第四章 03
焔姫は、それからは一度も振り返る事なく歩いていく。その後を、男は早足で追いかけていた。
いつもとは違う状況だったが、その構図という意味ではいつもと同じと言えた。焔姫と男が歩いていく途中ですれ違う者たちはそれこそ何人もいたわけだが、彼らは二人の様子が普段と違うという事に気づきもしなかった。
焔姫は王宮広間から階段を降り、一階へ。それから回廊を突っ切り、王宮の正面の方へと向かう。
男には、焔姫がどこに向かっているのか見当もつかなかった。王宮から出ようとしているわけではないはずだが、だとしたら一体どこに行くのか。
そんな事を考えていると、焔姫は王宮入口のすぐ脇にある扉を抜け、松明を手にしてさらに階下へと降りる。
男も先日初めて入ったばかりの王宮地下にある、地下水脈が流れる伽藍だ。
明かりは唯一、焔姫の掲げる松明だけだ。男はその揺らめく光を追いかけ、階段を降りてゆく。
こつこつと、階段を降りゆく二人の足音が大伽藍を反響する。階段を降りきると、焔姫は松明を壁に立てかける。
松明の明かりは頼りなく、伽藍の反対側にある祭壇はうっすらとしか見えない。冷え冷えとしたそこに、かすかに水の流れる音が響く。
男も階段を降りきり、焔姫の横に並ぶ。焔姫は階段を見上げて、他に誰もついてきていない事を確認すると、再度ため息をついた。
「まったく。なれには隠し事が通じぬと見える。余の事は何もかもお見通しという事かえ?」
焔姫は男を見ず、目を細めて祭壇を眺める。
それが先ほどの男の思いを肯定しているのだと、とっさに分からなかった。
だが、焔姫は認めたのだ。戦で死んでいった仲間たちについて、自らがまだ折り合いをつけられていないのだと。
「そんな事はありません。ただ、何となくそのように感じただけで……」
「それでも、今まで誰にも気づかせなかった事を、なれに気づかれてしもうた。余も……なれには油断しておるのやもしれぬな」
焔姫はそれを「油断」と評した。「心を許している」や「信頼」ではなく。その言葉を選ぶという事実が、焔姫の過酷な現状を如実に示しているように男は感じられた。
焔姫は視線をさまよわせるが、男の方を見ようとはしなかった。
それはたまたまだったのか、それとも見る事が出来なかったからなのか。
「余は、過ちばかりを繰り返しておる。三百十二もの命を失わなければ得られぬ勝利など、敗北と何ら変わらぬ」
「……そんな事はありません。敵には二倍もの兵力があったのです。それだけの被害で済んだ時点で奇跡のようなものです。その奇跡を成したのが、姫の手腕なのですよ」
焔姫は、ようやく男を見る。その顔は、泣くのをこらえているように見えた。
「父上は……国王は言われた。被害は半数に抑えられたはずだ、と。それが全てじゃよ」
「それは……」
男は言葉を失う。
そんな事はない、というのは簡単だ。だが、それは国王が間違っていると言う事になる。いくら焔姫にしか聞かれないとはいえ、不敬にはそれなりの罰が待っている。
また、国王は厳しい事を言っただけではないかと言えば、それを為すべきなのが焔姫だった、となるのは明白だった。
「……鎮魂の儀の折、余は一度も振り返って民の姿を見る事が出来なんだ。儀式の手前そうする事が出来なかったのでは無い。振り返る事が出来たにも関わらず、命を奪った張本人である余を恨んでおるのだろうと思うと、民の顔を見る事など余には出来なかったのじゃ」
焔姫はまた顔をそらし、祭壇の方を見る。もしかしたら泣いているのかもしれないと、男は思った。
「鎮魂の儀だけではない。街に帰還した時でさえ、余は民の顔を直視出来なんだ。鎮魂の儀を行うと告げたあの時でさえ、余は王宮の方を向いたまま……民を振り返る事が出来なかったのじゃ」
焔姫は、いつの間にか拳を強く握りしめていた。
それは誰よりも焔姫自身が現状に納得していない事に他ならなかった。焔姫の誇り高さが、焔姫自身を苦しめているのだ。
「余は……無力じゃな」
それは、今まで誰にも言う事の出来なかった、誰にもさらけだす事の出来なかった焔姫の内心だった。
そんな事は無いという確信が男にはある。だが、それを焔姫自身に納得させる術が自分にはないのだと男は痛感してしまう。
むしろ、自分が言えば言うほど焔姫はかたくなになってしまうだろう。
「……姫」
「……?」
男を見る焔姫は、今までにないほど弱々しい視線だった。
その表情に、男は覚悟する。自分の言葉では出来なくても、なんとしても焔姫の悲愴を取り除かなければならないと。彼女の重荷を降ろしてやらねばならないと。
「姫に見て……いえ、聞いていただきたい事があります」
「……何を、じゃ?」
男は、手を伸ばして焔姫の手をつかむ。
「こちらへ」
逆の手で松明をつかみ、男は焔姫の手を引き階段を上っていった。
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