身体の自由が利かない。姿勢が維持できずにソファに倒れかけ、小さな手に支えられる。すぐに柔らかい膝の感触を後頭部に感じ、ぼやける視界の中に映る満足そうな笑みに妹の計略を悟った時には、もう手遅れだった。
 どこかに意識を覚醒させるための道具がないかと探すも、その手も引き戻された。
 急速に遠のく意識の中、必死に紡ぐ言葉も塞がれる。優しい吐息と共に、聞き慣れたが今までのどの時よりも愛情のこもった言葉が耳に吹き込まれた。
「大好きよ、レン」
 だめだ。死ぬべきなのは君じゃない。頼むから、守らせてくれ。
 離れていくリンに手を伸ばしたくても、腕は鉛のように重くて持ち主の意思を無視する。
 動いてくれ、あとほんの一日でいいから、今だけでいいから、それ以上はもう何も望まないから!
 叫び声が漆黒の世界に響き渡り、
 ようやく、身体が動いた。
「レン」
 跳ねるように起こした上半身はふらつく、妙に固い感触の寝台の上で定まらない視点の中、誰よりも大切な親友が不自由な身体を支えてくれた。
 燃えるような赤髪の少年。その瞳に宿る感情を見れば、一番認めたくない事態はもう起こってしまったとしか考えられない。
「……――っ」
 それでも訊ねずにはいられなくて、しかし口を聞こうとしても吐き出されるのは、乾いた呼吸音だけだった。苦しげに喘いでいると、水が注がれたコップが差し出された。
「無理して話そうとするな。少なくとも、丸二日は飲まず食わずだったんだからな」
 手が震えて目の前のコップも持てず、結局イルが持ったままレンの口に注いでくれた。ようやく喉を通った清涼な感覚に、理性がほんの僅か戻ってきた。
 何度も咳き込んで、やっとの思いでまともに声を出した。
「リン、は?」
 この段階で、もう答えは分かり切っていた。
 イルは目を逸らさなかった。しっかりとレンと目を合わせたまま、淡々と何の奇跡も起こらなかったことを告げた。
「昨日、皆の前で処刑した、俺が、殺した」
 その瞬間何を考えたのか、レンは後になっても思いだせない。
 飛び起きてイルの胸倉を掴んで、渾身の力で床に押し倒した。病み上がりの身体で、ただでさえこの体格差で防げなかったはずは無いのだが、イルは何の抵抗もしなかった。
 強かに後頭部をぶつけたせいか多少顔を顰めるも、イルの双眸はレンを捕らえたままだ。
 ハウスウォードの家で共に暮らしていた時と全く変わることのない、強くて真っすぐな視線にレンが屈するまでに、大した時間はかからなかった。
 形容しようのない感情の群れから我に帰ると、完全にオーバーロードな動作に全身の力が意志に反して抜けていく。馬乗りになっていたイルの身体からずり落ちて、床に為す術無く倒れ込んだ。
「起き抜けに暴れるからだ。馬鹿」
 何事もなかったかのようにイルが言い、レンはまた寝台の上に軽々と放られた。
「君にそんなこと言われたの、初めてだね」
「おう、逆は腐るほどあるけどな。気分はどうだ?」
 お互い空元気なのは承知の上だった。
「良いわけないだろ? 最悪だ」
 目眩が治まり再び上半身を起こすと、自嘲の嗤い声が掛布に落ちていった。
「くくっ、はははは、あははははははは! 格好悪いだろ? く、一年前からずっと、ずっと騙して利用してきた妹を最後だけは守ろうとして、逆に謀られるなんて! 傑作だ! はははははは……」
 悲鳴のような嗤声が、大して大きくもない室内に響く。イルは何を言うでもなく、しばらくそんなレンを見つめていたが、ふとこう漏らした。
「相変わらずだな。お前は辛い時はいっつも笑ってる」
 そのたった一言に、引き攣った笑みが泣き顔に変えられた。
「君も、相変わらず、だ」
 イル。どうして、君はそうやってちゃんと立ってられるんだ?
 何故君はリンを殺すことができたんだ?
 そしてその上で、僕の側にいてくれるんだ?
 言葉にできない数々の問い。
 唐突に、レンの目の前に一つの封書が差し出された。
「リンが、お前に渡してくれって。それと伝言、最後に勝手なことしてごめんなさい、だと」
 何を考えるまでもなく、封書を開く。二枚の紙が出てきた。

 おはよう、レン。薬があまり体に影響を与えていないことを祈ります。
 とりあえず、数日は安静にしていてね。
 さて本題に入ります。
 これを読んでいる時、わたしはもうこの世に居ないでしょう。
 わたしはこの国の王女なの。
 いつかレンが自分で言っていた通り、レンはわたしの召使であり黄の国の王子じゃないわ。
 だから、王宮の人間がしたことの責任はわたしが取ります。
 だってレンは、わたしの召使としての責務を果たしただけなんだもの。
 この国を守ったレンのこと、君主として妹として誇りに思います。
 王女として貴方に命じます。
 これからはわたしの兄としてだけ生きて、難しい時代に入ることになる黄の国を助けてください。
 最後に、わたしに今までで最高の一年間を過ごさせてくれたレンに、心からの感謝とこの歌を。

