雅彦が訪れたのは、とあるアパートの一室。今日は野口に、ボーカロイドについて教えてもらう為、野口の住んでいる所にやって来たのだ。
「部屋の番号は、合ってるな」
ドア横のチャイムを鳴らす。
「はい」
「安田です」
「おう、開いてるぜ、入れよ」
そう言われ、雅彦はドアを開け、部屋を一目見てびっくりした。とにかく部屋中がミクだらけなのだ。壁には一面にミクが描かれたポスターやカレンダーやタペストリーが飾られており、棚やテレビの上にはミクの人形やフィギュアが所狭しと並んでいる。部屋の一角に本やCDの入った棚があったが、恐らく大半がミク関係の物ばかりだろう。そして机の上に置かれたPCや床に置かれたゲーム機にも、ミクがペインティングされていた。
「どうだ、凄いだろ」
と、自慢気に野口が言う。
「…圧倒されました。そう言えば、PCやゲーム機にあんな初音ミクさんのペイントってあるんですか?」
「ああ、あれか、俺はネット上で知り合ったミクちゃんのファンのコミュニティーに入っていてね。その中に金さえ払えばあんなペイントをやってくれる奴がいるのさ。そいつに頼んで、ああいうペイントにしてもらったんだ。正に職人芸って奴だな。マサ、コーヒーで良いか?」
「はい」
しばらくして、野口が自分の分と合わせてチョコレートとコーヒーを持ってきた。チョコレートはミクと菓子メーカーがタイアップしたチョコレートであり、コーヒーカップにも、当然のようにミクが描かれている。
「…本当に初音ミクさんだらけですね」
「そうだろ。周りをミクちゃんに囲まれて暮らすのって楽しいぜ。…さて、何から話すかな」
コーヒーにフレッシュと砂糖を入れながら先輩は考える。
「とりあえず、ボーカロイドの歴史からだな。マサ、準備は良いか?」
「ええ」
「まず、ボーカロイドというのが何かについてからだ、ボーカロイドってのは元々コンピュータ上で歌を歌わせる為に作られたソフトウェアだ。楽器なんかはボーカロイドが生まれる以前からコンピュータ上で鳴らす事が出来て、演奏なんかにも取り入れられていたんだが、人間の音声だけはそうはいかなかった。それを変えたのがボーカロイドというソフトウェアだ」
そう言って、野口先輩はソフトウェアの入ったパッケージを持ってきた。そこにはミクが描かれている。
「ボーカロイドがアンドロイドとして生産されるようになった今でも、ソフトウェアの販売は継続されている。今ではアンドロイドとして生産されたボーカロイドを使って曲を作る奴もいるが、以前と同じ様にソフトウェアの方を使って曲を作る奴も多い。ソフトウェアの方が世の中に出た歴史が長い、従ってその分過去の資産があるから、そう言う意味だと有利かな」
「野口先輩。ソフトウェア版のボーカロイドを持っているという事は、もしかして作曲もされるんですか?」
「いや、俺はしない。俺が持っているのは、ミクちゃんのファンとして持っておくべきと思ったから持っているだけだ、ただ、もったい無いと思うのも事実だがな。もしマサが曲を作るなら貸してやるぞ?」
「いえ、遠慮しときます」
「そうか」
野口はそう言うと、パッケージを戻した。
「ボーカロイドが発表されてから長い時間が経ち、アンドロイドが生まれてきた。アンドロイドは今までのロボットと比べ、遥かに人間に近い存在だった。当然と言うべきか、ボーカロイドにもアンドロイド化の流れが押し寄せてきた。元々ミクちゃんたちは、ファンの間じゃ俺たち人間に近いキャラクターとして肉付けされていたから、そう言う要望が出る流れは当然だったのかもな」
「それでボーカロイドがアンドロイド化された、と」
「そうだ。因みに発表された順は、最初からMEIKOさん、KAITOさん、ミクちゃん、リンちゃんとレン君、ルカさんの順で、これはソフトウェア版の発表順と同じだ。確か発売日も一緒じゃなかったかな」
「登場は全部一緒じゃないんですか?」
「ああ、多分その辺りは意識された物だろう。俺は、それを聞いた時、中々憎い演出だと思ったな…、それで、それらのボーカロイドをベースに、ライブなんかで歌う為の特殊仕様のボーカロイドが生まれた、それがメンテナンスの為に俺たちの研究室に来るミクちゃん達だ」
「巷に溢れているボーカロイドど初音ミクさんたちはどう違うんですか?」
「デフォルトの設定だった場合、少なくとも見た目は全く同じだ。違うのは中身で、歌う為にソフトウェア、ハードウェア共にかなりのチューニングが施されている事と、量産品と比べてコストを度外視した遥かに良い部品を使っている事、後はライブで演出を行うための改修をしている位だ。逆に言えば違いはそれだけだから、量産品を使ってライブする事も出来る。高校なんかの文化祭だと、たまに見る事が出来るな。もちろん本物のミクちゃん達のライブと比べると大分劣るし、完全再現は出来ないが、結構面白いぜ。マサの通っていた高校とかで無かったか?」
「いえ…、文化祭とかには興味が有りませんでしたから」
「ふーん、そうか。…とまあ今まで話したのが大まかな概略だけど、これがボーカロイドの歴史だ。分かったか?」
「ええ、野口先輩、ありがとうございました。それでは…」
「おいおい、何帰ろうとしてるんだよ。講義はまだまだだぞ。それだけの為にマサをここへ呼んだと思っているのか?」
帰るために立ち上がろうとする雅彦を止める野口。野口は呆れている。
「え、まだあるんですか?」
「当たり前だ。ミクちゃんの講義があれだけで終わるわけがないだろう。次はボーカロイドの中で非常に重要な位置を占める、創作の連鎖についてだ」
「創作の連鎖?」
「そうだ、今から教える事が、俺の授業の肝と言っても良いな」
そう野口が言うと、背筋を整えた。
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