酒気を帯びた吐息がかかる。
「なぁにしてるのぉ?ヒック」
「何してるじゃないよ、姉さん。また昼間からお酒飲んでるの?」
べたりと背から手を回し覗き込む姉の吐く息は明らかにアルコール成分を含んでいる。豊満な胸が肩に押し当てられ、赤いジャケットの襟が僅かに覗く。手には酒瓶を持っており、セールで買った安い日本酒だと分かった。
「いいじゃないのぉ別にぃ~。減るもんじゃなしぃ‥‥ヒック」
いや、酒は飲めば減る物だ。酔っ払いに言っても仕方の無い事だが‥‥
カイトはふぅと溜息を漏らした。
「あらぁ?カイト、元気無いわねぇ?悩みがあるなら聞いてあげるわよぉん?」
さらに身を乗り出し、顔を寄せてきた。パンパンに張った胸は意外と固くて背が圧迫される。近付いた事で姉の茶色い短髪がカイトの目に刺さった。
「いたっ‥‥もぅ、姉さん何するの‥‥」
別に何かしたと言う自覚もないだろう酔っ払いにカイトは悪態をついた。
ボーカロイドメイコ。カイトの姉でスタイル抜群、始まりのボーカロイドである。このスタイルの良さに目を奪われる男は少なくないだろう。ただ、少々酒癖が悪い‥‥直接言ったら殴られそうだ。
カイトの考えなどつゆ知らず、メイコはフフンと鼻を鳴らしてニヤリとしたたかな眼差しをカイトに送った。
「‥‥何?」
一瞬、酔いの醒めた表情は気のせいだろうか。へらっと冗談っぽく笑うメイコはやはりただの酔っ払いのようだ。
「いいねぇ若いってのは。私にも来ないかしらねぇ?青春」
何を言っているのだろう?いくらも歳は変わらないはずの姉はそれでも未だニヤニヤと笑っている。
「?」
訝しんで眺めているとメイコはすっとカイトの背を離れた。
「さて、周りが見えない若者達には姉さんの声は届かないだろうけど、兄妹仲良くやりなさいよ?時にケンカも悪く無いけど、あまりマスターに迷惑かけないようにね」
まるで何かを予感したようにメイコはさっさとカイトの部屋を出て行った。手には酒瓶、足下はおぼつかず、やはりただの酔っ払いなのだろうか‥‥?
カイトはふぅと溜息を漏らし、また自分の楽譜の束に目を落とした。
ケンカ‥‥
ふと、カイトはメイコの言葉を思い出した。
馬鹿馬鹿しい。ケンカなど誰がしようか?むしろよく酒の勢いで衝突しているのは姉さんとマスターではないか。だがそれだけに、マスターが一番信頼しているのも姉さんだったりする。
「腹を割って話す、か‥‥よし」
カイトは楽譜の束を机に押し当て立ち上がった。キッチンの冷蔵庫を漁ると小さな缶を取り出してまた別の部屋へ向かった。
トントン。
「だぁれぇ?今酒盛り中~。注意なら受け付けないからよろしくぅ~」
完全に酔っている。最早まともな話ができるとも思えない姉の部屋にカイトは遠慮がちに入って行った。
「あら、カイトぉ?何の用かしらぁ?丁度良かった。今最後の一滴が無くなった所なのよぉ~。冷蔵庫の横に常温の美味しいお酒あるからとってきてよぉ~」
全く悪びれもしない姉に溜息をつき、カイトは一言。言おうとして言葉を呑み込んだ。
「‥‥?カイト?」
探るような眼差し。酔っても姉は姉である。
「う~ん?‥‥」
手には小さな缶。一見ジュース缶のようだがフルーツの絵の脇に小さく『お酒』と書いてある。
「こぉんな真っ昼間から飲んでちゃダメよぉ~?カイトくぅ~ん」
自分の事を棚に上げ、メイコはカイトの手にした小さな酒の缶を取り上げ目の前でゆらゆらと振って見せた。缶チューハイ、発泡酒は言わば炭酸飲料。今開ければどうなることか‥‥
