あんなにも幸せだった日々は遠く彼方に押しやられ、今はもうモノクロの世界があるだけ。
気付いたら立ち尽くしていたその場は、頭からつま先まで真っ黒な格好をした人々がさざめくような泣き声を漏らすばかりの空間で、現実感というものが全くなかった。
そんな中佇む私には、目の前で静かに眠る貴方がもう二度と目を覚まさないということさえ夢のように感じられて、無感情なままの動作で手に持っていた赤い花を彼の棺に入れた。
* * *
その後どうやってやり過ごしたのか、頬を撫でる風でやっと自分が外にいることに気が付いた。ゆっくりと流れる風景で今歩いていることを自覚する。
前を歩く姉と兄は言葉少なに何かを話している。
黄色い双子の弟妹は私の両脇で黙って手を繋いでくれていた。
桃色の姉は後ろを歩いているようで、微かな靴の音と時折り洟をすする音だけが聞こえる。
赤、青、黄色。いつもと違って皆同じような黒に包まれてはいるけれど、それぞれの色だけが抜けるような青空に浮かび上がっている。
マスターの好きだった青い空と、マスターを好きなボーカロイド。そんな光景をぼんやり眺めていると、心が少し和らいでいくような気がした。
どうしようもなく非日常なモノクロの空間と、沈み込んだ空気と、そんな中不自然なくらいに彩られた彼の微笑み。周りの人々の若くして逝った彼を悼む声。そういったものに耐えられず、酷く揺さぶられる心と耳を塞ぎたい衝動を抑えていたことを思い出す。
ボーカロイドは歌う為に造られた機械だ。機械は本来感情を持たない。
だが、歌は感情を乗せて歌うものだ。歌は元々感情から生まれたものだから。
私たちボーカロイドは歌う為に、機械でありながら感情を持つようプログラムされていて、その性能はほぼ人間と同じと言っていいらしい。
今までそのことに感謝こそすれ煩わしいと思ったことは無かった。マスターとの生活は幸せで、嬉しい、楽しい、そういう感情ばかりが溢れていたから。
こんなに激しい感情を抱いたことは初めてでどうしたらいいか分からない。
私は初めて「悲しい」という感情を知識ではなく体感として強く意識した。
* * *
『なぁミク。提案なんだけど』
『何ですかマスター、改まって』
『今度の曲、ミクが歌詞を書いてみないか』
『いいんですか!?』
『たまにはね。それにボーカロイドがどういう歌詞を書くのか気になる』
『えぇ、何ですかそれ。実験か何かですか?』
『はは、ごめんごめん。単純にミクがどんな世界を紡ぐのか気になったんだ』
『そういうことならいいですけど……』
『じゃあ、そういうことで。楽しみにしているよ』
* * *
通夜だとか葬式だとか、そういう人間が人間の為に行う諸々の儀式がひとまず済んだ。最中は慣れないことばかりでついていくのに精一杯だったが、終わってみると何だかどっと疲れが出て、私たちは暫く悲しみとも虚無感とも言えない感覚に浸っていた。
ひとまずとは言え諸々が終わったことには変わりはない。じゃあ少しは落ち着いたかというと全くそんなことは無く、今度は今まで住んでいた部屋を引き払う為の引っ越し作業に追われていた。
引っ越し先はマスターの弟さんの家だ。私たちを引き取りたいと言ってくれたのだとめーちゃんから聞いた。本当は落ち着くまでこのままでいたいと言うならそうしてあげたかったのだけどと謝られたとも言っていた。
彼とは何度かマスターの元に遊びに来た際に喋ったことがある程度だが、私たちにも気さくに接してくれて良い人だというのは分かっていた。彼が居てくれるのならこれからの不安や心配も無い。
正直なところ心の整理もまだついていないし、マスターとの思い出が詰まったこの家を出るのは気が進まない。
しかしボーカロイドだけで住み続けるというのも現実的ではないので、こうして少しずつ作業を進めているのだった。
自分の部屋で持って行くものを段ボールに詰めようとしているのだが、元々持ち物はそんなに無いし、取っておいてあるものはマスターから貰ったものだとか、皆で撮った写真だとか、そういうものばかりなので全くと言っていいほど進まない。
