数日が経過した。俺が巻き込まれた――この場合、これでいいんだろうか――トラブルを聞いた母さんは、即座に有休を取り、日本に戻ってきた。
「何も戻って来なくても」
「息子の一大事に引っ込んでられますか。ちょうど有休も溜まっていたし。それに、向こうは『姉じゃ話にならん。母親を出せ』の一点張りだって言うしね」
その後、母さんと姉貴は学校まで話し合いに出向いたりしたのだが、どうも、結果ははかばかしくないようだった。この「話し合い」とやらは、リンの親も交えてだったらしいのだが、母さんと姉貴によれば、全く話にならなかったらしい。
「あれは、典型的なクレーマーね。あそこまで日本語が通じない人が大企業のトップだなんて、どうかしてるわ」
「仕事だけはちゃんとしてるんじゃない? あるいは、周りが相当しっかりしてるか」
一番最初に校長室に呼び出しをくらった時以外は、俺は同席させてもらえなかったため、具体的に何があったのかは知らない。けど、母さんと姉貴を見る限り、難航してるなんてもんじゃないようだった。二人はずっと難しい表情をしていたし、俺のいないところで、何やらずっと話し込んでいた。
そしてその間、当然といえば当然だが、リンは全く学校に来なかった。ずっと、閉じ込められているのか。リンのことを思うと、不安で胸が潰れそうだった。ただでさえ思いつめやすいのに、今どんな気持ちでいるんだろう。現実に背を向けることだけはしないでほしいと、俺は祈らずにいられなかった。
リンの父に殴られてからちょうど一週間が経過した日曜日、母さんと姉貴は「大事な話がある」と、晩飯の後で俺に告げた。
「……話って」
「あんたとリンちゃんのこと。ついでに言うと学校のこと」
まあ、それしかないだろうな。けど、話し合いがついたんだろうか……? 俺は、目の前の母さんと姉貴を見た。二人とも、難しい顔をしている。
「レン、わかっているでしょうけど、向こうのお父さんは、あんたに娘を傷物にされた、責任を取れってずっと言っているの」
……傷物って、なんだよその言い草は。まるで、リンにはもう価値がないみたいな言い方じゃないか。ああ、あのお父さんにとってはそうなのか。
いらないってのなら、リンをあの家から出してくれ。そうしてくれれば、この家にリンを引き取れるよう、幾らでも母さんや姉貴と交渉するのに。
「俺は何もしてない」
「それは知ってるわ。でも、向こうはあくまで白を黒と言い張る気なの」
母さんは、そこで言葉を切り、ため息をついた。
「あのね……レン、考えたんだけど、あんたは母さんと一緒にしばらくニューヨークに来なさい」
はあ!? なんでいきなりニューヨーク行きなんて話が出てくるんだ。
「なんでニューヨーク……」
「あんたたちのことを考えたら、これがベストの選択肢だからよ」
意味不明なことを言い出す母さん。俺は唖然として、母さんを見つめた。母さんまで、こんなことを言い出すのか……!?
「嫌だ」
ニューヨークなんかに行ったら、リンと離れ離れになってしまう。高校生活はもうそんなに残っていないけれど、リンと一緒にいるって決めたんだ。
「リンと離れるなんて嫌だっ!」
「レン、落ち着きなさい。あんたたちを引き離したいわけじゃないの……ただその、なんていうか……」
「あんたが意地を張り続けると、リンちゃんの置かれている立場が悲惨になっちゃうのよ」
姉貴が口にした言葉に、俺は思わず姉貴の方を見た。
「どういうこと?」
「向こうは、あんたが同じ学校に通う限り、リンちゃんを外に出す気はないの」
「虐待だろ。通報できないの?」
閉じ込めて外に出さないなんて、誰がどう考えてもまともじゃないはずだ。
「リンちゃんは高校生だし、通報するといってもそう簡単じゃないわ。それに、通報したところで、立証できなければお咎めなしなのよ。私がそのお父さんなら、警察なり児童相談所なりが来た時だけ、リンちゃんを外に出すわ」
「リンだって黙っているはずが……」
「何をどう言うの? お父さんが厳しすぎるというのは、どの法律にも抵触しないわ」
姉貴に言われて、俺は反論できなくなってしまった。リンのお父さんは、リンを殴っているわけでも、食事を抜いているわけでもない。それに、高校生のリンが「家から逃げ出せない」なんて言っても、信じてくれる人は少ないだろう。
「それに……リンちゃん、相当参っているみたいなのよ。どうもね……向こうのお父さん、あんたとリンちゃんが関係を持ったって信じ込んでるみたいで」
俺は、わけがわからなかった。それは、俺を学校から追い出すための言いがかりじゃなかったのか?
