みくが歩きたいというので、何も考えずついて来た。何も考えず、というよりも、何も考えられず、と言った方が正解かもしれない。りんはまだ、廉の死亡の報の衝撃から立ち直っていなかったし、物事を上手く考えられなかった。ただそこに、一つだけ「敵討ち」という言葉だけがあって、それだけを頼りに、なんとか生を保っていた。
みくとりんは随分と歩いた。町を出て、駕籠に乗ってしばらくまた進んだ。駕籠が下ろした先は、寂しい、荒れた土地だった。赤茶けた大地に、まばらに雑草が生い茂り、遠くの山まで見渡せるほど、何もなかった。
みくは駕籠を降りると、そこからまたしばらく歩いて、やはり何もない場所で立ち止まって、おもむろにりんを振り返って言う。
「ここが、昔の私の家」
意図が掴めずに、ただ首を傾けるりんに、みくは言った。
「おりんちゃんの敵討ちの相手、わかったよ」
「え?」
りんの瞳に意思が戻るのを確認して、みくはちょっと笑んで、自分の家のあった場所へと目を戻した。
薄暗い粗末な小屋のような家が、みくたちの住む家だった。両親はとうに流行り病で亡くなって、みくは幼い頃から血の繋がらない優しい兄と二人で暮らしていた。兄は何の損得も鑑みず、幼いみくが両親に先だたれ、生きていくのにも無理があろうとただそれだけの理由でみくを引き取ってくれた。情に厚い、優しい人だった。
食べるものもなく、ただただやせ細っていただけのみくを、自分も貧しい身の上で、しかもまだ若い少年が養うのはどんな苦労だったか。当時のみくにはわからなかったけれど、毎日泥だらけになって、ともすると傷さえ作ってくる兄が苦労している事だけは知っていた。
それでも、兄はいつも優しく笑っていた。みくに対して暗い顔をする事はなかった。いつもみくを精一杯甘えさせてくれた。だから、その粗末な小屋はみくにとってはどこにも勝る素晴らしい家だったのだ。
既に、そこには今何もない元は自分の家の立っていた場所に立って、みくはもう一度、呟いた。
「ここに、住んでいたのよ。今じゃあ、跡形もないけど、なくなったわけじゃないの」
物として、何も残っていなくても。
何もなくなってはいない。みくの中では。
「私、殿が憎いの」
「殿が?」
りんは不思議そうに聞き返した。どうしてここに、殿がでてくるのだろう?
「櫂十(かいと)兄さんを殺したのは、殿よ。磔(はりつけ)にして、殺して、さらし者にした」
兄の大きな手が好きだった。その手が、自分の頭を撫でてくれるのが好きだった。温かな、優しい笑い方が好きだった。 みく、と自分を呼ぶ声が好きだった。兄の全てがとても大切だった。
「そして、おりんちゃんの弟を切腹させたのも、殿の仕業」
「……嘘」
りんは咄嗟に首を振る。りんを担ぎ上げた大きな背中。優しい大きな掌。
あの人がそんな事をする人だとは、とても思えなかった。
「嘘じゃない。廓の中では身分は不要、だなんて言っても噂はいくらでも耳に入ってくる。殿がここいら一帯の領主だって事は、有名な話」
「そんな……」
「だから、おりんちゃんのかたきうちの相手は、私も同じ」
二人で、一緒に、やりましょう?
