今日もベルスーズの入り口のベルが鳴る。
入ってきた人物はやはりいつも通りの冷めた表情で立っていた。


「いらっしゃい、深川さん」
「相変わらず繁盛してないのね」
「何を今更。深川さんこそ、ここのところ毎日じゃないか」
「いろいろあるのよ、いろいろとね」


深川さんは入り口から三つ目のいつものカウンター席に座った。


「縁、カシスオレンジ頂戴」
「メイコさん、さすがに毎日は飲み過ぎですよ」
「毎日同じもの頼んだ覚えはないわよ」
「毎日お酒はよくないってことですよ。休肝日って知ってますか?」
「日常的に酒を飲んでる人が、健康のために飲まない日を作るっていうあれ?」
「そうです。たまには飲まない日を作ったらどうですか?」
「そんなにしょっちゅう飲んでないわよ。バーテンダーのくせにそんなこと言うのね」
「当たり前ですよ。私は金儲けのためだけにお酒を提供するような人間じゃないですからね」


結月は若干不満そうにシェイカーを振った。
彼女は深川さんよりも年下だ。二十代前半とバーテンダーにしては若すぎるその年齢で店を支えている。
母親から受け継いだバーを幼くも守り抜く中で思うところがあるのだろう。


「神威くんから何か言ってやってよ」
「結月は深川さんの健康を考えて言ってくれてるんだ。しつこく酒を勧めるよりかはいいだろう?」
「私の楽しみがなくなっちゃうわよ」
「それに深川さんは、酔うとおさまりがきかなくなる」
「あーあー、わかったわよ」


彼女は決して酒癖が悪いというわけではないのだが、こうでも言わないとべろんべろんになるまで飲み続ける可能性がある。
なぜそんなになるまで飲み続けるのだろう。
以前酔っ払った彼女に聞いたことがあるのだが、「そんなもん、なんとなくよ」と返された。
なんとなくで浴びるように酒を飲むやつがいてたまるか。


「ほら、これで我慢してください」


結月がグラスを深川さんに差し出した。
深川さんがグラスを口元まで持っていって軽く傾ける。


「ノンアルコールカクテルのプッシー・キャットです」
「随分トロピカルな味がするわね」
「でも、さっぱりしているでしょう?」
「そうね、悪くはないわ」


そう言うと彼女はグラスの中身を一気に飲み干した。




「結月さーん、弦の張替え終わりましたよー」


しばらく深川さんと話していると、ギターを手にした女性が歩いてきた。


「ありがとうございます。そういえばギターを弾かないのに、どうして弦の張替えができるんです?」
「梨々がよくやっていたのを見てたので覚えたんですよ」
「そうだったんですね。良かったらこれ、お礼にどうぞ」
「わ!いいんですか?…でもすみません、今日はお酒はちょっと」
「大丈夫ですよ。ノンアルコールです」
「そうなんですか!それじゃあ、いただきまーす」


女性は深川さんの二つ隣の席に座り、カウンターに置かれたグラスを手にとって、軽く中身を喉に流し込んだ。


「おいしい!甘くてさっぱりしてる!」
「シャーリー・テンプルって言うんですよ」
「へー!これ好きになりました~」


美味しそうに言う女性に深川さんが声をかけた。


「あれ?もしかして…初音ミクさん?」


ピタッと動きが止まったかと思うと、おそるおそるといった感じで深川さんに尋ねた。


「…し、知ってるんですか?」
「知ってるわよ。シンガーソングライターでしょ?」
「こんな田舎に私のこと知ってる人がいるなんて」
「田舎でもあなたの音楽が好きな人はいるのよ」


うぐ、と言葉を詰まらせて黙り込む女性。
少しの沈黙の後、女性がグラスを置いた。


「そうですよね。田舎といえど、地元なんですからファンがいてもおかしくないですね」
「あら、そうだったの。この小さなお店で会えるなんて思わなかったからびっくりしちゃったけど、地元なら確かにここを知ってる理由も頷けるわね」
「小さい店で悪かったな。初音さん、深川さんの言うことは気にしなくていいから」」
「気にしますよ、ファンだって言ってくれたんですから。…正確にはもう初音ミクじゃありませんけど。今は休業中なんです。休業というか、もう辞めたも同然なんですけどね」
「いいのよ、きっと深い事情があるんでしょう。好きなアーティストのプライバシーを探るようなことはしないわ」


深川さんの言葉にありがとうございます、とだけ言って初音さんはグラスの中身を飲み干す。
そしてグラスを置くと、深川さんに笑顔を向ける。


「良かったら一曲聞いていってください」
「え、いいの?休業中なんでしょう?」
「大丈夫です。私、よくここで弾かせてもらってるんで」




紡がれるオルガンと彼女の声は、静かな店内を心地よく満たしていく。

シンガーソングライター、初音ミク。
かつて東京で夢を追った女性がなぜ休業して田舎へ戻ったのか。
簡単な話だ。悪意の持ち主が一人のか弱い人間の夢を嘲るように、監視し、追い込み、未来を摘み取った。
戻ってきた当初は精神が崩壊寸前まで追い詰められ、薬を大量に煽って暴れることもあった。
彼女の親友が支え続けたからか、一年経った今ではずいぶん回復したように見える。
『ここには私を品定めする人もいないし、身内だけだから楽しく音楽ができる。それが嬉しいから、ですかね?』
本人がそうやって上機嫌に笑ったのはつい最近のことである。



「でも、副店長。よくお客さんが楽器を弾くのを許しましたよね」
「急になんだ?」
「だってほら、どんなお客さんにも、オルガンには触らないように言っていたじゃないですか」
「ああ、その話か。別に人に話すようなことはないよ。ただ、彼女ならすごく大切にあのオルガンを扱ってくれる気がしたからね」
「あのオルガンに、強い思い入れがあるんですね」


