色々となめていた。としか言い様がない。
まず、晩夏の残暑をなめていた。
次に仕事が昼前に終わることをなめていた。
なんと言っても、『モジュールジーニアス』をなめていた。
詳しく説明するとこうなる。
八月も終わろうとしている今日の仕事は、『モジュールジーニアス』でのサムネ撮影。
予定では午前中で終わることになっていた。
サムネ撮影やPV撮影の場合、衣装は依頼したマスター及び、マスターの依頼を受けた動画師の持ち込みになる。
ただ公式衣装の場合は、全てのボーカロイド用撮影スタジオや、レコーディングスタジオに、ボーカロイド全員分が常備してあった。
もし不測の事態で衣装の破損、汚損があった場合も、ボーカロイドのスケジュール等を管理する事務方が、即座に代わりを補充するように出来ている。
もちろん数着は、ボーカロイド達の自宅にもある。
ただ問題は、モジュール衣装と呼ばれる物だ。
これはボーカロイド一人につき一点配付されているだけ。
だからモジュール衣装を撮影に使う場合は、ボーカロイドが自宅から持ってこなければならない。
大抵のモジュール衣装なら、衣装バッグに入れて持っていくのだが、今日の『ジーニアス』の衣装なら、割と普通の服なので、外に着ていっても大丈夫。
とカイトは思って、家から着ていった。
もしもこれが『ネコサイバー』なら、さすがに着ていくなんて考えない。
もっと色々と着込む衣装なら、まだまだ昼間は暑いことも考えて、やはり着ていかなかっただろう。
ただ『ジーニアス』は白衣の袖は曲げているし、中のシャツは半袖だし、これならいける。それに眼鏡をケースに入れて持ち運ぶのは、意外にバッグの中で場所を取る。
そんなことを考えて、着ていったのが甘かった。
半袖といえどもシャツに、ベストに、白衣という重ね着は、思った以上に暑い。
更に朝夕は多少涼しくなったとはいえ、カイトが仕事を終えて外に出た時間は、十一時過ぎの暑くなってくる時間帯。
と言うことで、カイトは自宅への道を、汗を拭きながら歩いていた。
更にここで気づく。
汗を拭くのに眼鏡が邪魔だ。
ようやく家にたどり着くが、嫌な予感。
恐る恐る、ドアに手を掛けてみると、鍵が掛かっていた。
閉め切った家の、灼熱が頭をよぎる。
それでも外にいるわけにもいないので、諦めて鍵を開けた。
思った以上のムッとした空気。
「……ただいま」
誰もいないのは分かっているが、つい言ってしまう習慣は、いつからついただろう。
靴を脱いで上がり、真っ直ぐリビングに向かう。
やはり、リビングも半端でない暑さだ。
カイトはバッグをソファの側に置くと、白衣をソファの背に脱ぎ捨て、ネクタイを引き抜いてその上に放り投げた。
さらに眼鏡を片手で外して、ソファの上に注意深く投げ落とす。
掃き出しの窓に向かって歩きながら、ベストを脱いで肘掛けに投げ、その上に脱いだシャツを投げようとしたが、シャツはベストの上を滑り床に落ちた。
ついでに中に着ていたブルーのタンクトップも、シャツの側の床に落とした。
上半身裸のまま、クレセント錠を開けて、窓を全開にする。
部屋の中に風が吹き込んでくる。
逆光の中、形よく筋肉の付いた肩、男性的な硬いラインの体、やや細い腰を持つ影が、フローリングの床に落ちる。
ここでやっと、カイトは息をついた。
「暑かったーー」
肩胛骨の綺麗に浮き出た背中にも、汗が噴き出ている。
汗はカイトが腕を広げると、背骨に沿って流れ落ちた。
外の空気を思いっきり吸い込むように深呼吸。
「さて」
腰に手を当て、窓を開けた先の庭を見回した。
全面に芝が張られた庭には、塀に沿って様々なユニファーが植えられている。
芝の数カ所は煉瓦で丸く区切られ、小さな花壇になっていた。
春には可愛らしい花々が咲き乱れていたが、今は比較的丈夫なハーブなどが葉を茂らせるだけ。
ただどれもこの暑さのせいか、乾いて元気がないように見える。
「よし」
カイトはその場に座ると靴下を脱ぎ、スラックスの裾をまくった。
庭の片隅にある蛇口にホースをつなぎ、庭に水をまいていく。
芝の感触を楽しむように、カイトは裸足で庭を歩いた。
与えられた水により、植物たちが生気を取り戻していく様を、青い瞳が映し出す。
水音を伴奏に、カイトが口ずさむ優しい歌。
乾いていた土が水気を含み、命の香りを取り戻していく。
子供の悪戯のように軽くホースを振り回し、自分に水がかかると、歌いながらカイトは微笑んだ。
歌に合わせるように、暑い中にも微かに秋の気配を帯びた風が、木々の濡れた葉を揺らし、カイトの青い髪を揺らす。
最後にシンボルツリーのシマトネリコに水をかけ終わると同時に、最後の一音がカイトの唇から流れて消えた。
「よし、終わりっ」
カイトはホースの先を持ったまま蛇口に駆け寄り、足に付いた泥を洗い落としてから水を止めた。
ホーズを片付け、窓辺に腰を下ろす。
以前、ミクがやって来る前の、恐ろしく仕事がない時期は、こうして庭の手入れをよくやっていたものだ。
暇に任せて、庭を家庭菜園化していたこともある。
ハーブのたぐいは、その頃の名残だ。
季節の花を植えたり、家庭菜園できた野菜を料理に使ったり、それはそれで楽しかった。
もっともメイコからは『ボーカロイドのすることじゃない!』と叱られた。
一番叱られたのは、ミクのために花壇を完全ネギ畑状態にしてしまった時。
いつもの『ボーカロイドのすることじゃない!』と叱られた上に『うちはネギ屋じゃない!』とも言われた。
座った状態から、フローリングの床に、両腕を枕にして寝転ぶ。
そういえば、ミクに始めてあったのも、こうして庭の手入れを終えて寝転び、すっかり寝てしまったときのことだった。
遠くで聞こえる、聞き慣れた太陽のような声。
(ん……)
人が近づく気配。
(めーちゃん……)
庭の水やりの後、窓辺で寝てしまったことに気づく。
(起きなきゃ)
甘い香りが鼻孔をくすぐる。
(……ん?)