 レンの最愛の妹、リン

 散々利用されて、傷つけられて、それでもリンは最後までレンを守ろうとしていた。その苦しみを最小限に抑えるための言葉を、手紙に書き残してくれた。
 二枚目に書かれていたのは、一つの歌だった。
 傲慢な王女に尽くした、彼女の双子の兄である健気な召使の話。
 間違ってもレンの話じゃない。こんなに美しい気持ちでリンの側にいたわけじゃない。
 けれど、それがリンの気持ちだとするならば、これ以上の贈り物は無い。
 必死に涙を堪えて封書を閉じると、今度はイルが語り始めた。
「リンを殺さずに、お前の意志を酌むこともできた。けど、レンに生きていて欲しかった。紅蓮の鉄槌を捨てて、リンを連れてお前を担いでヴィンセントと逃げることもできた。でも今まで死んでいった奴らの犠牲を、無駄にすることもはしたくなかった」
 嘘誤魔化しが一切ないと断言できる声音。イルはそこで言葉を切って、続けた。
「全部、俺の我儘だ。レンは俺を恨むだけでいい」
 どうしてリンも君も、こんなにも僕の痛みを優しく溶かしてくれるんだ?
 本格的に顔が歪む、全身全霊で我慢していたと言うのに、あっという間に堰は決壊した。
「泣けよ。大切な家族が死んだんだから、悲しいのは当たり前だ」
 まるでハウスウォードに居た頃のように、イルはレンに肩を貸してくれた。その暖かさに抗うことなど、思いもよらない。
「リンは……っ大切な、妹だったんだ」
「ああ」
「それでも、利用した。あの子を傷つけて、歪んだ事を教えた」
「ああ」
「だから、守りたかった。最後くらい、守りたかった」
「分かってるよ」
 ごめん、リン。
 約束する。僕はこれから君の兄として、黄の国を再建するから。
 でも、今だけこの優しく強い親友に縋って泣く事を許して。
「うわああああああああああああああああああああああああああああ――……」
 少年の声が、紅蓮の鉄槌本拠地に木霊した。
 どれ程の時間が経ったのか、完全に喉も潰れて涙も尽きた。イルから身体を離し、隣に置かれていた水差しからコップに液体を注ぎ、今度は自分で喉を潤した。
 炎症を起こして熱を持った声帯が、鈍い痛みを刻む。
「ヴィンセントは?」
 掠れた声で、それでもこの時にはレンの頭はこれからのために廻り始めていた。
「今は牢屋に拘束中。たぶん、もう王宮に移送されてると思う」
「そっか、一刻も早く出して働いてもらわないとね」
 ヴィンセントは今後、内紛で弱体化した黄の国を守るために是が非でも必要だ。
「そううまくいくか? 投降したとはいえ、王宮陥落の前日だぞ?」
「革命の最大の協力者で僕の恩人って以上に、どうしても必要な人だからね。その為の仕込みはしてあるから大丈夫」
 しかし、前途多難の事も否定できない。予定していた通りレンがリンの代わりに死んでいれば、『彼女』は他に何の情報を与えられなくともイルに敵意を持たないだろうが、この状況だとそうも行かなくなってくる。一番簡単なことは『彼女』に全てを話してしまうことだが、情報漏洩の危険性を考えるとそれも難しい。
 知らないままであれば、レンは『彼女』にとって最悪の裏切り者として認識されることは違いない。
 『彼女』にとって、少々残酷なことになりそうだ。
「払う犠牲は選ばない」
 誰よりも敬愛している親友を謀り、初恋の少女をその手にかけ、誇り高き武人である理解者を牢屋にぶち込んだ。そして最後に、計画中何度となく傷つけその好意と信頼を利用し続けた、絶対に守りたかった実の妹を犠牲に生き延びた。
 そのリンの遺志、黄の国の繁栄のためならば、レンにとって壊して踏みつけるに躊躇するものは存在しなかった。
「王宮は、もう兵士達に略奪されちゃったかな?」
 リンに色々持たせて研究所に逃がす予定だったのだが、それをする前に眠らされてしまった。見られてまずい書類は全て処分してあるものの、これから必要なものがまだ部屋にかなりある。
「いや、食糧庫だけは漁ったけど、他はほとんど手をつけてない」
「それは良かった。今から確認に行きたいんだけど、その前にやっぱりリンの顔見ておこうかな」
 言いながら立ち上がり、部屋の隅に放られていた服を着た。
「俺も行く」
 予想通りの反応に、しかしレンは首を横に振る。
「リンとは二人にさせて。それと、君にはヴィンセントの様子見に行って欲しいんだよ。どうせ、彼が全部話したんだろう? 変に責任感じていないか心配だよ。まあ、彼に限って馬鹿なことはしないとは思うけど」
「それはいいけど、一人で大丈夫か?」
