ハルジオン⑥ 【小説版悪ノ娘・白ノ娘】
第二章 魔術師ルカ パート3
何よ、ルカまで!ルカとの謁見を数分で切り上げたリンは、大股で私室へと入室するとそのままベットに飛び込んだ。そのまま枕に顔をうずめて、軽く歯ぎしりをする。少し視線を逸らせると、一本丸太から作成された幅三メートルはあるだろう大きな机がリンの瞳に映る。その机の上には、以前レンが採取したハルジオンが飾られてあった。好きなハルジオンの花を見れば少しは気分が晴れるかと思ったが、そんなことは無かった。むしろ、枯れかかっているハルジオンに気が付き、余計に気分が悪くなる。レンが作ってくれたハルジオンの押し花の栞もその机に置いてあるが、花弁を採取された当時のままに保存したその押し花でさえもリンの心の慰めにはならなかった。
皆解ってくれない。改めてそう考えて、無性に腹が立ち、そして悲しくなった。ルカなら私に対して何も言わないと思ったのに。どうして皆、私の好きなようにやらせてくれないの。あたしは女王なのに。農民のことなんて知らない。飢饉といわれても、よく分からない。ご飯くらい、いくらでも食べられるでしょうに。
それが重大なことであると、リンは理解できなかったのである。リンが知っている世界は余りにも狭かったのだ。恵まれた王宮育ちであるリンは庶民の暮らしを知らない。ましてや飢饉がどのようなものであるかを理解できる訳がなかったのである。そうやって悶々と過ごしていると、私室の扉がノックされた。リンが時計を見ると、短針が三時を指し示している。
レンだわ。そう思い、ベットから起き上がったリンは入室の許可を出した。静かに入室してきたレンの姿を見て、リンは思わず心が安らぐような気分を味わう。愛情とは少し違う、不思議な感覚。この感覚はなんだろう。そう思ったが、リンは深くは考えず、代わりにレンに向かってこう言った。
「レン、ルカまで内務大臣の口癖が移ったみたい。」
「ルカ様が。どうなさったのでしょうか。」
手際良くブリオッシュの準備を始めながら、レンはそう答えた。ハルジオンの花瓶の向こうで、レンがブリオッシュをカットしてゆく。その様子を眺めながら、リンはこう言った。
「国民が飢えているとか。」
「・・そうでしたか。」
少し言葉の詰まったレンを見て、リンはまた少し機嫌が悪くなるような気がした。世界の全ての人間がリンに敵対しても、レンだけはリンの味方になってくれると思っているのだ。
「何よ、レンもルカと同じことを言うの?」
だから、その言葉には怒りよりも悲しみの成分が多く含まれていた。その表情を見て、レンはすぐに表情を作りかえる。
「いいえ、そんなことはありません。」
レンは無理に作ったような笑顔を見せながら、ブリオッシュを丁寧に小皿の上に置き、リンの目の前の机に置いた。
「なら、いいけど。」
リンは納得しきっていないというようにそう言うと、レンが用意したフォークを手に取り、ブリオッシュを一口サイズにカットしてから、その形のいい唇の奥に放りこんだ。甘くておいしい。そう思いながら、静かに咀嚼する。
「そう言えば、カイト王からの返信は来たの?」
甘いものを食べた途端にルカの言葉が少しは頭から消え去ったらしい。少しは機嫌の良くなった口調で、リンはレンに対してそう訊ねた。
「いいえ、まだ。」
「・・そう。」
レンの言葉を聞いたリンは寂しそうに俯いた。先日カイト王からの恋文を頂戴した時にすぐに返信の手紙をリンは書いたのだが、それから一カ月余り、カイト王からの音沙汰が全く無いのである。
まさか、お忘れになられた、なんてことはないわよね。心が氷で包まれて、強制的に冷やされていくような感触を味わいながら、リンはもう一口、ブリオッシュを口にした。不思議なことに、さっき食べた時には甘かったブリオッシュが少し苦く感じる。
「おそらく内務にお忙しいのでしょう。お気に病みませぬように。」
レンが弁護するようにそう言ったが、リンは一つ頷くだけだった。一度カイト王を疑いだすと止まらなくなる。もし、あたし以外の女性と睦まじくされていたら。そう考えて、胸が絞られるように痛むことを覚えた。今すぐお会いしたい。考えてみれば、カイト王に一年くらいお会いしていない。
「・・次にカイト王にお会いできるのは何時かしら。」
絞り出すように、リンはレンに向かってそう言った。
「次は夏になりますでしょうか。ミルドガルドの王族貴族を集めての遊覧会が夏に予定されております。」
「そうね。」
そう言えばそんな会合もあったな、とリンはレンの言葉を聞いて思い出した。遊覧会はミルドガルドの三か国の交流を深めるために毎年開催されているものだ。三か国が順繰りに担当を行っており、今年の開催は緑の国が主催国となっている。
「それまで、今しばらく御辛抱下さいませ。」
レンはリンの心中を代理するようにそう言った。それに対して、リンは沈黙したまま一つ頷いた。前にカイト王にお会いしたのも昨年の遊覧会だったはず。その事実を思い出したのである。私的な理由でお会いしたことは記憶にないとリンは改めて認識し、そしてカイト王はあたしのことをどう想われているのだろうか、と考えた。
あたしの心も、このハルジオンの様に枯れるのかしら。
偶然目に入った、枯れかけたハルジオンの花を見てなぜかそう思い、苦い薬を無理矢理飲まされたような表情をしたリンは、レンに向かってこう言った。
「レン、新しいハルジオンを摘んできて。」
花を新しいものに変えれば気分も変わるだろう、とリンは考えたのである。
「畏まりました。本日中にご用意致しましょう。」
