14.後編
細長いゴンドラの真ん中でスティーブの方を向いて腰を下ろす。
こういう小舟に乗るのは初めてだけれど、意外に揺れるな、というのが率直な感想だった。
「じゃ、お二人様ごゆっくり」
ダンが手を振るのに、わたしは微笑んでうなずき返す。
「じゃ、出すよ」
スティーブがオールを漕ぎ、ゴンドラがゆっくりと河岸を離れる。
下手にスピードを出すこと無く、スムーズな離岸だった。
「お上手ですね」
「いや……それほどでも」
少し照れたようにスティーブが鼻をこする。
ダンはああ言っていたが、実際に彼の操船がこんなに上手だとは思っていなかった。いい意味で裏切られた格好だ。
ゴンドラを操るスティーブの姿は結構サマになっている。
「この運河は流れも穏やかだし、漕ぎやすいんだよ」
「そうなんですね」
運河の色は暗い灰色で、あまりいい臭いでもない。期待はしていなかった。けれど、緩やかなゴンドラの移動は、見慣れた場所の筈なのにどこか別の空間にいるようで、思っていたよりも心地いい。
「なんだか久しぶりに……落ち着いた時間を味わっている気がします」
「それならよかった」
ホッと安心したように、スティーブが笑う。
わたしから見れば、まだ幼さと甘さの見え隠れする笑みを。
だけど、それもまあいいだろう。自分の仕事に追われていた毎日から、急に切り離された穏やかさというのは、実際久しぶりだ。
「僕の小さい頃は、まだこの運河の水も綺麗でさ。ゴンドラも結構人気だったんだよ。運河の上流の方に発電所や下水処理施設なんかが出来て、河の水が濁ってからは閑散としてるけどね」
「ふうん」
「まあでも、最近は貨物船が運河を通ることも無くなって、ゴンドラを漕ぎやすくはなったかな」
内陸への鉄道や大型トラックが発達したお陰で運河が用済みとなったのはここ数年のことだ。
運河は汚くなったが、同時に穏やかになったということか。
「少し前に捕まってたけど、あのエコロジストって人の言ってること、少しは合ってたんだと思う」
環境活動家、レオナルド・アロンソか。
「彼を……革命を、支持していたんですか?」
「いい人だと思ってたし、応援しようとも思ったよ。……革命に参加して、テロリズムを扇動し始めるまではね」
「そうですか」
レオナルド・アロンソが扇動したのではなく、“扇動せざるを得ない状況に追い込まれた”という事実を知ったら、スティーブはどう思うだろうか。そして、彼の耳を噛み千切り、殺したのがわたしだと知ったら……どんな顔をするだろう。
「でも、本気で何かを変えようと思ったら、そこまでの事をしないといけないのかもしれない。都市を牛耳ってる偉くて悪い人をどうにかするには、無理矢理退場させるしかないのかなって」
「……」
「市長が病気で亡くなったでしょ? でもそのあと新市長になりそうなのは市長の息子だって噂だ。結局、そういう仕組みってそう簡単には変わらないんだね」
「そうかもしれませんね」
スラムの人間からしたら、市長が先代の息子になるというのは、ある意味絶望的な現状維持が明確になったという事だろう。
息子の新市長就任式があれば、恐らくわたしは出席することになるだろうけれど……そこまで知ったら、スティーブはさすがに幻滅するだろう。
「テロには反対だって思ってたけど……誰だったかな……前市長の友人だとかいう人が殺された時、僕や、僕の周りの人たちは喜んだんだ。これでやっと良くなる、って思って」
「……なに?」
「不謹慎な事かもしれない。あんまりいい考えじゃないのかもしれない。でも、リンはそんな風に考えたりしなかった?」
ちょっとした罪を白状したとでも言いたげに、スティーブは弱々しく苦笑する。
「まあでも、新市長就任が決まれば、やっぱり変わらないんだなって思うんだろうけどさ」
わたしは目を丸くして見返す事しか出来なかった。
「……」
なに言ってんだ、コイツ。
殺された市長の友人。そんなの……アレックスの事に決まっている。
アレックスが死んだのは、良かった事だって言ったのか、コイツは?
