この世界には、確かにうつくしいものが存在する。
それを知っているから、それに憧れ、焦がれる。いつか自分もああなりたいと思って、多少生活態度を改めてみたりする。
でも同時に、どうしようもないということにも気付いてしまう。私では、届かないんだと。
彼等と私の間の断絶は、どうしようもないくらいに明らかで…私はいつだって、伸ばした手を黙って引っ込めることしか出来なかった。
<私的空想パレット・1>
「リンってさ、ホントに邪気がないよね」
そう言われて、私はちょっと目を瞬かせた。
邪気がない…そうかなあ。
よく言われることだけど未だに慣れない。
だって、邪気がない、つまり無邪気って事だよね?それは多分、当たっていないと思う。かといって邪気まみれかって言われたらそんな事もないんだろうけど。
何も考えてないって言われるのなら分かるんだけどな。実際何も考えていない時ってあるし…
「…そうかなぁ?」
私の疑問の声に、友達は自分の席に座ったまま大きく頷いた。
「うん。ちょっと浮世離れしてる感じ」
「浮世離れ…それっていい事?」
「あー、でもアキの言ってる意味わかるな。なんか地に足が付いてない感じなんだよ。ふわふわ~」
「現実離れしてるよね」
うーん、褒められてるのかなあ…
ちょっと微妙な心境になるけれど、いろいろ言う皆に苦笑しながらも一応その評を素直に受け入れる。
まあ、いいか。褒められてるって事にしておこう、うん。
「ふむ?」
私の苦笑いを見てアキちゃんがにやりと笑う。
思わずびくっと肩を揺らす。何だろう、アキちゃんってちょっとワイルドだから、何を言おうとしているか予測がつかない。
「おやリン、不満があるなら言っていいんだよ」
…いやぁ、それじゃあ飲み屋で絡むおじさんだよ…
「え、いや別に」
「ふふふ、だが私には見えるのだよ…お前の心の声が…!」
「何キャラだって」
びし、と他の皆が突っ込みをするのを確認して、「じゃあちょっと本返してくるから」と席を立つ。
居心地が悪い、と言うほどでもないけれど…なんだか心の奥のほうで疼くものがあった。
思ったことをそのまま口にする事ってあんまりない。目立たないなりに、大人しく、受け身でいること。それが私の学んだ私の在り方。
…いや、それで満足している訳じゃないけど、でも、変わるにしてもどう変わればいいのか分からないから。
目立てるだけの何かを持っているわけじゃない。私は、自分に取り立てて何かがあるわけじゃないってよく知っている。
だから、出過ぎた真似はしない。
人を纏めたり、皆の前で何かしたりするのは、そういう輝きを持つ誰かの役目。何の華もない私がするべき事じゃないんだから。
そう思って、私はちょっと笑みを浮かべる。
本当はそういう事をするのは嫌いじゃない。むしろ、そういう役は性に合っているし、大歓迎だったりする。
でも、私は黙って歩く。本音の囁きには知らんぷりをしながら。
両側の壁がガラス張りの渡り廊下には、燦々とした日差しが入り込んで来て暖かい。
ほう、と溜息をついて、遠回りに図書室に向かう道を選ぶ。静かで人が少ない、お気に入りのコース。
…こんなに気持ちいいのに、またすぐ校舎に入っちゃうなんて勿体ないよね。
爽やかな陽気が嬉しくて、少しうきうきした気分で家庭科室や工芸室の前を通る。
そこで私は、はた、と少しだけ目を開いた。
第二美術室のドアが、開いている。
うちの学校は戸締まりにはかなり厳しいから、ドアが開いているということはつまり、中に誰かいるということだ。
―――でも、誰が?
一般生徒が授業を受けるのは、第一美術室。第二美術室は、美術部の活動場所のはず。
でも、美術部の友人いわく美術部は今現在まったりした部員ばかりで、昼休みに活動するような気合いのある人間は殆どいないそうだ。
勿論不真面目というわけではなく、活動日にはしっかりと絵を描く部員達だけれど、わざわざ時間外に鍵を借りに来るのは面倒らしい。
だから私は、部活動時間内で真面目にやっていればそれでいい感じなのかな、と思っていたんだけど…なんだ、こうして休み時間に描きに来る人もいるんだ。凄いなあ。
どんな人がいるんだろう、と美術室を覗き込んで―――私は少しだけ首を捻った。
誰もいない。
「……あれ」
美術室内に人影はない。
―――どこかに出掛けているのかな。
とりあえず廊下を見回してみて、人影がないのを確認する。
廊下にも教室にも誰もいないということを確かめてから、私はそろそろと部屋の中に足を踏み入れた。別に特別な理由があったわけじゃなく、ただ、入る機会のない美術室の中に興味があったから。
珍しい何かがあるわけじゃないと分かっていたけど、他に誰もいないという状況が私の背中を押した。
後で冷静になって考えたら、この時の私はかなり度胸があったと思う。…あ、正確に言うなら、考えなしだったって言う方が正しいかもしれない。
とにかく、止めてくれるような人もいなかったから、私は難無く第二美術室に入り込むことに成功した。
「…おお」
そこは普通に、美術室だった。部室を兼ねているから散らかっているのかと思ったけれど、記憶にある第一よりも綺麗に片付いているくらいで、ちょっと驚く。
