「はあ…気持ち悪い…。」
 胃の中のものがぐるぐるとかき回され、昇ってくるような途方もない不快感に襲われる。理由は考えるまでもない。ここに来るまでに乗ってきた馬車のせいだ。ルシフェニアから、ここ、エルフェゴートまでの道はそこまで綺麗に整備されてるわけじゃない。道はでこぼこだらけだし、そこらに小石が転がっている。自分の足で歩くときは気にも留めないものだが、馬車に乗ると恨めしくってしょうがない。ちょっとのでこぼこや小石だけで馬車はガタガタと不規則に揺れて、僕の耳の奥を、胃の中をぐわんぐわんと揺さぶるんだから。
「ちょっと~!さっさとしてよアレン!」
 そう言って我鳴るのは宮廷魔導士のエルルカ。僕がエルフェゴートに赴くこととなった全ての元凶である。
「とっとと荷物積み込んで頂戴。そんなのったらのったらされたら日が暮れるじゃないの!」
「はい…。」
 口元を押さえていた右手を離して、エルルカが持ってきた重たく大きい箱を両手で担ぎ上げる。腰が持っていかれそうになるとんでもない重量だ。これで大体察しがつくと思うが、僕はエルルカにパシリとしてエルフェゴートまで連れてこられたわけである。エルルカが大量に調達した魔術媒体を店から馬車まで運ぶ役。そう。馬車に運ぶ役だ。何が言いたいのかというと、僕はこの後馬車ともう一ラウンド控えているということだ。それだけでも気が滅入るのに、荷物も嫌がらせのように重たい。馬車酔いもまだ残っているし、何もかも最悪だ。
「アレン…?」
 彼女に名前を呼ばれた瞬間、憂鬱という憂鬱が一瞬で吹き飛んだ。透き通るような綺麗な声。聞き間違えるはずがない。耳に、心に深く残った彼女の声だ。
「み、ミカエラ!?」
 驚きのあまり危うく荷物から手を離しそうになった。ミカエラは「どうしてここに」と言わんばかりに目を丸くしている。相変らず表情が豊かだ。そして、誰よりも綺麗な緑の髪も前に会ったときのままだ。初めて見たときからずっとずっと、僕の心を離れない彼女の魅力。
「大丈夫?なんかすごく重そうだけど…。」
「大丈夫大丈夫。これくらい大したことないよ!」
 僕は気丈に振る舞った。実際は今にも腰が抜けそうなくらい重いのに、ついつい口を衝いて出てしまった。
「ごめんね、ミカエラ。今ちょっとエルルカのお手伝いしてて…。」
「エルルカ!?ねえ、近くにエルルカいるの?」
「え!?ミカエラ、エルルカのこと知ってるの!?」
「うん。手伝ってほしいことあるとかで、今日迎えに来てくれる予定なんだけど…。」
 予想外の言葉に僕の頭は追いつかない。どうしてミカエラとエルルカが…?頭を巡らせても皆目見当がつかない。目の前の可憐な少女と宮廷魔導士。どうやったって結びつかない。
「エルルカって今どこ?」
「あそこの店でごっそり買い物中。あともう二、三往復はしないとダメだと思う。」
「どうしよ…。私も手伝った方がいいよね?」
「ううん平気平気。僕一人でなんとかなるし。ちょっと行った先に馬車があるからそこで待ってて。」
「分かった。ありがと~!」
 ミカエラは手を振りながら馬車の方へ駆けていった。ちょうどその後ろ姿が見えなくなった頃、エルルカも僕に追い付いてきた。ちゃっかり軽そうな箱を抱えて。
「あの、さっきミカエラに会ったんですけど…。」
「あら、ちょうどよかったわ。運び込み終わったら迎えに行くつもりだったんだけど…その手間が省けたわ。」
「僕、聞いてないんですけど。」
「だって言ってないもの。ちょっとしたサプライズよ。だってアレン、ミカエラにホの字でしょう?」
 そう言ってエルルカはニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべる。
「…宮廷魔導士様は人の心も見透かせるんですか?」
「まさかあ。さすがの私でもそんなことはできないわ。なんとなくアレンの様子見てると…ね。残りも頑張ってね。終わったらミカエラと一緒に帰れるわよ。」
 意味深に微笑んでウインクしたかと思えば、エルルカはそのまま鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気ですたすたと僕の先を歩いて行った。
「ミカエラと…一緒…。」
 別に、別に嬉しいわけじゃないからね、と自分に言い聞かせながら僕は辺りを見回す。誰もいないのを確認して荷物をそっと降ろし、服の襟口をぐいと鼻に当てる。散々パシらされて汗かいたけど…大丈夫だよね?

