足早に学校まで来たせいか、私の息は上がっていた。
”休み時間に教室で待っててーー!!”
奈々、彼女は一体何を思って私にそう言葉をかけたのか。
お堅いガリ勉、それが私の周りから思われやすい人格だろう。
話しかけても反応は冷めているし、薄い。
なのにどうしてあんなにも短時間しか一緒にいなかったというのに私にああいった言葉をかけられるのか、全くもって理解不能だった。
「へんなひと」
ぽつりと、そう言葉をこぼして私はローファーを脱いで上履きに履き替えた。
昇降口には人が出入りし、生徒同士であいさつする姿が見受けられた。
勿論、私にあいさつをするような輩は一人もいない。
そうだ、これが当たり前なのだ。
誰も私と関わろうとしない。私からも関わろうとしない。
誰からも干渉を受けない。
あるのは自分の時間だけ。
他人と分かち合う時間など、必要性を微塵も感じない。
ふと、脳裏によみがえる。
夜、一人で泣きながら駐車場で蹲る少女。
車の陰に隠れるように、声を必死に押し殺し歯を食いしばり肩を震わせていた。
『…っ…っっ!』
ずっと、誰かの名前を呟きながら夜の暗闇に飲まれまいとするかのように身を固めていた。
真っ暗な世界に一人泣きじゃくる少女は、見ているだけで痛々しく自分の胸も苦しくなった。
声をかけようともした。手を伸ばそうとも思った。
でも、私になにができる?
声をかけても「大丈夫?」としか言えない。
あんな風に泣きじゃくる少女に、泣かないでなんて言えない。
泣きたい時に泣けないなんて、それほどまで苦しいことなどない。
今、少女に声をかけても彼女は私を突き放すのではないか。
見ず知らずの他人にそんな言葉をかけられたら、もっと自分の世界に塞ぎ込んでしまうのではないか。
そんな恐怖心があった。
私は、ただひたすら心の中で彼女の悲しみを傷むことしかできなくて
暗闇の中蹲る少女は、ただただ誰かの名前を呟き、泣きじゃくっていた。
あんなにも苦しそうに、ずっと、ずっと一人で。
いつだったかは分からない。
ただそんな光景を、私は見たことがあった。
知りたくない。
あんな風に泣かなければならないのなら、他人と関わることで得られる幸福感なんて、知りたくない。
そうだ、私は弱い。
もし、奈々と関わることで、そんな感情を知ってしまうことになるのなら・・・
そこまで考えて、私は思考を断ち切った。
朝からこんなことは考えていたくない。
教室へ向かうため廊下を進み、階段を上がって一年生の教室が並ぶ階へたどり着く。
六組と書かれたプレートが下げられた教室へと足を踏み入れる。
昇降口や廊下にはそこまで多いというわけではないが人はいたのに、六組の教室にはまだ数人しか来ておらず、中は静かだった。
教卓の目の前にある、自分の机へと向かう。
鞄を開け、中身を机の中へと移す。
そして私は鞄の中から少しばかり分厚い愛読書を取り出した。
『源氏物語』
紫式部が書いたと言われる有名な作品の一つだ。
もう何年も前から何度も、何度も読み返している。
別に恋愛がしたいわけじゃない。
そんなことに興味はないけれど、ただこの本を読んでいると、とても幸せな気持ちになれるからだ。
本の中だけで描かれる女性という”花”たちの恋物語。
とても甘酸っぱくて、切なくて、苦しくて、けれどどこか暖かく、いつまで浸っていたくなる世界観。
本当に私が大好きな本だ。原文も全て読み込んでいる。
そうして、私は本の桃色の栞が挟んであるページを開き、花たちの恋物語を読み始めた。
HRが終わり、一時間目の現国が終わり、休み時間が訪れた。
私は愛読書を読みつつ少しだけ入口の方へ注意を向けていた。
果たして奈々は来るのだろうか。
来ないなら来ないで構いはしないのだが、やはり少しばかり気になっていた。
数分立って、長く真っ直ぐな金髪の少女がひょっこりと教室の入り口から教室の中を覗き込んだ。
……まさか、本当に来るだなんて
彼女は呆然としている私を見つけると、嬉しそうに笑い、手を振った。
「世良!」
私は椅子から立ち上がり本に栞を挟んで彼女の方へ向かっていった。
クラスの女生徒が不思議そうに私たちの事を見比べている。
奈々はそんな女生徒たちの視線など眼中に無いようでそのまま私を廊下へと連れ出した。
「さてー、じゃあちょっと僕がこれから聞くことに答えてもらおうかな」
奈々は私の顔をいたずらっぽい笑みで覗き込んでそういった。
表情とは対照的にそういった奈々の瞳は絶対にはぐらかすことを許さないという目をしていた。
「なに?」
私は人と目を合わせるのは嫌いだけれど、奈々の醸し出す雰囲気からそういうわけにもいかずしっかりと奈々の目を見据えた。
おそらく今朝の私の行動についてだろう。
「世良、君。僕と一緒に生徒会に入らない?」
一瞬、彼女の言葉が全く理解できなかった。
「は?」
「僕と、生徒会に入らない?」
奈々がにこやかに告げる。
何故、そこで生徒会なんだ。そして何故”私を”誘うんだ。
今朝の私の態度についての質問ではないのか。
「………。」
何も言えずに呆然としていると、奈々の瞳が急に気弱になり不安げに揺れた。
……な、なに…どうしてそんな顔するの!?