一通り辺りを眺めて、そこでやっと私は、一つだけ窓向きに立てられているキャンバスがあることに気付いた。
ええと、あのキャンバスを立てかける骨組み…何て言ったっけ。なんとか板、だった気がするけど、とにかくそれに立て掛けられている。
遠目にも分かる鮮やかな色彩に気をそそられ、私はそちらに向かう。窓に向いて置かれたキャンバスと、横の机に置かれたパレット。明らかに作業途中に席を立ったのが分かる置かれ方だった。ぷん、と香る油絵の具の匂いが鼻を掠める。
嗅ぎ慣れない溶剤の香りがいかにも腕が良さそうな感覚を呼び起こす。でもこの香り、ずっと嗅いでたら頭痛くなりそう…。
そっとキャンバスの前に立ち、そこで改めて絵を眺めてみた。
その絵ははまだまだ製作途中らしく、色の塗りが軽い部分がある。
ただ、窓からの景色を描いたのだろうそれは、今の段階で既に精密で、生き生きとしていて、私は感心してそれに見入った。
…これ、本当に私と同年代の人が描いたのかな。これは、なんというか、うん、才能だと思う。
そこにあるものをただ正確に写したわけじゃなくて、描かれたものが表情を持っている。眠そうな杉の木とか、やたらと元気なビオトープとか、どれもこれも自分勝手な顔をしてキャンバスに収まっている。
「…いいな、これ。好きだなぁ」
「どうも」
「!?」
―――なんとなく零した声だったのに、何故か返事があった。
背中に掛けられた予想外の声に、慌てて後ろを振り向く。
そこには、眼鏡を掛けた男の子が片手に絵の具のチューブを持ち、少し困ったような顔をして立っていた。
―――ど、ど、どうしよう。
まさか聞かれているとは思わなかった。というか、状況から判断するに彼は明らかにこの絵の作者なわけで。
「え、あ、…あの、か、勝手に見ちゃってごめんなさい…」
とりあえず、最初に頭に浮かんだ言葉を口にする。恥ずかしいやら罪悪感やらでパニックを起こしている頭を必死で落ち着かせようとしても、なんだか全然言うことを聞いてくれない。
ううっ、しっかりして私!とりあえず初対面の相手に怪しまれないように…ってもうすでに遅い!?
目の前の子は決まり悪そうにあちこち目線を逸らしてから、一つ溜息をついた。
「…いや、こっちこそつまんない絵でゴメンなさい」
「そ、そんなことないですよ!つまんないなんて…こんなに分かるのに!」
「…分かる?」
はて、と彼は不思議そうな顔をする。
ああ…そうだよね、意味不明だよね。でも、どう言ったら良いんだろう。分からない。語彙力のない私には、思いつかない。そのうえパニックになっているからいつもよりも思考回路が混乱していて…うう、もう目茶苦茶だよ!
「あ、えっと、あの、えと…」
顔が熱くなる。俯いてしまう。
どうしよう、このままじゃフォローすら出来ない位に変な子だ。
―――私、何してるんだろう。彼に声を掛けられたとき、逃げ出してしまえばよかったのに。
パニックが行き過ぎて、勝手に涙腺が緩んでくる。
今更かもしれないけど…でも…背中を向けて逃げ出すのはアリですか…!?
「…あの」
落ち着いた声が掛けられて、私は顔を上げた。まずい、半分涙目だ。
彼はろくに整えられていない髪の毛を跳ねさせながら、ゆっくりこちらに歩いてくる。
髪が好き勝手な方向に自我を主張しているのが、彼の持っている一匹狼みたいな印象を強めていて、私は状況とかを全部忘れて、ついこう思ってしまった。
―――彼、絶対グループ行動苦手だ。しかも積極的に嫌がるんじゃなくて、嫌だけど不器用に渋々言われたことをやって、周りが近付かなくなるように計画するタイプ。
知能犯だ…!とかなんとか私が自分で考えた事で戦慄している間に、彼は入り口からのわずかな距離を悠々と歩き、パレットを手にした。
そして、さっきまで握っていたチューブからセルリアンブルーの色を搾り出す。
事務的な雰囲気でそれを行いながら、無愛想に彼が言う。
「これはまだ完成してないんです」
「…みたい、ですね」
「でも、あと一月もすれば完成します」
「は、はぁ」
ぽい、と何かを放り投げられ、私は反射的にそれを受け止めた。
中身のなくなった、セルリアンブルーのチューブ。眼鏡の向こうで細められた目の色と、ちょっと似ている。
「え」
「その時にまた見に来てください。感想を聞きたいので」
「…あ、あの」
「では」
口を挟む暇もなく、彼はまた椅子に座って絵筆を取る。何もなかったかのような―――そして今この場に自分しかいないかのような動作。
…どうしよう。
私は、投げ渡されたチューブを見つめた。
掌にすっぽり収まってしまうような、小さな銀色のチューブ。賢明な選択をするのなら、そこら辺の机の上にこれを置いて部屋を出て行き、無愛想なくせに妙に馴れ馴れしい少年の事なんて忘れるべきだ。
でも―――…
私は、そっと体の向きを変えた。足音を殺して部屋を出る。
結局手の中に、投げ渡されたセルリアンブルーを握りしめたままで。
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