―――――

「ふう…これで最後ね。」
 最後の荷物を無事に積み終える。あまりの荷物の多さに馬車の中はぎゅうぎゅう。窓も片側がすっかり塞がれてしまっている。
「アレン、ミカエラ。乗って。」
 エルルカに促されるままに馬車に乗り込む。来るときと比べて圧倒的に窮屈だ。僕に続いてミカエラも乗り込むのだが…。
「あっ、あの、ミカエラ!?」
「ごめん!狭いからくっつかないと乗れなくて…。」
「いやいやいやいや!別にそんなの気にしてない。気にしてないから…!」
 触れあった部分から伝わるミカエラの肌のやわらかさ。そして体温。…まずい。顔が熱くてしょうがない。それに、こうも近づかれるとミカエラの甘い匂いが否応なく鼻腔に流れ込んでくる。まるでトラウベンの実のように甘い匂い。僕は身を縮こませて、耳にまで聞こえるほどに激しく脈打つ心臓を必死に鎮める。
「エルルカ乗らないの~?」
 ミカエラは馬車から顔を出してエルルカに尋ねる。ミカエラの目線の先ではエルルカが馬車馬の額に手をかざしていた。…そうだ。ミカエラに会えて浮かれて忘れてたけど、これ、馬車なんだ…。そして、馬に手をかざすエルルカのいつになく真剣な面持ち。
(――嫌な予感がする。)
 気が付けばさっきまでうるさかった心音が聞こえない。額もうっすら冷えて気持ち悪い。
「アレン、どうしたの?表情消えてるけど…。」
「あっ、いや、なんでもないよ!」
 咄嗟ににこやかに取り繕う。酔いやすい体質だから怖いなんて言えるか。
「…ふう。これでよし。」
 満足そうな顔でエルルカは馬車に乗り込み、扉を閉めた。
「エルルカ、一体何を…?」
「馬たちに細工をしてね、普段の数倍速で走れるようにしたの。」
「――!?」
 その衝撃はもはや言葉にすらならなかった。見る見るうちに顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「これでルシフェニアまでフルスロットルで帰れるわ。」
 エルルカはドヤ顔で僕らの方を振り返る。…いやいやいやいや、ちょっと待ってください。僕、ただでさえ馬車酔いするんですよ?そこに数倍速なんてされたら――!
「じゃあ王宮まで…レッツ・ゴー♪」
 嫌な予感は的中した。ただでさえルシフェニア・エルフェゴート間は馬車だと揺れる。ものすごく揺れる。そこに数倍速なんてするものだから恐ろしく揺れる。ガタガタガタガタ。台風にあてられた家のように激しく揺れる。そのまま馬車が壊れるんじゃないかってくらい揺れる。あり得ないほどの揺れは僕の胃を、耳の奥を徹底的にかき乱す。おまけに超スピードのせいで尋常じゃない慣性力が僕の体をえぐる。まるで胴体をまるごとプレスされるような、とんでもない地獄を味わうこととなった。
「ちょっとアレン、大丈夫!?顔真っ青だよ!!」
 隣にいたミカエラが心配そうに僕を覗き込む。
「だい…じょうぶ…。」
 ひとかけらの執念で一言をようやっと絞り出す。胃をかき回され、押し潰されて言葉と一緒に中のものが逆流してきそうだった。楽になりたいと必死にあえぐように浅い呼吸を繰り返すけど何の気休めにもならない。気持ち悪さは加速度的に増していき、目の前には走馬灯がちらつき始める。
「ああ…。」

―――――

「ちょっとアレン、大丈夫…じゃないね。」
「うう…。」
 王宮に着くころには酔いは限界を突破していて、ミカエラに肩を貸してもらわないと歩けない有様だった。
「ごめん、ミカエラ…。」
「いいよいいよ。だって、こんなになったアレンを放っておけるわけないじゃん。」
「…。」
 ミカエラに支えられ、覚束ない足取りで歩く自分がこの上なく惨めだった。馬車酔いで歩けなくなったところを好きな女の子に助けてもらうなんてカッコ悪いにも程がある。もはや男の沽券もへったくれもない。
「アレン、どこまで運べばいい?」
「とりあえず…その角を曲がったところにある…使用人室まで…。」
 よろよろと角を指差したそのとき、角からリリアンヌが出てくる。角を曲がろうとこちらを振り向くリリアンヌと幸か不幸か、目が合った。
「アレン!!」
 愕然と色を失った顔でドタドタと必死に駆けてきたかと思えば、リリアンヌはミカエラから僕をひったくった。
「おいアレン、アレン!?どうした、顔真っ青じゃぞ!」
「り、リリアンヌ…。」
「アレン…汗まで冷たいぞ…!何が、何があったのじゃ!?」
 馬車酔いした体をがくがくと体を激しくゆすぶられるのだからたまったもんじゃない。どうにか見上げたリリアンヌの顔。それは、今まで一度も見たことのない顔だった。横暴の限りを尽くして「悪ノ娘」と陰口をたたかれる王女の顔じゃなかった。それは、今にも泣きだしそうで、胸が張り裂けそうな――