今朝思い出したばかりの昔駐車場で泣いていた少女の事が頭に浮かぶ。
このまま私が断ってしまえば、奈々もあんな風に落ち込んでしまうのだろうか。
そう考えると、胸の奥で何かが擦れるような感覚がした。
そんなのは嫌だ。誰にもあの子のように泣かせたくない。落ち込ませたくない。
相手が落ち込まないように何かできるときに、何もしないなんてことはしたくない。
強く、そう思った。
しかし人と関わることに免疫を持たない私は不安げにしている奈々に、うまく自分の意思を伝えるにはどうしたらいいかいちいち深く考えなければならなかった。
「べ、別にやっても構わないけど…立候補の仕方なんて、私わからないわ…」
やっと、それだけ言えた。
しかしそういったとたん、不安げな様子から一転、奈々は思いきり表情をほころばせてくれた。
「……ほんとに!?やった!やった!ありがとう世良!」
奈々が私の手を取り上下に激しく振る。
…周りからとても注目を浴びている……!
喜んでくれるのはいいが、ちょっと…いくらなんでもはしゃぎ過ぎではないか。
「いやー、いやーよかったよ!!世良に断られたらどうしようかと思ったよ!一目見たときから君にならぴったりだと思ったんだ!!ナイス人選だよね僕!」
一人はしゃぎまくる奈々に若干引きつつ私は奈々に訪ねた。
「ねぇ、なんで私なの」
「ん?」
奈々が目をぱちくりさせる。
「だから、なんで”私”を生徒会に誘ったの」
さっきよりも強い口調で、しっかりと奈々を見据えて言う。
私たちは今朝会ったばかりで、会話だってそこまでしていないはずだ。
じっと奈々を見つめる。
すると、奈々は大人っぽくふっと微笑んだ。
「だって世良、この学校そこまで制服には厳しくないのに律儀にちゃんと制服を校則通りに着てるし、髪だって邪魔にならないようにおさげに結んでてさ、可愛いし。けど伊達メガネなんてかけちゃって、目付きもキツく釣り上げちゃってお堅そうで真面目っぽく見せてるとことか最高にキュートだよね。うん。まあでもその見た目なら生徒会に入る人間としては生真面目な人って感じで好評得られそうだし。」
……それってなに、パッと見の外見で生徒会に合いそうだからって事?
しかしその前の発言は色々と解せない。
このおさげが可愛い?目を吊り上げてる?真面目っぽく見せてる?キュート?というかなんで伊達メガネだと分かるのっ
「……生憎目付きは生まれつき悪いのよ。伊達メガネは人と目を合わせるのが嫌いだから。人と関わるのもそこまで好きなわけじゃないし。」
そう周りに聞こえにくいようにぼそぼそと告げると
「そっかそっか!世良はシャイなんだね!」
奈々は晴れやかな笑顔でそう返してきた。
どうしたらそんな解釈になるというの。人と関わるのが好きではないと言っているでしょう。どういう思考回路をしているの。
言いたいことは山ほどあったが何を言っても無駄そうなので黙ることにした。
「まあ生徒会選挙とかはまだ少し先だし、世良の方は僕がいろいろ準備してあげるから気楽にしてていいよ。」
奈々はそういったが、今まで人と関わることが嫌いだった人間が人前に立つ仕事をしようと誘われて気楽にしてていいと言われたって気楽になんてできるはずがなかった。
奈々には気づかれないよう、小さくため息をつく。
「あ、ねね、世良ー」
今度は何だというの
「なに?」
「むむむむ…もう少し愛想良く反応出来たら合格なんだけど…」
それが出来るというのは不可能に近いわ
「まあいっか。ね、世良。伊達メガネとって笑ってみて」
……駄目だ、今彼女が言ったことが、私には理解できない。
また呆然と立ち尽くしていると、その隙に奈々がいたずらっ子のように微笑み、私がかけていたメガネを取り上げてしまった。
「ちょ…っ」
いきなりの事でびっくりしていると、ただでさえ注目が集まっていたというのに周りがより一層こちらに目を向けざわつき始めた。
『え…嘘っ!あの人すごい美人じゃん!』
『…驚いてる顔初めて見た…かわいいー』
周りからそんな声が聞こえた。
急激に頬が熱くなり、ぐっと手を握りしめ、私は奈々を睨んだ。
「ちょ、ちょっと世良、そんな睨まないでよ…せっかく驚いた顔すっごく可愛いのに。元が美人なんだからそんな顔しちゃだめだよ。」
「いいから、返しなさい。」
奈々の手からメガネを奪い取り、かけなおす。
「別にそんなことして素顔隠さなくったって…」
「うるさいわね!!」
廊下に響き渡る声で、私は怒鳴った。
私たちを見ていた生徒がそそくさと目を逸らす。
なに、ほんとになんなのこの子。
少しでも関わるのが嫌じゃないとか、落ち込ませたくないと思って行動した自分が信じられない。
「用件はもうないわね。戻るわ。」
一方的にそう話を打ち切り、教室へ戻る。
教室で雑談をしていた生徒たちが気がかりそうに私を見たが、私がそちらへ目を向けると目を逸らしひそひそと何かを話していた。
席につき、次の授業の用意をする。
「…っ…なんなのよっ」
私は小さな声で、吐き出すようにそう言った。
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