FLASHBACK1 K-mix side:A
逃げ出してきてしまった。
たまたま入ったビルの三階にあったバーで、適当に頼んだウイスキーのグラスを見つめながら、カイトはそう後悔した。
一口そのウイスキーを喉に流し込むと、カッと焼け付くような痛みすら感じる。ウイスキーの旨さなどカイトにはいまいち分からなかったが、その痛みはこの表現しがたい気持ちを紛らわすことが出来たような、そんな気がした。
窓辺のカウンター席で片肘を付いて、ぼんやりと窓の外を見下ろす。だが、ついさっき、ミクに会った頃から降り始めた雨のせいか、外の様子はいまいちよく分からない。窓の行き交う人々は色とりどりの傘を差しているせいで、カイトのいる場所からはその姿はわからなかった。時たま、その合間を走り抜けるようにして数人の人が駆けていく。突然降り出した雨に、傘を持っていなかったのだろう。カイトは、そうやって駆けていく人々の中にミクの姿を捜していた自分に気付いて、思わずため息をつく。
(まさか、俺のことを見つけて欲しいだなんて思っているのか、俺は?)
カイトはかぶりを振る。
(ミクの想いに何と答えればよかったのか分からなくて、こんな所にまで逃げ出してきたっていうのに。ったく、俺は……本当に救いようがないな)
カイトは片目を覆い隠すくらいにまで伸びてきた髪を無造作に掻き上げて、自嘲するようにやれやれと嘆息した。
分からなかったなんて、自分を正当化するための言い訳だ。本当はミクに何を言わなければならないのかということくらい、カイトはわかっていた。言えないまま先延ばしにしていたとはいえ、いつまでも黙っている訳にはいかないのだ。
自分とルカの、その関係のことを。
カイトはまた髪を掻き上げて、グラスの中身を一息に飲み干す。
「……」
もうカイトには、ミクの想いに応えることなど出来ない。してはいけない。ルカの想いに応えてしまった時点で、それくらいのことはカイトにも理解出来る。だが……。
「はぁ……」
カイトは、さっきのミクの態度を思い返して、もう一度重いため息をつく。
いつものようにカイトがルカのマンションに行く道の途中で、たまたまミクに会ったのだ。カイトがルカのマンションに向かう時にいつも通る道で、ミクにばれないようにとわざと大きく遠回りするようにしていたのだが、今回に限っていえばそれが裏目に出てしまったのだろう。
ミクは、カイトの姿を見つけるなり駆け寄ってきた。会った場所はまだルカの家の方角とは全然違っていたから、カイトがルカに会いにいっていたということはミクには分からないだろう。そんな風にカイトは考えた。
ミクはまだ、カイトとルカの関係を知らない。ルカも、ミクに告げられずにいるのだろう。なぜなら、二人ともミクの想いをよく知っているからだ。
ミクもまた、ルカと同じようにカイトに想いを寄せているのだから。
すでにカイトがルカと付き合っているなんてことを告げたら、ミクがどれほど傷付くのか。そんなことカイトには分からなかった。けれど、きっと物凄くショックを受けるだろう。ミクのそんな姿をカイトは見たくなかった。だから言えなかった。言わなかった。挙句、下手な言い訳などしてこうやって逃げ出してきたのだ。
カイトはまた、同じ銘柄のウイスキーを注文する。あまり酒に強い訳ではなかったが、なぜか酔いは回ってこなかった。ルカにはすぐに行くなどと言ったが、どうもそんな気分にはなれなかった。
不意に、しがみつくようにして抱き付いてきたミクの感触が蘇ってくる。
ミクが着ていたのは薄手の服だったのだろう。黒いワンピース越しに感じたミクの身体は、ほっそりとしている割には意外なほど柔らかく、何もかも忘れて抱き締めてしまいたくなるほどに魅惑的だった。いつもは意志の強さが感じられる大きな瞳が、揺れるように、不安そうに見上げてくる光景がカイトの脳裏から離れない。ルカの大人の女らしさとはまた違う、年頃の女の子らしい魅力にカイトはうろたえた。むしろ、あんな風に迫ってきたミクに自分の欲望をぶつけてしまおうなどということをしなかった自分の自制心に、つい感心してしまうくらいだった。
ウェイターがやってきて、カイトに新しいウイスキーのグラスを持ってくる。同時に空になったグラスを下げていくその様子を、カイトは何の気なしに眺める。
ふと思い出したように、カイトは財布に入れていた一枚の写真を取り出した。カイトとミク、そしてルカの三人が写っている一枚の写真。数年前、大学で撮った物だ。
カイトの手前ですました表情をしているルカと、その二人の前でカメラに向かって無邪気な笑顔を浮かべてピースサインをするミク。その写真に写るミクを見て、あの頃はこんな風に思い悩むこともなかったな、などとカイトは思った。彼はその写真をしばらく眺めると、カウンターのテーブルに置いて目元を押さえる。写真に写るミクの眩しい笑顔が、まるで自分を責めているように感じられたからだ。
(ミク……俺は)
あの時、胸元でカイトを見上げたまま瞳を閉じたミクの唇は、きっとこのウイスキーなんかよりもよほど美味しかっただろう。必死になって我慢をしたものの、彼女の唇を奪ってしまっても、おそらくミクは嫌がったりしなかったのではないかと思う。いや、ミクはそれを望んでいた筈だ。だが、そうしてしまえばカイトは自分を抑えきれなくなってしまっていただろう。彼女の身体を、あますことなく奪っていたかもしれない。
沸き上がってくる、そんなミクに対する黒い感情は、きっと飲み慣れないウイスキーを飲んでるからだ。カイトは無理矢理そう結論づけて、冷えたグラスを握り締める。手のひらから伝わってくる、ひんやりとした冷たさが心地よかった。
カイトはそうして、少しだけ冷静さを取り戻したつもりになると、ウイスキーのグラスをあおり、琥珀色のそれを流し込んだ。
この胸の痛みが良心の呵責だと分かっていながら、カイトはその痛みを誤魔化そうとウイスキーで喉を焼いた。
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