 一人の、女の子の顔だった。

「おい、そこの女、お主…アレンに何をした!?」
 半泣きのまま声を張り上げるリリアンヌ。その目線の先にはミカエラ。…まずい。
「あ、あの…。」
 ミカエラも突然の展開についていけず、あわあわと慌てるばかりでまともに返事できない。
「わらわの…わらわのアレンにッ!!」
「いや、えっと私は…。」
「ええい、誰か!誰か!!この女を捕らえてっ!首を刎ねよ!!」
 泣き叫ぶようなリリアンヌの鶴の一声で、近くにいた兵士が次々と駆け付け、ミカエラを取り囲む。
「待って!話を…話を聞いて…っ!!」
 僕は胃と耳の不快感に逆らいながら必死に叫んだ。

―――――

 リリアンヌの勘違い騒動が落ち着いた後、僕はミカエラと二人きり使用人室にいた。
「ミカエラ、ごめん!!」
 僕は両手を合わせて頭を下げた。
「助けてもらったばかりか、危険な目に遭わせて…。」
「いいよいいよ。誤解は解けたんだし。」
 ミカエラは笑いながら手を左右に振った。
「あのさ…。」
「うん?」
「王女様って…アレンの姉弟なの?」
「――!!」
 ミカエラのとんでもない一言に、その場で飛び跳ねそうになった。…いや、確かにそうなんだけど…。まさか、実は僕は数年前に亡くなったとされる王子で、リリアンヌの双子の弟で、今は訳あって身分を隠してリリアンヌの王女付きをやってるんだ…なんて言えるわけがない。リリアンヌが“弟”のことを忘れてしまってる今、これを明かすと事態がややこしくなってしまう。だからこのことは決して誰にも知られるわけにはいかないのだ。
「いや、違うよ。たまたま顔が似てるだけ。」
 リリアンヌ様も顔が似てるのが面白いみたいで、僕は特に気に入られてるんだけど…なんて平静を繕って話す。内心はバレてしまわないかとヒヤヒヤだ。さっきとは違う意味で心臓がドクドクとうるさい。
「ふうん…そうだったの…。」
 ミカエラは意外だと言わんばかりに目を丸くする。
「さっきのアレンを心配する王女様の顔、あんな顔した人初めて見たから…。アレンが弱ってるのが悔しくて、悲しくて、許せなくて…。そんな単純なことじゃないって思ったの。大切な人を想うってだけじゃない。もっとこう…根っこの方に何か特別な想いがあるみたいで。まるで産まれる前から特別な繋がりを共有してたみたいな、そんな感じ。だからアレンを守ってやりたくて、アレンを傷つける人間が許せなくて、それでいてアレンにもっともっと甘えていたい。まるでそう思ってるみたいだった。姉が弟を想う気持ちってよく分からないけど、多分きっとこういう気持ちなんだ。そう思わずにはいられなくて…。」
「…。」
 姉が弟を想う気持ち、か…。リリアンヌにとって僕はただの一人の召使。リリアンヌのお気に入りの一人ではあるけど、ただそれだけ。そう思っていた。だってリリアンヌは“僕”のことなんて忘れてしまってるんだから。…でも、それは違ったんだ。たとえ覚えていなくても、王女と召使という関係でも、それでも僕たちは姉弟だったんだ。血を分けた双子。その事実が消えてなくなることはなかったんだ。
「アレン~。」
 ガチャリと使用人室を覗き込むリリアンヌ。甘えたいけど素直にはなれず、拗ねている。まるでそんな顔だった。
「まだ戻ってきてはくれぬのか?」
「あ、ああ…。」
 生返事をしてミカエラの方を振り向けばニコリと微笑んでくれる。まるで行ってらっしゃいと見送るかのように。
「はい、すぐ行きます!」
 僕は弾むような足取りで使用人室を出る。
「いかがいたしましょうかリリアンヌ様。」
「…別に。ただ…傍にいてほしい。これからもずっとずっと。」
「フフ…。もちろんですよ。僕はいつでもリリアンヌ様の隣にいますよ。」
 僕はにっこりと微笑んだ。僕のかけがえのない双子の姉に。
「どうしましょうリリアンヌ様。お部屋に戻られますか?」
「うむ。そうしよう。…ところでアレン、お主いつもより笑顔が眩しい気がするが…何かあったのか?」
 じっと怪訝そうに僕の目を見つめるリリアンヌ。僕はしばらく考えた末、ニッコリと笑って目を逸らす。
「い~え。何も~。」
 鼻に声を掛けるように、わざとらしくはぐらかせばリリアンヌは頬を膨らませる。
「その返事がなんとも幸せそうじゃの。言うてみいアレンよ。」
「秘密です。」
「わらわに秘密とはいい度胸じゃな。腕ずくででも言わせるぞ。お主はわらわのものじゃからの。」
 ムスッとしながら僕に抱きつくリリアンヌ。でもその目はむしろ楽しそうだった。嬉しそうに見上げるその目を見ていると、ついつい口元が緩んでしまう。
「え~困ったなあ。どうしましょうかねえ…。」
 僕は顔を綻ばせながら、白々しく呟いた。

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馬車と君には敵わない

馬車酔い体質のアレンくんのお話。

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投稿日:2018/08/26 10:36:10

文字数:5,698文字

カテゴリ:小説

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