 レンの豹変ぶりが返って不安を煽ってしまったのだろう。イルはいつになく心配そうだ。
「紅蓮の鉄槌兵士が襲って来なければ大丈夫だよ。僕は王宮に囚われていた可哀相な従者として、ここに居るんだろ?」
「ああ、別に兵士が何かすると思ってねえよ。少し心配なのは、紅蓮の鉄槌の参謀役で俺の世話役みたいなもんなんだけど、元貴族なんだよ」
 思ってもみない事態に、淀みなかった身支度を止めて親友に目を向ける。
 黄の国の中で、辛うじて高等教育を受けていた王宮働きの下級貴族達。人員整理後に目論見通り『悪ノ娘』の悪徳っぷりを宣伝した後、ほとんどの人間が外国に逃亡したと聞いていた。
「まさか反乱軍に参加するほど気合が入った奴が居るとはね。で、名前は?」
 まあ、彼らの前に出たのはその人員整理の時だけだし、面倒ではあるが大した問題になるとは考えなかった。
「ディー=フィリップ」
 その名前を聞くまでは。
 ルシウス=フィリップ、女王付き執事でレンが初めて直接手を下した人間だ。確か嫡男に恵まれなかったために、甥を息子として引き取ったはず。うろ覚えだが、その名前がまさにそうだったような気がする。
 同時にイルの不安要素が理解できた。
「なるほど、ね。僕の事を死ぬほど恨んでるってわけか」
 天文学的な運の悪さだ。目の前で為政者の側近に親戚が殺された人間が、反政府組織に加盟するのは必然と言えばそうかもしれないが。
「ヴィンセントの話を聞いた時、ディーも一緒に居たんだ。納得してくれたから、大丈夫だとは思う。けど、一応言っといた方がいいと思った」
 真実を知ったところで、レンに対する憎しみが消えることは無いだろう。どれだけその死で救われた人間が居ようとも、殺した人間を許すことはできないに違いない。
「うん、知らせてくれてありがとう」
 けど、イルがそう言うならきっとレンを襲うことは無いはずだ。
「これ、地下倉庫の鍵な。棺があって、その中にリンは寝てる」
「わかった」
 懐から出された鍵を受け取り、部屋の扉を開けて廊下に出た。イルも続くが、階段に続く通路に入る所で別れた。
「ヴィンセントの所で待ってるからな。部屋には一緒に行こう」
 まだどこか心配そうな親友の申し出に手を振って了承し、階段を降りていく。少し迷ったものの、鍵の付いている扉は一つしかなかった。
 鍵を使って扉を開ける。空間の真ん中に、白木で造られた棺がある。
 震える手で、蓋を開けた。
「リン」
 死に顔は穏やかで、ただ寝ているだけだと錯覚したくなる。頬に触れると、雪のように冷たい感触が指を刺した。
 出尽くした涙、潰れた喉。
 もう何もできることがない。いや最初から最後まで、リンのためにレンは何もできなかった。
 だからこそ最後だけは、妹のためだけに命を捧げようとしたのに、それすら防がれてしまった。
「馬鹿だよ、君は。僕のために、僕なんかのために死ぬなんて。僕が君をどれだけ蔑ろにしたか、分かってなかったわけじゃないだろうに」
 いつもしてやっていたように、髪を梳く。死ぬ前と何ら変わることのない、指から零れ落ちる程の艶を持つ、圧倒的な輝きがそこにあった。
「あんな歌まで残して、誰にも聞かせられるわけないじゃないか」
 分かっている。全ては全て、レンのためだけにやったことだ。
 でも分からない。レンは自分にそんな価値を見いだせない。
 人間不信のレンが誰より信じていないのは、他ならぬ自分自身だったから。
「終わりにしたかったんだ。けれど君に死なれたから、守られたから――」
 格好のいい理由をつけて逃げ出そうとしたレンに、気が付いていたのだろうか?
「僕は、生きるよ」
 ハウスウォードでの地獄のような日々の中、唯一夢見ていた場所が今そこにあるから。
「ありがとう。大好きだよ、リン」
 いつかまた君と出会った時、助けて良かったと言ってもらえるように。
 手を取り、小指を絡ませる。
「約束だ」
 絶対に破れない誓いを交わした。
 後ろ髪を引かれる思いで、それでも棺を閉めた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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(歌から勝手に書いた)悪ノ召使(25

閲覧数:244

投稿日:2011/03/11 16:37:51

文字数:5,646文字

カテゴリ:小説

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