ひらり、はらり。
十六夜の月明かりに、また、ひらり、はらり、と。
その音に、名前を呼ばれた気がして最初に顔を上げたのは、どちらであっただろう。
もう、そんな記憶すら定かではない程に、アナタを想う心が震え出す―――。
【夢戀フル桜ノ物語】
…綸・一…
石畳の街並みは、既にあの大災害の傷跡の影すら見えない。
もっとも、幼かった自分には全く覚えが無かった上に、あの大災害の後も何一つ困る事のない裕福な家庭に生まれ育った少女には、日常という名の日々は、あまりに退屈で変わりばえの無いものだった。そして、それが永遠に続くものだと、何の疑いも無く過ごし、そして、これからもそうなるはずだったのだ。
ほんの、十日ほど前までは………。
「綸様!」
名前を呼ばれ、綸は振り返る。
女学校の合唱部で、一つ上の先輩である未来が、長く豊かな髪を春の風に靡かせながら走って来る。
「未来姉様…」
眼の前まで走って来た未来は、立ち止まってからすぐに喋る事は出来ず、何度か大きく深呼吸をしてから顔を上げた。
「聞いたわ…!お輿入れがお決まりになられたって…!」
一瞬、綸は僅かに眉を寄せて、少し困った顔をした。
もう上級生である未来にまで噂は広がっているかと思うと、恥ずかしくて思わず視線を下に向けてしまった。
そんな綸の様子に気が付く事なく、未来はまるで自分の事のように嬉しそうに微笑んだ。
「素敵ね!羨ましいわ…!」
「そんな……」
綸は、ようやく小さく微笑んだ。
「未来姉様にだって、威斗兄様のような素敵な婚約者様がいらっしゃるのに……」
そう言うと、未来が少し近づいてきて、そっと耳打ちのように囁いた。
「…お聞きしたわ。神威家のご長男様なのでしょう?」
あぁ、そんな事まで広がっているのか…。
女学校内にて、誰かの婚約が決まると、その噂は春を告げる風よりも早く敷地内を駆け巡る。それを遠巻きで眺めていたはずの自分にも、とうとう風を吹かせる日が来たのかと思うと、正直困惑してしまう。
答えられない綸に、未来は愛らしい笑顔を見せた。
「ご結婚はいつ?やっぱり、卒業した後?」
「もっ…勿論です……!」
綸は慌てて答えた。さすがに、在学中に結婚とはいかない。
そして、この一言でようやく綸は喉元まで出ていた言葉を吐き出した。
「そっ、それに、まだ口頭でのお約束ですし……!ちゃんとした事は…まだ………」
「あら…?そうなの…じゃぁ結納もまだ?」
「えっ……えぇ……」
「そう……。じゃぁ、夏頃に?」
「………」
未来の様子では、完全に彼女の想像に過ぎないのだろうが、その勘の良さに綸は口を閉ざしてしまった。
女性の社会進出も目覚ましい昨今であったけれど、やはりまだ世間の壁は高い。
女学校に通えるのは、もちろん裕福な家庭の子女ばかりであったけれど、彼女たちもまた、女学校では勉学よりも「良き妻、良き母」になるための教育を受け、卒業後は半年もしないうちに同級生全員の名字が変わっている。
綸の周囲でも、数名の友人たちはすでに結納も婚約も済ませている。綸はどちらかといえば、遅い方に入るほどだ。
最近では、友人たちの話題もそんな事ばかりで、正直自分が話題に入れない…もしくは、心配される方になるのも辟易していたので、これで少しは周囲は落ち着くかと思ったのだが、そうはなかなか上手くいかないらしい。
なぜならば、今日はこれで同じ会話を何度したかすらわからない。
女学校を出て、帰宅途中でもこの調子なのだから。
ゆっくりと歩き出す未来の隣を、綸もまた歩き出した。
「今日はもうお姉様もお帰りなのですか?」
「えぇ、今日は威斗と約束があるの」
未来は幸せそうに微笑む。彼女の婚約者は、彼女の幼馴染なのだ。小さな頃から一緒にいるのが当たり前であった人が婚約者。それは、このご時世では実は珍しい形であった。
女学校に通う子女たちは、勿論社会的地位の高い家柄の子どもたちばかりで、そんな彼女たちに釣り合うだけの結婚相手となれば、やはり歳の離れた実業家であったり、全く見ず知らずの良家の子息となってしまう。政略結婚だと分っていても、彼女たちに逃れる術など無いのだ。それが、名のある家に生まれた女子の勤めでもあるのだから…。
「ところで、綸様は神威家のご長男とはどこで?」
やはり、未来の興味はそこにあるらしい。
綸はしばらく黙っていたが、級友たちから尋ねられても答えなかった事を、未来には静かに話した。
「……私自身は…何も、覚えていないのですけど……」
ぼんやりと、春霞漂う空に、二か月程前の園遊会の様子が浮かんで見えた。
あの日も、こんな穏やかな日であったと思う。
父親に連れられて行ったのは、父の会社の取引き相手が主催する園遊会だった。思えば、あの日の朝は母も何やら一生懸命に凛の着物を選び、念入りに帯を見定め、髪飾りや帯止めに至るまで一切手を抜かずに、娘を飾り立てるのに躍起になっていたような気がする。