いつものメイコの香りよりも、少し柔らかくて甘い……。
カイトはゆっくり目を開けた。
大きな緑の瞳。
小さな唇に、柔らかそうな赤みが差す頬。
額に掛かる、緑の髪
(あ……そうだ。めーちゃん、新しいボーカロイドを迎えに行ってたんだっけ。えーと、名前は……)
カイトが口を開き掛けるのと同時だった。
「きゃーーーーーーーーーーっ!」
悲鳴と共に、緑の瞳の持ち主は一目散にカイトの側を離れた。
思わず目を丸くする。
「どうしたの! ミク!」
そう、ミクだ。初音ミク。
カイトが起き上がり、リヴィングの方を見た。
メイコがミクを抱き寄せ、こちらを見ている。
「めーちゃん?」
「カイト、何かしたの?」
「ううん、俺、寝てただけだよ」
そう言ってカイトが立ち上がって近づくと、ミクがメイコに強くしがみついた。
「ああ、なるほどね」
メイコが覚ったように、ミクの頭を撫でた。
「カイト……服着なさい。若い女の子の前で、だらしない格好はしないの」
確かに今のカイトは、ちゃんとした格好とは言えない。
下はイージーパンツをはいているが、上半身は裸。
「えー、これぐらいの格好、俺、めーちゃんの前でよくしてるよ。……めーちゃん、若い女の子じゃないの?」
速攻殴られた。
「いいから! これからは、裸で家の中をうろうろしないの! 分かった!」
「……はい……」
この頃から『めーちゃんの言うことは絶対』なカイトは、渋々返事をすると、ソファの背に掛けていたTシャツを着た。
「もう大丈夫よ、ミク。この人は、変な人じゃ無くて、カイトよ」
ミクが恐る恐るカイトを見た。
「……初音ミクです……」
小さな可愛らしい声。
それだけ言うと、ミクはまた、メイコの胸に顔を伏せてしまった。
「カイトだよ。よろしくね」
カイトの挨拶にも、メイコに抱きついたまま、小さく頷くだけだった。
「お兄ちゃん! 起きてっ」
あの時の可愛らしい声が、聞こえる。
「ミク帰ったよ! お兄ちゃん!」
(あ……でもあの時みたいに、怖がってる声じゃない……あれ?)
カイトは慌てて目を開けた。
飛び込んできたのは、あの時と同じ緑の瞳、緑の髪。
「あっ……ミク、帰って来たのか……。っていうか、誕生日月間なのによく帰ってこられたねぇ」
本気で感心した。
誕生日月ともなると、ボーカロイドノ忙しさは殺人的となる。
ただでさえ売れっ子のミクの事、最早帰るのは不可能どころか、寝る時間も、まともに食事をする時間さえないはずだ。
カイトは起き上がって、床の上に落ちたシャツに手を伸ばす。
「それは、あれだよ。粘り強い交渉と、普段からの根回しのおかげでなんとか……」
要するになじみのマスターとスタッフにだだをこねて、家に帰る時間を確保したと言うことだろう。
世間のマスターは、どうしようもなくミクに甘い。
まあ、それ以前に普段のミクが、ちゃんと誠実に仕事をこなしているからこそ、ゆるしてもらえるわがままだろう。
「何時までいられるの?」
「二時にはここを出なきゃいけないの」
リヴィングの時計を見ると、十二時少し前。
「そっか。ならすぐに昼ご飯を作るね。一緒に食べよう」
「うん」
嬉しそうに頷くミクを見てから、シャツを羽織って袖に腕を通す。
「ん? 俺が裸で寝てても、もう悲鳴あげて逃げないんだね。免疫でも出来た?」
「えっ? あっ、始めてあったときのこと?」
ミクが照れたように頭をかいた。
「あれはね……、どっちかというと、お兄ちゃんが急に目を開けたから、そっちに驚いて悲鳴あげちゃったんだよね」
「そうなんだ。でも、それからも俺、避けられていたような気がするけど」
確かにその後、ミクはメイコにべったりだった。
カイトが話しかけようとして近づくと、メイコの背中に隠れるし、リヴィング等で二人きりになると、そそくさと出て行ってしう。
「それは、あれだよ。いきなり悲鳴あげて逃げて、ミクのせいでお兄ちゃん、お姉ちゃんに叱られるて……だからミク、嫌われちゃったかな思ったら、つい……」
「馬鹿だな。嫌うはずなんて無いだろう」
「うん、今なら分かるよ。っていうか、ミクが帰るのが遅くなったとき、覚えてる?
あの時によく分かったから」
カイトは少し考えてから、頷いた。
「ああ、あの時か。叱られたねぇ。二人してめーちゃんに」
思い出したように笑うカイトの横顔を、ミクも笑いながら見つめた。
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