顔を寄せ、胸元辺りから見上げるように酔った目でカイトを見つめるメイコ。ミクとは違いその豊満な胸は赤いジャケットからはみださん勢いで谷間がこれ見よがしにさらけ出され、前屈みの丁度良い角度だろうがメイコの顔が邪魔して全く見えない。もう少し下がってくれれば‥‥
ニヤリと一瞬笑ったかと思えばメイコは案外酔っていないのか後ろを向いて一言。
「出直してらっしゃい」
いつもは「私の酒が飲めないのか~」と言いながら無理矢理飲ませようとするくせに、今日は何だか逆である。普段ただの酔っ払いな姉は姉の威厳なんて微塵も感じさせないが、こんな時だけは何故か逆らえない。何故だか姉が正しく見えた。
引き返し、自室に引きこもるカイト。仕方なしに好物のアイスを食べると少しだけ気が和らいだ。
「うん、美味しい。やっぱり夏はアイスの季節だよね」
独り言である。そもそもカイトは季節問わずアイスを食す大のアイス好きだ。夏であろうと冬であろうと関係ない。
「幸せっ♪」
「幸せ‥‥そっかぁ、幸せなんだぁ‥‥」
いつの間に居たのか、開けられた扉の所にマスターに着いて看病していたはずのミクが立っていた。
「楓さんが苦しんでいるのに、お兄ちゃんは幸せなんだぁ‥‥へぇ‥‥」
まるで責めるような態度だ。何かあったのだろうか?
「ミク?‥‥」
話を聞こうと妹に近付いた時だった。
ビュン。
一振り、ミクは隠し持っていた長ネギを力強く横に振って物凄い剣幕でカイトを睨み付けた。
「ミク‥‥!」
兄として注意しようとした時だった。怒鳴り声に驚いたのか、ミクの瞳が微かに揺らいだ。ほんの一瞬、潤んだようにも見えたがすぐ後ろを向いて部屋を出て行ってしまったので確かめようもない。ミクの居なくなった後、部屋には折れたネギとネギがぶつかって傷付いた柱だけが残っていた。
カイトはミクの置いていったネギをかたし、汚れた柱を拭いてもう一度ミクの事を考えた。
ミクは「幸せ」と言う言葉に対し怒りを示していたように思う。よく考えれば不謹慎かもしれない。主人が風邪で寝込んでいるのに自分だけ好物のアイスを貪り幸福に浸るなど間違っている。そう考える事もできるが何か引っかかる‥‥。
「楓、さん‥‥」
カイトは口に出して少し後悔した。この家でマスターを「楓さん」とお呼びするのは自分だけ。それも二人きりの時に限っていた事なのに、ミクはその呼び方をしていた。マスターが許したと言う事だろうか?やはり、ミクは‥‥
トクベツ―――
カイトの脳裏にミクの顔が浮かぶ。その柔らかな笑顔を微笑ましく眺めるマスターの顔はなんと嬉しそうなのだろう?
妄想が広がりカイトは目の前が暗くなるのを感じた。
マスターはミクさえ居れば良いのだろうか?自分はもう要らないのだろうか?他とは違う、自分だけは‥‥そう思っていたのに、ミクは自分のアイデンティティを全て持ち去ってしまったと言うのだろうか?
気付けば手にはアイスピック。突き立てられたのは楽譜の束。机に穴が空いてしまうほど、何度も、何度も‥‥
「くっ‥‥」
カイトは唇を噛み締めた。悔しいが仕方がない。それがマスターの選んだ答えならば、自分は従うしかない。そう、マスターの期待に添えなかった自分にも非がある。ミクはその点きちんとマスターの願いを叶えた事だろう。褒めてやるべきだ。自分の出来なかった事を、彼女はやってのけたのだから‥‥
部屋に残されたのは穴の空いたボロボロの楽譜。開け放たれた扉から入った空気が止める物を失った楽譜の束を部屋中に散らした。
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