「リン?」
「……」
アレックスだけだった。
弱者を虐げて自分達だけが甘い汁を吸ってばかりいたあの富裕層の穀潰しどもの中で、貧しい者たちにも富の再分配をしようとしていたのは、アレックスだけだった。
彼が唯一、諍いの無い方法で貧者を救おうとしていた。
なのに、当の貧者どもはアレックスの死を喜んでたっていうのか?
「アハハ……」
「……?」
「ははは……ククッ。カカッ、カハハハハッ!」
お笑い草だ。
アレックスの努力が、無駄でしかなかったなんて。
いつか聞いたマリー・アントワネットの話を思い出す。
贅沢ばかりして、「パンが無ければお菓子を食べれば良い」などと言い、国民に嫌われた彼女はフランス革命で処刑された。
だが、そんな有名な逸話は嘘だらけだ。
マリー・アントワネットは「パンが無ければお菓子を食べれば良い」なんて言ったことなど無いし、ベルサイユの習慣なんかを廃止、簡素化して節税に努めていたりする。貧困にある者達のために宮廷でカンパを募ったこともある。
マリー・アントワネットは自らの行いを国民に知られる事なく、国民により殺された。
……アレックスとそっくりではないか。
「リン……?」
突然笑いだしたわたし――オレに、スティーブが呆然とする。
「誰の死を喜んだんだって? 名前を……言ってみろよ」
「え? ……え? リン……?」
「言ってみろっつってんだよ!」
オレは立ち上がって睨み付ける。
もう、作り笑いをコイツに向けることなんか出来ない。
「思い出せよ! そいつの名前を!」
「それは、その……。確か……ア、アレッ……クス……?」
「そう。アレックスだ。アレックス・ニードルスピア」
「ニードル……スピア。……え? それって――」
オレは手提げ鞄からデリンジャーを取り出し、セーフティを外すとおもむろにスティーブに狙いを定める。
「スティーブ・マクラーレン。リン・ニードルスピアの名に置いて汝の罪を裁かん。己が罪を数えよ」
夢想していたとき、今よりも大人となった自分が口にしていたのと同じ口上が、自然と口をついて出た。
「な、何をそんな冗談なんか――」
うろたえるコイツの声なんか無視して、オレは冷たい声で断罪する。
「アレックス・ニードルスピアの死を肯定した罪。リン・ニードルスピアの夫を侮辱した罪だ」
「ちょっ……ちょっと待っ――」
引き金を引く。
軽い引き金のワリに、びっくりするほど大きな発砲音と反動。
オレは少しびっくりして目を閉じてしまった。
「ぐあっ……」
慌てて確認し直す。
スティーブは脇腹に手を当てていて、そこから黒い染みが服に広がっていた。それは本来なら赤い色をしているのだろう。
当たりはしたが、致命傷には程遠いように見えた。
「なん、で……」
理解が追い付かないスティーブに近づき、告げる。
「なんで、ってのはオレの台詞だ」
「ぼ、くは……」
「うるせえよ」
オレはスティーブの身体を押す。
大して力をかけた訳じゃねぇが、かろうじて立っていただけに過ぎないコイツにゃそれで十分だった。
簡単にバランスを崩し、運河に落ちる。
ドボン、なんてみっともない音と水柱を上げるスティーブ。
「う……わわ」
同時に激しく揺れるゴンドラにオレは立っていられなくなり、しゃがんでゴンドラの縁をつかんだ。
すぐ脇の水面で、バシャバシャと暴れるスティーブ。
「リン! た、助け……僕……」
「辞世の句なんか……真っ平だ」
オレはオールを手に取り、スティーブを沈める。
「がぼ……お願……リン……」
「……黙れよ」
オールに体重をかけて、男の身体を水面から遠ざける。
どれくらいの時間がかかったのかはわからない。きっと一、二分だ。