「なんで?」
「なんでそう信じ込んでるのかまではわからないわ。私にも、ハクちゃんにも、リンちゃんにも。問題なのは、リンちゃんのお父さんが、そのことでリンちゃんを責め立ててるってこと。相当ひどいことも言われているみたい」
ほとんどいじめか虐待じゃないか……。
「それだけじゃないのよ。ハクちゃんから聞いたんだけど、リンちゃんのお父さん、リンちゃんを婦人科に連れてって検査させようとしたらしいわ」
「検査って、何の」
「あんたと関係を持ったかどうか」
俺は呆然として姉貴を見つめていた。リンのお父さん、そんなことをしようとしたんだ。というか、それは調べられるものなのか?
「そんなのどうやって調べるんだよ」
「下半身の着衣を脱いで検診台に乗って足を開いて、中を見る器具を入れるんだと思う。本当は病気になってないかどうかを調べるためにやるんだけど」
……気分が悪くなってきた。リンのお父さん、一体何を考えているんだ!?
「リンちゃんのお母さんが必死になってそれだけは阻止したらしいんだけど、リンちゃん、ひどくショックを受けているみたい」
「おかしいのはリンの父親だろ!」
そんなことをされたら、リンがどれだけ傷つくかもわからないのか!?
「それは私もそう思うけど、立証できなければ意味がないのよ。私も散々調べたのよ? 何とかして、あのお父さんを追い払えないかって。でも、リンちゃんは未成年で、法的にはあのお父さんの庇護のもとにあるの」
「守ってなんかいないじゃないか!」
リンのお父さんがしたことは、リンを苦しめただけだ。そんな父親なんか、リンには必要ない。
「とにかく、あんたが意地を張って今の学校に通い続ける限り、リンちゃんのお父さんはリンちゃんを外には出さない。かといってリンちゃんを自宅から連れ出すと、今度は誘拐罪に引っかかるわ。あのお父さんのことだから、嬉々として警察に届け出るでしょうね」
何なんだよリンの父親は……。どうしてリンは、あんな頭のおかしい父親の娘として生まれてこなくちゃならなかったんだ?
八方塞がりだ。嬉しくないことに。
「で、リンの事情と俺のニューヨーク行きと、一体どんな関係があるわけ」
母さんと姉貴を睨みつつ――二人を睨んでも何にもならないのはわかってるんだが――訊いてみる。母さんが、口を開いた。
「向こうのお父さんは、あんたを退学にしろってひたすら言ってるんだけど、学校側も、何の落ち度もない生徒を退学にするのは気が引けるようなのよ。母さんもメイコも、これに関しては散々噛みついたし。特にメイコは凄かったわ。レンを退学処分にしたら、学校を告訴するとまで言ったのよ」
「あれは脅しよ。本当に裁判をするのには反対。お金も時間も無駄にかかるし、裁判をやるってことは、事態を公けにするってことだしね。最悪、レンが外を歩けなくなっちゃうでしょ」
俺の予想以上に、状況は複雑になってしまっているようだった。
「学校側からは『何とか穏便に転校してもらえないでしょうか』って、言ってきている状態なのよ。どうもリンちゃんのお父さん、単に苦情を持ち込んでるんじゃなくて、他にも何かやってるみたいで。学校側としては、リンちゃんのお父さんの機嫌をこれ以上損ねたくない、ってところだけは一貫してるのよ。嬉しくないことだけど、切り捨てるのならこっちってもう決めているみたい。多分、これ以上ごねてもメリットはないわ。むしろ向こうの親が何かしらの強攻策を取ってきたら、今まで以上にややこしいことになるでしょうし。それなら有利な条件を提示できるうちに、こっちが引いた方がダメージが少なくて済むわ」
理屈はなんとなくわかってきたが、ニューヨークは遠すぎる。海の向こうだ。それに……。
「……リンは? リンはどうなるんだ?」
母さんと姉貴は顔を見合わせた。あんな頭のおかしい人間と、リンを一緒になんてしておきたくない。
「しばらくは、辛抱してもらうしか……」
「嫌だっ!」
俺は叫んだ。リンを残して、海の向こうになんて行きたくない。
「リンを残していくのは絶対に嫌だっ!」
「少しは物事を現実的かつ長期的に考えなさいっ!」
姉貴が、すごい勢いで怒鳴った。
「あんたはリンちゃんを助けたいんだろうけど、実際のところあんたはまだ未成年で半人前なの! 自分の足元もしっかり固められない人間が、誰かを助けようとしたって、一緒に崩れて落ちるだけなのよっ!」
窓ガラスが震えそうなぐらい強い声だった。
「あんたには、まだリンちゃんを助けてあげられる力はないのっ!」
俺は反射的に言い返そうとしたが、言葉は出てこなかった。姉貴の瞳で、何かが光っている。
「メイコ、少し落ち着いて」
母さんが、姉貴に声をかけている。姉貴は、目じりにたまった涙を拭った。それから、何度か深呼吸している。
「……レン、冷静に考えてみて。あんたがこのまま学校に通い続けたら、向こうのお父さんは、そのお嬢さんの方を転校させるかもしれないわ。経済的にかなり余裕のあるおうちだし、もしかしたら、ヨーロッパとかの全寮制の学校に放り込まれてしまうかもしれない」