リンの忠実な召使はそう言うと、ブリオッシュを片づけてから、恭しく退出して行った。一人になった私室で、リンはレンが作ったハルジオンの押し花へと視線を向けて、そして何となく眺めた。良くできている栞だった。レンが新しいハルジオンを摘んでくるまで、この押し花を眺めていよう、とリンは考えて、机に置かれたままになっていた栞を手に取った。
その頃、練兵場には一組の男女が対峙していた。メイコとガクポである。
「大陸一の剣士と評されるガクポ殿と手合わせできるとは、光栄の極みです。」
メイコはガクポに向かってそう言った。手にしているのは練習用の木刀である。
「恐縮です。」
強く射すくめるメイコの視線を受け流す様に微かに笑ったガクポはそう言って、メイコと同じように手にした木刀を構えた。
成程、油断できない相手だな。ガクポの構えを見て、メイコは一瞬でそう判断する。
手合わせを申し出たのはメイコであった。ガクポがリンの護衛を務めることになったと聞いた瞬間に、メイコは二つの興味を持ったのである。一つは、どうしてガクポが連れてこられたのか、ということ。もう一つは、一体どれほどの腕前であるのだろうか、ということである。
ルカ様がお連れしたということだから、相当の理由があるのだろう。一つ目の理由に対してメイコはそう考えることにしたのだが、二つ目の疑問は実際に戦ってみないと分からない。そう思い、ガクポに手合わせを申し出たのである。その申し出に、私室でくつろいでいたガクポは笑顔を見せると、二つ返事でメイコの申し出を受けたのだ。
そして今、二人は練兵場で向き合っている。さて、どこから仕掛けようか。メイコはガクポの隙のない構えを見て、僅かの間思案することにした。正眼に構えたガクポに真正面から突撃することは得策ではないとは判断できたが、他に攻撃の起点となる場所もない。
仕方ない。メイコはそう考えて、先に仕掛けることにした。真正面から剣を振り下ろす。女性にしては背の高いメイコは通常勝敗の優劣を決める男性とのリーチの差が少ない。その為、唐竹割りでも十分な攻撃力を発揮できるのである。そのメイコの突撃を、ガクポはゆるりと剣を持ち上げて受け止める。乾いた音が練兵場に響いた。すぐに引いたメイコは次に袈裟切りを放つ。それもガクポは受け止めた。成程、実力差は相当あるということか。渾身の一撃を二度も受け止められたことで、メイコはそう判断した。次の瞬間、ガクポが動いた。目にも留まらぬスピードで剣を振り上げると、そのままメイコの右腕目がけて振り下ろしたのである。
まずい。そうメイコが判断し、反応しようとした時にはすでにガクポの剣がメイコの右手首に炸裂していた。衝撃で木刀を手放す。地面と激突した木刀が横倒しに倒れた。
「一本、ですね。」
構えを解いたガクポがそう言ってメイコに笑いかけた。
「ええ。確かに大陸一の腕前という評判通りのようですね。手も足も出なかった。」
悔しがるどころか、むしろさっぱりとした表情で、メイコはガクポに向かってそう言った。痛みに関する言葉を述べなかったことは流石と言うべきであろう。
「それほどでも。メイコ殿も相当の腕前でしょう。」
笑顔のままでガクポはそう言った。
「ご謙遜を。」
「いいえ。太刀筋の鋭さは私が戦ってきたどの人間よりも鋭かった。」
本心かどうか分からない、飄々とした態度でガクポはそう言った。
「ガクポ殿は口も一流のようですね。」
そのメイコの言葉に対して、ガクポは薄く笑うと、それでは、と一言述べて立ち去っていった。
また、戦う機会があるのだろうな。ガクポの背中を見ながら、メイコは何故かそう思った。
「どこに行っていたの?」
謁見室から退出したルカは、ようやく見つけた目的の人物に向かってその様に声をかけた。今しがたメイコとの手合わせを終えたガクポである。
「メイコ殿と手合わせを。」
片手に木刀を持ったままで、ガクポはそう言った。本当に今まで戦っていたらしい、と考えてからルカはガクポにこう尋ねた。
「どうだった、メイコは?」
「確かにお強いが、剣に迷いがあります。」
「迷い?」
「現状に何かご不満があるのでしょうね。」
「それは彼女のプライベートのことかしら?」
「さて、そこまでは。」
ガクポはそう言うと、ルカに対しても飄々とした表情を見せた。この男はどうにも掴めない。それはルカが持つガクポに対する正直な感想であった。だが、メイコはアキテーヌ伯爵の娘だ。あるいは父親のことで・・引いてはリンのことで不満があるのかもしれない。ルカはそう考えたものの、それは口には出さず、代わりにガクポにこう告げた。
「私はもう一度旅に出るわ。」
「昨日ご到着されたばかりなのに、お早いご出立ですね。」
「急がなければならないから。」
「リン女王陛下のことでしょうか。」
「そうよ。」
「分かりました。次に戻られるのはいつになりますか。」
「目的が果たせればすぐに戻るわ。」
そう言うと、ルカはガクポを置いて歩き出した。彼を排除せずに呪いを解く。そんな方法があるのかどうかなんて、今の私には分からない。けれど、やるしかない。アキテーヌ伯爵と相談した結果、ルカは再びミルドガルド大陸を駆け回ることにしたのである。
とにかく、黄の国は歩きつくしたわ。となれば残るは青の国か緑の国か。確率論では人口も領土も緑の国よりも大きい青の国の方がアタリを引けるような気がした。私にしては珍しく神頼みね。心中にそんな自嘲の言葉を浮かべながら、ルカは一人、黄の国の王宮の城門を通り抜けた。
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