嘘を言っているわけではないが、かなり端折って真実を言うとさっきのようになる。
初めて初音さんが来た時、世界に裏切られたような表情をしていた。
そんな女性が注文以外に発した言葉はただ一つ、「あのオルガンを弾かせてください」。
普段なら断っているが、その時の初音さんの暗い瞳に、首を横に振ることができなかった。
その時店内にいたのは俺一人で、結月や巡音はいなかったから、知るはずもないのだ。

酷く傷ついた初音さんの繊細な指は、彼女の生き様を語るように切なげに鍵盤の上を舞い踊る。
そこに彼女の親友がやってきた。
ややあって、彼女の親友『橘 梨々』の話を聞いて、初音さんの事情を知ることになった。
それから、初音さんの精神を回復させるためにも、オルガンの演奏を許可したのだ。
何より、その音楽を愛する心だけは失われていなかったから。


「どういうことか、訳あり客が多いんだ。ここの常連客は」
「まさか副店長も訳ありじゃないですよね?」
「無駄口叩いてないで仕入れに行ってきたらどうだ?もうカクテルの材料が少ないんだろう」
「そうだった!じゃあちょっと店番をお願いしますね!」


思い出したように荷物を掴んで店を出て行こうとする。
と、突然振り返り、結月が深刻そうな顔で俺に問う。


「私、いつも免許証を見せても未成年だと疑われて買出しが長引くんですけど、これは訳アリに入りますか?」
「さっさと行け」


行ってきまーす、と飛び出して扉が勢い良く閉まる。
その音も店の奥には届かなかったのか、オルガンの音が止むことはなかった。
あいつ、意外に大変なんだな。
今度労いに何か好物でも作ってやろう。好物知らないけど。











二人の常連客が帰り、結月は未だに買出しから戻らない。
いつも買出しが長引くのは知っていたが、まさか本当に酒の仕入れに足止めされているのだろうか。
若いバーテンダーは本当に大変なんだな。


「ねえ聞いてる?」
「聞いてた聞いてた。スーパーのタイムセールにいつも間に合わないんだろう?」
「いやどんな話!?絶対俺の話聞いてなかったでしょ。何考えてたの」
「今度の新メニュー」
「真面目だなあ」


もっと息抜きしようよ、と目の前にいる男はへらへらと笑う。
深川さんたちが帰ってすぐ入れ替わるようにこの男はやって来たのだ。


「海人、お前どうしていつも人がいない時に来るんだ?」
「いやあ、偶然としか言いようがなくてね。ここまで来ると悟りの境地だよね!」
「嘘をつくな。何年も他の常連客と楽しそうに話してたお前が、三年前から来る回数を減らした。それどころか誰もいない時間を見計らって来店してるように見える」
「ちょっとね、人と接するのに疲れちゃったんだよ」


音崎海人。俺の昔からの友人。
昔から彼女を作っては別れることを繰り返していた。
女遊びをしていたわけではないことは知っている。
そうなるに至った理由もよく知っている。
それでも長続きすることはなくて、いつも他人を信じていないようだった。

ある時、上辺だけの付き合いを続けていた海人が、人付き合いに積極的になった。
どうやら新しくできた彼女と上手くいっているようで、その影響なのだろうと思った。


「人付き合いに疲れたって?お前、彼女と上手くいってたんじゃないのか?長い付き合いなんだろう?」
「もう別れたよ。三年前に」
「なんだって?初耳だぞ」
「わざわざ言うことでもないと思って」


なるほど、だから急に人を避けるようになったのか、なんて考えたのもつかの間。
ふとした違和感が頭に駆け巡る。

三年前、雨の中店の前で蹲っていた女性がいる。
彼が忘れさせてくれないと、泣きながら女性は語った。
その女性が来るようになってから、海人は人目を避けるようになった。

過去に囚われた女性と、過去へ巻き戻る男性。
まさか。


「まさか、深川さんを避けているのか?」
「――その名前を呼ぶんじゃない」


海人の表情から笑みが消える。
瞳に宿る感情は、かつての海人と同じもので。


「お前、彼女に何をされた?何を、言った?」
「さっきも言っただろう、わざわざ言うことじゃないって」


カウンターにカップを置く音が響く。
中に残されたコーヒーが、水面を揺らしていく。



「芽衣子は悪くないし、嫌いじゃない。…ただ今は、会いたくないだけ」


その声色に、先ほどの表情の意味を悟った。
海人は深川さんに怒りなんて向けていない。
ただ、互いを引き裂くような何かを、海人はしたんだと。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

Distance【Ⅳ】

【side:G】
お久しぶりのシリーズです!

プッシー・キャット:オレンジジュース、パイナップルジュース、グレープフルーツ・ジュース、グレナデンシロップが材料のさっぱりとしたノンアルコールカクテル。スライスしたオレンジをグラスの縁に飾る。グレナデンシロップを増やすと別のカクテルになる。

シャーリー・テンプル:ジンジャーエールにグレナデンシロップを加えたノンアルコールカクテル。禁酒法が解かれた後のアメリカで、親と一緒に子どもがカクテルを飲めるように、当時の有名子役の名が付けられた。


別コラボで投稿した「Pygmalion Complex」と繋がるお話です。
こちらは番外編です。リリィさんとミクさんがメインのお話。

カイメイ要素が全然入ってこないのが驚きですね!

閲覧数:146

投稿日:2017/11/03 23:10:43

文字数:4,303文字

カテゴリ:小説

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