母さんの言葉に、俺ははっとなった。今まで気づかなかったけど、そういう可能性もあるんだ。
「それにどこか他の高校へ転校したとしても、あんたがここにいたら、あんたたちがこっそり会うだろうと思われて、お嬢さんにはきっと厳しい監視がつくわ。でもあんたがニューヨークに行けば、向こうのお父さんは、あんたがお嬢さんのことを諦めたと思うでしょう。そうしたら、多分、四六時中監視することだけはやめるでしょうし」
「少なくともこっちにいてくれれば、まだ最低限の連絡だけは取れるわ。ハクちゃんだっているもの。リンちゃんを外国に連れて行かれたら、連絡すら取れなくなるのよ」
……初音さんもいる。頼めば、リンの力になろうとしてくれるだろう。
俺は、ある程度は自由に動ける。でもリンは? 外国の学校になんか放り込まれてしまったり、どこへ行くにも誰かがついてくるなんてことになったら、リンは完全に身動きが取れなくなって窒息してしまう。
俺は苦い気持ちで、結論を出すしかなかった。
「……わかったよ、母さんと一緒にニューヨークに行く」
母さんと姉貴が、ほっとした表情になった。でも、一つだけ、俺には譲れないことがあった。
「けど、リンと話をしてからだ。リンに直接会って、ちゃんと、俺の口から事情を説明したい。リンに、俺がリンを捨てたって思われたくないんだ」
あの父親のことだから、リンにそういう話をしかねない。ちゃんと、リンを思って一時的に離れるだけだってこと、それだけはわかってもらうんだ。
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ご意見・ご感想
水乃
ご意見・ご感想
こんにちは、水乃です。
本の件ですが、「花守の竜の叙情詩(リリカ)」という本です。
ライトノベルのファンタジーなんですが、結構気に入っている話です。
その主人公の過去がリンと似ている感じだな…と思ったのです。
2012/04/19 23:05:14
目白皐月
こんにちは、水乃さん。お返事ありがとうございます。
ちょっと検索して調べてみたんですが、富士見ファンタジアなんですね。いや、タイトル見た時はコバルトかなと思ったので……。
継続して購読しているもの以外、ライトノベルはほとんど読まなくなってしまいましたが、興味がわいたので、今度探してみようかなと思っています。ありがとうございました。
2012/04/20 00:01:23
水乃
ご意見・ご感想
こんにちは、アナザーではない方でもコメントしたのですが、またさせていただきます。
お母さんまで登場するほどの事態になってしまったんですね……でも、メイコのいう事は正しいと思います。
ニューヨーク行っちゃうんですか……英語の勉強にはなると思いますよ、東海岸の都市(?)の方は英語が西海岸の都市よりも早口だそうです。って、関係ないか。でも、何にせよレンはリンに話をしなくちゃいけませんね……お父さんに話させると真実1パーセントくらいしかなさそうですから。
前読んだ本と少し似てると思います。リンの状態(?)は。それは小さな王国の姫君だったんですが、父親からは他国と関係を結ぶための美術品としか見られていなくて、「人質になったら家のために一人で死ね」と誕生日に毒薬を渡されるんです。でもリンの母親(カエさん)はいい人です。その話だと憎悪の塊とみなしてましたから…。
今は最善策しかできることが無いというのがレンにとってももどかしいんだと思いますが、お父さんの考えが変わるとは思えないのでニューヨークに行くしかないんですね。でも今はリンは友達(ミク)にすら会えない(あたし的には)精神的にキツイ状態ならしょうがないと思います。
続き待ってますね。
2012/04/17 10:25:51
目白皐月
こんにちは、水乃さん、メッセージありがとうございます。
二ついただきましたが、こちらにまとめてお返事させていただきますね。
まあお父さんがリンを婦人科に連れて行っても、多分門前払いで終わると思いますが、仮に検査して何も出てこなかった場合、多分婦人科の先生に「結果をごまかしたんだろう」とか文句をつけだすでしょうね、この人なら。
ちなみにお父さんがこんなズレた発想なのは、いくつか理由があるのですが、そのうちの一つは、外伝で多分出てくると思います。
レンがニューヨークに行くのは、プロットの段階から決まっていました。二人ともかなり辛いことになるでしょうが、目的のものを手にいれるためには、回り道が必要になる時もあるんです。
レンの方は、まあ、行き先がニューヨークですから、ネザーランダー劇場やMETを見てきてもらおうかと思っています。
ところで、水乃さんが言っている本は、何の話なんでしょうか?
2012/04/17 20:04:36