16.運命の予兆
ピアノの旋律と美しい歌声に包まれている部屋の隅に置かれているソファーに
座っている一人の老人。目はつむられ、口元は少しだけ緩んでいる。
「――る――。――らぼる――。トラボルタ――。トラボルタ殿?」
目をつむっていた老人は、名を呼ばれて、はっとして目を開けた。
「大丈夫ですか?」
そこには、心配そうにこちらをうかがう紳士の姿があった。名を呼んでいたのは彼のようだ。
トラボルタは緩んでいた口元を締め、意味もなく自分の肩を二、三度、はたいてみる。
彼が心地よい長い回想にふけっている間に、部屋を流れる曲はすでに別の曲になっていた。
「えぇ、すいません……。歳のせいか、このところ昔の思い出にふけることが多くて……」
どのくらいの時間、回想にふけっていたのかトラボルタは少し不安になったが、
周りの状況から察するに、思ったほど現実世界では時間は経ってはいないようで安心した。
それからまたしばらくの間、二人の父親たちは我が子のステージを楽しんだ。
曲も始まりから数えて五曲目を迎えたころ、
セル卿は息子に起こった、とあるわずかな変化に気がついた。
ピアノの鍵盤を一心に叩いている彼の首元が、わずかに光っているように見える。
それを見たセル卿は、始めは驚いた表情を見せたが、やがてすぐに難しい顔になり、
何かを考え込みはじめた。
そして、それも終えると最後に、何かを決意するように深く息を吐き出した。
隣にいる老人は、娘のすぐ隣にいる少年の小さな変化はおろか、
自分の隣にいる紳士の大きな変化にも気付いてはいなかった。
「さて…… それじゃ私は、会場の方に戻らせていただきますね?」
そういうと、セル卿はゆっくりとソファーから立ち上がった。
トラボルタも慌てて立ち上がろうとしたが、先に立ちあがった紳士に制止された。
「座ったままで結構ですよ。……それじゃ、あの子たちのこと頼みますね……」
そういうと、トラボルタの返事も聞かないままに、静かに部屋から立ち去っていった。
部屋の前の廊下で父親は、二、三度、部屋の方を振り返り、
そのまま奥に続く暗がりへと消えていった。ただ一言”運命”という言葉を口にして……。
家の主人が部屋から出た後も、しばらくは二人のコンサートは続いたが、
やがてお互いに疲れてしまったのだろうか、ひと時の休憩に入った。
少女と少年の間には、会話こそ少ないが、初めに出会ったころのような
ぎこちない感じはもう微塵も感じられない。
ほんの数曲ではあったが、元々音楽と歌を愛する者同士、言葉を交わすよりも、
彼女たちにとっては濃密なコミュニケーションであったようだ。
トラボルタにとっては、あまりおもしろいことではなかったが、
きっと楽しんでいるだろうミクの顔を見ていると、そうは言ってはいられなかった。
少年の人柄の良さも手伝い、「この子にならミクを嫁にやっても……」などという
突飛で行き過ぎた恐ろしい考えも脳裏に浮かんだが、すぐに自ら消し去った。
――やはり結局、何も起こらなかったな
初仕事もそろそろ終わりの時刻にさしかかり、トラボルタは深く息を吐いた、その時――
部屋のドアノブが、ガチャリと音を立て、回った。
トラボルタは、気を抜いた瞬間にタイミング良くたった音にびくりとした。
老人は、なにやら言い知れぬ悪い予感を抱きながら、ドアの方を向いた。
そこには見覚えのある品のいい執事が立っていた。
「失礼致します……。あの、トラボルタ様……。お電話が入っております。
クリプトンからです。なにやら、少し緊急の用件らしく……」
執事は丁寧にとても聞き取りやすいように話した。
「わかった…… 今、行こう」
緊急の用件という箇所に一抹の不安がよぎる。
こちらも子ども二人だけ残して離れるのは、多少の不安があるが、
離れる時間がわずかであることと、もう危険な事は起こらないだろうという考えが、
その不安を瞬く間に一蹴してしまった。
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