水が濁っていてよく見えないが、ずいぶん暴れ、ぼこぼこと気泡が泡立ち……やがて静かになった。
「……ッ! ハッ、ハッ、ハァー」
張り詰めていた緊張の糸がそこでようやく緩み、オールを手放してどっかりとゴンドラに座り込む。
衝撃でゴンドラが揺れるが、今は気にならなかった。
激しく息を吸い込んでみてから、スティーブを沈めている間ずっと、自分が息を止めていたのだと知る。
「ふー。……ふー……」
なんとか、ゆっくりと息を整える。
ゴンドラ横に、さっきのオールとスティーブだったモノがぷかりと浮いてきていた。
「……」
オレはオールに手を伸ばし、手繰り寄せると、それを使って河岸に戻る。
使った事など無いから、まっすぐになんて漕げなかった。さっきのスティーブの仕草を思い出してなんとか戻ろうとするが、なかなかうまくいかない。
……結局、かなり無駄な時間を要してなんとか河岸に戻った。
繋留所からは随分離れてしまったが、そんなことはどうでも良かった。だが、相手はそうでもなかったらしい。
「お、おい嬢ちゃん! 一体何があったんだ? スティーブをどうしたんだ」
繋留所から走ってきたダンは、なんとかゴンドラから降りるオレに向かってまくし立てる。
……そりゃそうだ。見られてて当然だよな。
「……チッ」
仕様がねぇな。
「おい嬢ちゃん、聞いてんのか? スティーブを……嬢ちゃんが殺したってのか……?」
未だに見たものが信じられないらしく、中年男性は呆然と呟く。
見られたんなら、仕方がねぇ。
「ワリィな。恨んでくれて……構わねぇよ」
どうせ、アンタもアイツと同じでアレックスの死を喜んだクチなんだろ?
オレはもう一度デリンジャーを構え、中年男性の胸を撃つ。
二度目だから、今度は目を閉じずに済んだ。さっきよりも的がデカイのもあり、ちゃんと胸に命中。赤い筈の……黒い花が咲く。
「なん、で……そんな……」
何も理解出来ていない、困惑した顔で、ダンは胸に手をあて、よろめき……オレに倒れかかる。
「クソッ……」
咄嗟にデリンジャーの引き金を引くが、カチンと乾いた音が鳴るだけ。そうだ。三発目は撃てない。弾切れだ。
ダンを避けられず、抱き留めるような格好になってしまう。が、その身体からはすでに力が失われていた。オレが数歩下がると、そのまま地面に倒れ伏す。
見下ろすと、オレの服はコイツの血で真っ黒になっていた。
オレの色は白と黒のままで、元の鮮やかな色が戻ってくることなんか無かった。
「……」
オレはなんとかダンだったものを運河に沈め、その場を立ち去る。
服は黒にしか見えないが、おそらくかなり目立つ色だろう。なんとかしてディミトリに迎えに来てもらわないと。
「気分、ワリィぜ……」
顔を上げると、暗く曇った空から霧雨が降りだしてきていた。
……ディミトリの言った通りだった。
戯れもほどほどに、だな。少し油断すると、こんなことになる。
「……」
まあいい。予想外に不快な出来事だったが、これは……意味がないわけではない。
何か、名前をつけよう。
スティーブを殺したみたいに、他者を断罪するための……影の断罪者の名前を。
オレの事を暗示させるものがいい。そしてなおかつ、アレックスの事も暗示させるような。
「ブラック、ウィドウ……」
漆黒の未亡人。
ふと思い付いたそれは、やけにしっくりきた。
喪服の断罪者。
これだ。
これで罪人を裁こう。
オレが都市を壊滅させるまで、そうやってこの都市を生き永らえさせようじゃないか。
都市が寂れてしまっては困る。
最高に繁栄した都市をぶっ潰す。
それがオレの復讐だ。
その為に、オレは――。
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