園遊会の会場には、綸より年若い娘もずっと歳の離れたような青年も多く出席していた。
そこで、綸は神威家の長男である青年の眼に止まったのだという。
「…あら?じゃぁ、どんな方かはご存知じゃないの?」
少し驚いたように未来が尋ねてきた。
綸は僅かにだけ頷く。
「…お写真は、拝見しました……」
父親が嬉々として見せてくれた一枚の写真には、誠実そうでありながら大人の空気を纏った、女学生の綸とは全く縁のなさそうな青年がゆったりと微笑んでいた。
実感が無い、といえばそうだった。
自分が見染められたなんて、まるで別人の話を聞いているかのようであったけれど、神威家といえば政財界にも名を響かせる名家である事くらいは、綸も知っていた。
そして、その家と深い繋がりを持つ事は、決して悪い事ではない。むしろ、そんな幸福な話は他に無い。
それだけの理由であったけれど、綸にはこの突然降って来たような縁談を断る理由も無ければ、断るという選択肢も存在しなかった。
そして十日前、曖昧な返事しか返さない娘に業を煮やしたのか。それとも、そもそも綸に断る選択肢など用意してなかったのか、両親や親戚たちの手で、綸の輿入れ先は決定されたのである。
綸自身、頷くだけの勇気も無ければ、ましてや断る勇気など微塵も無かった。
幼い頃から、自分の存在価値は良家との結婚にあると教え込まれてきた彼女にとってみれば、この流れはごく自然なものであるといえばそうだった。
しかし、何故であろう。
こうして、実際問題として眼の前に持って来られると、変に実感も湧かない。そして、どうしても納得できないでいる自分がいた。
それは、自分でもよく理解できない感情で、そもそもどうして理解できないのかが分らない。
「……未来姉様?」
「はい?」
馬車の往来の多い通りまで来て、不意に立ち止まった綸に、未来も同じように脚を止める。
綸は、すっと顔を上げた。
「……未来姉様は、威斗兄様とご婚約されて……幸せですか?」
それは、女学校に通う少女たちにとって、一種の禁句のようなものだった。
良家の子息との結婚が、両家の幸せである。
そこに、実際に結婚しなければならない、彼女たちの意思はもちろん、その存在すらが希薄なものなのだ。
未来は、綸の言葉に何を感じたのか、一瞬も二瞬も考えて、それからゆっくりと微笑みながら言った。
「えぇ、幸せよ。だって、威斗の事、大好き…愛しているもの」
ダイスキ。
アイシテル。
自分には、遠い世界の言葉に聴こえて、綸は僅かに瞳を伏せた。
◆ ◆ ◆
自室に戻ると、すっかり闇に包まれた冷えた空気が着物の隙間から入り込んでくるようにして綸を襲う。
小さく震えると、背中の中心を悪寒のようなものが駆け上がった気がした。
未来と別れ、家に帰るといつものように手習いの続きと読書を楽しむ時間。そして、そこに、今日は綸の身体の採寸をする時間が加わっていた。
もちろん、結納の時の新しい着物を仕立てる為のものだ。今度は白無垢の採寸が楽しみだ、と微笑んでいた母の顔が、何故だか遠く感じられ、非常に気の重い時間であった。
まるで、早く家から出て行けと言われているような気分で、どうしても気持ちが落ち着かない。
「………」
溜息すら出てこないまま、綸は倒れるようにして寝台に身体を横たえた。
女学校から帰宅してきたままであったので、着物や袴が皺になりそうだと思いながら、どうしても身体が言う事をきかなかった。
そして、ぼんやりと重い思考を巡らせる。
結婚が決まった級友たちはどうだっただろう。みんな、こんな奇妙で落ち着かない気持ちを味わったのだろうか。でも、誰もそんな事言っていなかった気がする。
未来のように婚約者の事を良く知っているという級友はほんの少しだ。綸のように、写真だけでも見て相手の容姿を知っているのはまだ幸福な方で、下手をすれば全く知らない相手に嫁ぐという予定の子もいる。
それぞれに不安はあるのだろうけれど、誰もが楽しげに話をしていた気がする。
こんなにも気が重く、苦しい思いをしているのは自分だけなのだろうか。
――ならば、それは、なぜ?
堂々巡りの自問自答を繰り返し、綸は再び瞼を伏せた。
本当なら、母に相談したい気もあったのだが、どうしても切り出せない。
娘の結婚をまるで自分の事のように喜んでいる母に、不安など打ち明けられない。
今日、未来に会った時に、もっと素直に色々聞いた方が良かったのだろうか……。
闇に包まれた視界が辛くなり、薄っすらと持ち上げた瞼の隙間から、十六夜の月明かりが僅かに注ぐ。
少し、眠って、しまいたかった。
眼が覚めたら、この言い知れぬ感情が少しでも薄らいでいたらいいのに。
この月の光が、淡く心を溶かしてくれるといいのに。
そう思いながら、綸は再び瞳を閉じた。
もう、十六夜の月の光さえ、視界に届かない。
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