どれを見てもマスターを思い出してしまうのだ。
分かってはいたけど本当に私の中はマスターでいっぱいだったのだとつくづく思わされる。私だけではなく、恐らく皆似たようなものだろう。
ここはマスターの家だ。ボーカロイドが6人居たって、マスターが1人居ないだけで途端にこの家が空っぽのように見えてくる。マスターという家主の居なくなった今、私たちを拒絶しているようにすら思えるほどの寒々とした空虚さを見せつけてくる。
葬式の後、帰宅したときに誰かが呟いた「……この家ってこんなに広かったっけ」という声が頭の中に蘇った。
それは単純に1人居ないからか、それとも――
そこまで考えたところでふと我に返る。慌てて作業を再開しようとすると、ざらついた感触が指に伝わった。
「……楽譜?」
楽譜はさっきまとめて段ボールに詰めた筈だけれど、と曲名を確認しようと持ち上げると、その中から一枚の紙がぱさりと落ちる。
そこに書かれているのは自分の文字だった。
* * *
『歌詞の進捗はどうかな』
『まだ書き始めたばかりですよ』
『どんな感じか見てもいい?』
『書き始めたばかりなんですってば』
『えー。ちょっとだけでもいいからさ』
『見たらマスター色々口出してくるじゃないですか』
『そんなことないよー』
『棒読みで言われても信用出来ません』
『本当だって。じゃないとミクに書かせようとした意味が無いだろ?』
『……確かに。でも、折角だからちゃんと自分で書いてみたくって』
『それなら仕方ない。完成するまでのお楽しみということだね』
* * *
書きかけのまま放置されていた歌詞。マスターが居なくなってから何かと忙しかったのと、マスターに関係するものを見るのが辛くて、書く気になれなかったのだ。
私は暫くその紙を見つめていた。
まだマスターが元気だった頃に自分が書いた字は、その内容に反して幸せそうに紙の上を踊っている。完成するまでマスターには見せないと言って、けれど完成する前にマスターは逝ってしまった。
見せれば良かった。
湧き上がる後悔に抗おうとはせず、溢れ出るものも止めず、私はその場に立ち尽くす。目から零れる雫はぽたぽたと紙に染みを作り、文字を滲ませた。ああ、これが“涙”かと、私はどこか意識の遠いところで考えていた。
窓の外には抜けるように青い空が広がっていた。
どれほどの間そうしていただろうか。痛いくらい青かった空は赤みを帯びて、雲が薄く伸びていた。いつの間にか座り込んでいた私はゆるゆると身じろぐと、窓から空を仰ぎ見て、もう一度紙を見た。
意外性を狙って書いた別れの歌。しかし結局途中で詰まってしまって最後まで書き切ることは出来なかった。
ヘッドセットに手を添え、ひとつの楽曲データを呼び出す。すぐに耳に流れるアップテンポなテクノポップ。声の代わりにシンセサイザーの音で奏でられるメロディラインに歌詞を乗せて小さく歌いながら、ペンを手に取る。
遠くに行ってしまう大切な人に送る歌。イメージとしては、卒業ソング。年上の幼馴染が卒業して遠くに行ってしまうけれど、自分はそれを見送るしか出来ない、という設定である。学校、恋、先輩や後輩。そういう何処か少女漫画めいた憧れを形にしてみようと思ったのだ。
何処へでも自由に行けるマスターと、マスターから離れることの出来ないボーカロイドの関係という、自分と少し重なるものも感じながら書いていた。
大体の歌詞は書けていたし、サビの後半はどちらも同じフレーズでリフレインするつもりだったので、詰まっているとは言っても残りの音数自体はそう多くはない。
しかし、今の心境で続きを書ける気はしない。かといって歌詞を全て変えるのも躊躇われた。仮に全て変えるとして、今書けそうなのは死別の歌だが、書いている内に参ってしまうだろうことは容易に想像がついたからだ。
暫く考えて、空いている箇所に言葉を乗せた。小声で確認するように口ずさみ、一つ頷いて私はそのまま言葉を紙に書き留めた。
これで完成だ。
あとはマスターに聞いてもらうだけ。でもどうやって?