みくはりんの方を振り返って、小首をかしげるようにして、無邪気であどけないような、それでいて大人びたような顔で優しく笑った。
その笑みに、どうしてだか判らないけれど、りんの膝が震える。だけど、躊躇はなかった。廉を奪い去った奴らを殺す事に、躊躇はなかった。
「うん」
りんは、頷く。
「うん、一緒にやる。あたし、廉の敵を討つ。そして……」
そうしたら、あたしも、命を絶つ。
心の中で、そう付け足した。
★・★・★
「みく姐さん、また芽衣子さんが」
はくは重苦しい部屋の空気を肌で感じながら、居心地悪そうにそう言った。みくは簡単に、首を横に振って、その言葉を退ける。
「体調が悪いと言っておいて」
「おりんちゃんでもいいって……」
言うと、すっかり以前と様変わりしてしまったように思えるりんもやはり、首を横に振った。
「あたしも、体調が悪いです」
「あらじゃあ、この部屋には流行り病でもあるのかしらね」
みくは言って、にっこりと笑う。りんは心ここにあらず、と言った調子で、その言葉に、機械的に微笑み返した。
はくはなんとも間に入り辛い空気を感じて、そそくさと部屋を退室した。
障子が閉まるのを見届けてから、みくは一瞬だけ、窓の方を一瞥した。
もし、ここから覗いたら、一目でも見れるのだろうか? あの人が。
思ったのは、一瞬だった。すぐにみくは、その考えを却下した。過去の人は、所詮、過去の人。それでも心は、いつのまにか、懐かしい人の事を考えていた。
みくの住んでいた小屋では、白熱した議論の開催場所になることが多かった。近隣の村の若い主だった連中は、連日兄のもとへ集まって、夜が更けるまで低い声で話し合っていた。普段は気の良い彼らが、その時はひどく真面目な顔をして、額を突き合せるようにしている様は、なんとはなしに、みくに微かな恐れを感じさせた。
この年起こった飢饉(ききん)は近年稀に見るものだった。周辺の村はすべて困窮し、自分たちの食い扶持を確保するにも困難を極めたのに、その上、年貢など、どうやっても納められそうになかった。
その頃には既に人望があり、頭も良かった兄のもとにはいつの間にか、智恵を借りに人が多く集まるようになっていた。それが、いつからだろうか、不穏な空気を孕みはじめた。兄は情にも厚い人だった。このままでは近隣の者が皆、餓(う)えて死に絶えてしまうという事を憂いていた。
何度か提出した訴状は受け入れられる事はなかった。
いつの間にか、農具や武器が、静かに、次々と、近隣の百姓が共同で使っている納屋に集められていた。それは夜陰に紛れて若いものたちが持ち込み始めて、段々と、年長のものも協力するようになり、最後には近隣の全てのものがそれをするようになっていた。
「みくは早く寝ておいで」
兄は夜になるといつもそう言って優しくみくの頭を撫で、布団に寝かしてから障子の向こうの部屋へと消えて行った。その部屋には、明かりもつけぬまま、大勢の人間が集まっていて、何か低い声だけが漏れて来た。
みくは恐ろしさを感じながら、きつく目を閉じて、薄くて硬い布団を頭から被ってそれら全てを拒絶するかのようにして夜を過ごすのだった。
そんな中にあって、みくが唯一心休まるのは芽衣子が訪れたときだけだった。芽衣子は、やはりみくが幼い頃から近くに住んでいた明朗な娘で、みくを妹のように可愛がったり、時には叱り慣れない櫂十に代わって叱ってくれたりもした。
世話焼きの芽衣子はしばしば家に来ては、ついでだからと洗濯や掃除などを手伝ってくれたりしたし、その明るい笑い声は家の中を明るくしてくれるようだった。時にはみくの髪を結ったり、お下がりの着物をくれたりもした。
みくは芽衣子が好きだった。芽衣子に懐いていたし、櫂十の次に、好きだった。
だけど。
芽衣子を好きなのは、みくだけではなかったのだ。
段々と、月日を重ねるごとに、みくは気づいてしまった。櫂十の視線が芽衣子を追っていること。その視線は、みくを見るような慈しむようなものとは違って、むしろそれは、みく自身が櫂十を見ているときと同じもの。みくが自分に欲して止まなかったもの。
大好きなのに、憎かった。大好きな芽衣子を憎む自分が嫌いだった。それでも、憎まず居られなかった。
みくの欲しいものは、唯一つなのに、それはどうしても手に入れられそうになかったから。それを芽衣子はいつでも手に入れられる場所にいたから。
⇒第九話へ続く。
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