないからこうなるんでしょうがっ! バイトの一つでもして薬代でも稼いできなさいっての! あれこれ言うのはそれからにしなっ!」
「あ~そうだね」
俺は適当に流しつつ、DVDをプレーヤーから取り出してケースに閉まった。このままにしておいて、姉貴に借り物のDVDを壊されても困る。
「だぁいたいこの脚本もおかしいのよっ! なんでわざわざムゼッタが『ミミは私と違って天使のような女です。だからお救いください』なんて言い出すわけぇ? 自分の勝手な好みを押し付けてんじゃないわっ、どっちらけよっ!」
「それじゃ、俺はもう寝るから」
酔っ払った姉貴の相手をしてられる程、俺も暇じゃない。こういう時は放置しておくに限る。俺はDVDケースを抱えて、自分の部屋に戻った。
次の日の朝、俺が階下に下りていくと、姉貴が梅干を入れたほうじ茶を啜っていた。どうやら、派手な二日酔いになったらしい。
「あ~、レン、おはよう……」
「おはよう、姉貴。二日酔い?」
姉貴はうなずいた。まだ顔が青い。
「私……昨日、何かした?」
「ひたすら大声でロドルフォの悪口言ってた」
姉貴はバツの悪そうな顔になった。
「ん~、なんか、あれ見てたら腹が立っちゃって、気がついたらぐいぐいやっちゃってたのよね~。次の日は休みってのもあったし」
「そんな怒るようなもの?」
ロドルフォがヘタレというのに異論はないけど、そこまでヒートアップしなくてもいいじゃないか。確かに、恋人が死ぬまでつきそってた、『RENT』のコリンズと比べるとなんだかなあと思うけどさ。
「舞台に乗り込んでって、あいつどついてやりたいと思ったわ」
そんなきっぱり言わなくても。つーか、姉貴は本当にやりそうで怖い。
「レンはあれ見てどう思ったの?」
「『RENT』との共通点とか相違点とか、色々見えて興味深かった」
「あんた、本当に『RENT』好きねえ……」
どうでもいいけど、『RENT』のロジャーはもっとかっこいいよな。もしかして、プッチーニがこれ発表した当時は、ロドルフォみたいなのがイケてる男だったんだろうか。
……幾らなんでもそれはないな、うん。
「姉貴は、今日はどうする?」
「ん~、まだ頭痛いから家でゆっくりしてる。あんたは?」
「俺? 俺は映画でも見に行ってくるよ」
折角の日曜だし、天気もいいし、家でくすぶっているのはもったいない。俺は冷蔵庫を開けて、昨日の残り物を取り出した。料理するのは面倒だから、朝飯はこいつでいいや。
「姉貴も食べる?」
「いい……食欲無いから」
「わかってんならそんなに飲まなきゃいいのに」
「うっさいわね」
姉貴は不機嫌そうにそう言った。これ以上刺激するとぶちきれるな。ここまでにしとこう。
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