窓の外はいつの間にか吸い込まれそうな闇色に塗られていた。
* * *
『何だか難航しているようだね』
『難しいですよー! マスターこんなのいつもどうやって書いてるんですか!』
『はっはっはっ、凄いだろう偉いだろう崇め奉られよ』
『そういうのはいいです』
『つれないなあ。最初はあんなに自分で書くんだって意気込んでたのに』
『うっ……』
『曲を聴いて、感じたままでいいんじゃない? 普段自分が思ってること、好きなこと、憧れてること、とか』
『憧れ……』
『それにしても意外だな。ミクのことだから普通に楽しくてハッピー、みたいなのを書くのかと思ってたよ』
『何かその言い方だと馬鹿みたいじゃないですか。まぁ確かに明るい曲調ではありますけど』
『けど?』
『……何か、寂しい感じが』
『じゃあそういう感じで書けばいいんじゃないかな』
『明るくて、寂しい?』
『そうそう』
『余計難しいですよぅ……』
『まあ案外書き始めたらすぐだよ』
『そういうものですかね……』
『結局口出しちゃったな』
『う……く、口出しじゃなくてアドバイスだからセーフです』
『はは、何だそれ』
『笑わないで下さいよっ』
『ごめんごめん。楽しみだなあ、ミクが書く歌詞』
* * *
夜が明けて、日が昇った。空に広がる綺麗な青は僅かな白さえ許さないほど澄み切っている。
四十九日というらしい法要を済ませ、私たちは家路についていた。
途中でマスターとよく買い物帰りに歩いた大きめの公園に立ち寄った。遊具のある場所は少し離れているが、子供たちが遊んでいる歓声が此処まで聞こえてくる。ベンチの上では猫が暖かい日の光を浴びて丸まっていた。私たちが歩いている道には脇に花壇が並び、赤い花が咲いている。
「マスターこのお花好きだったよね」とリンちゃんが呟き、「理由は教えて貰えなかったけどな」とレンくんが応えた。
「他の花は全然知らなかったのにねぇ」
「あの花に何か特別な思い出があったんだろうね」
やたら恥ずかしがってたもんね、あれは初恋か何かの思い出に違いない――
私たちはその花を眺めながらそんなことを話す。久しぶりに他愛もない話をした気がした。リンちゃんとレンくんは冗談めかしたやり取りを続け、ルカちゃんはしゃがんで花びらを指でそっと撫でていた。めーちゃんとカイト兄さんはそんな様子を見て柔らかい笑みを浮かべている。
青い空と、爽やかな風に揺れる赤い花を見て、私はふと思い付く。
ルカちゃんのように花をふわりと撫でてから立ち上がる。姿勢を正し、ヘッドセットに手を添えた。ヘッドセットの設定をイヤホンからスピーカーに切り替える。
準備は出来た。私は意を決したように空を見つめ、息を吸い込んだ。
* * *
歌を聴いてくれるマスターはもう居ない。だけど聞いてほしい。矛盾した想いを抱えて、どうしたら聞いて貰えるか悩んだ結果、私にはこんな方法しか思い付かなかった。
――この歌声と祈りが、届けばいいなぁ。
歌詞にあるように、空の彼方へ思いを馳せて歌う。マスターの好きだった花の前でなら、マスターに届くような気がした。
「ミク姉……?」
「聴いたことのない曲だね」
「……これって、もしかして自分で歌詞書くって言ってた曲?」
いきなり歌い出した私に驚いた様子の声を聞きつつ、それには構わず空に向かって声の限りに歌い続ける。
殆ど同じ歌詞なのに、卒業の歌からがらりと印象の変わった歌。明るく、しかし感情の感じられない声で紡がれるポップ・レクイエム。
マスターへの別れの曲。
死別の歌詞なんて書きたくなくて、でもマスターとの別れが心から離れなくて、結局元の別れの歌詞に一文だけ死別と分かる表現を入れることでマスターとの永遠の別れを受け入れることにした。
たった一文、だけどそれで精一杯で、それで充分だった。
――あなたの煙は、雲となり雨になるよ。
あなたの愛した青い青い空から、私たちのもとに戻ってくるよ。
だから、だいじょうぶ。
私は、私たちは、何とかやっていけるだろう。またいつか出会う日まで、雲と雨と青い青い空と共に、変わらずやり過ごすよ。
――ありふれた人生を 紅く色付ける様な
たおやかな恋でした たおやかな恋でした
さよなら。
さよなら、愛したひと。
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