第二章 ミルドガルド1805 パート20

 翌日、普段よりも早い時間に目を覚ましたハクは、なんとなく落ち着かないという様子でその均整のとれた肢体を不安そうに捩じらせた。今日、ビレッジに戻る。もう二度と戻ることは無いだろうと思っていたビレッジに。あの場所での生活はあたしにとっては悪夢のような出来事だった。あたしの白い髪は嫌悪の対象であり、村民にとっては体のいい憂さ晴らしの標的に過ぎなかった。そのあたしが、リンを連れてビレッジに戻る。ビレッジの村民は相変わらずあたしを邪険に、除け者のように扱うのだろう。四年以上もの期間を外の世界で過ごしていたあたしに対して、或いはもっと酷い扱いをしてくるかもしれない。その姿をリンに見せたいかと問われれば当然否。だけど、その自分もあたしという人間を構成している一つの要素。
 そこまで考えて、ハクはもう一度、今度は身体をベッドの反対側へと向けた。まだ闇に包まれている窓の外、僅かな時間を訴えるかのように月明かりがカーテンの隙間から毀れ漏れている。まるで自らの髪の色のような見事な銀に染まった寝室を見つめながら、それでもハクは小さくこう呟いた。
 「それも含めてあたし。あたしはそうやって生きている。」
 もう一度過去と向き合う決意を固めたハクのその言葉が、狭い寝室に力強く、そして静かに響いた。

 迷いの森へは一度オデッサ街道を西に、インスブルグの街へと戻るように五キロほど逆行した後に進路を北へ、道無き道を五キロほど歩んでゆくと到着する。グリーンシティからは歩いても二時間程度到達できる距離であった。当初の予定通りにリン達の一行がルカとハクに先導されてオデッサ街道を逆行し、そして通行人の多いオデッサ街道から突然北へと進路を変えた時、一行を尾行していたジャノメは理解できぬという様子で眼を回転させると、同行しているアクに向かってこう言った。
 「どうします?」
 ジャノメのその言葉に、アクは一つ頷いた。カイトの指令を果たすには出来れば人気が無い場所のほうがいい。ただでさえ歴戦の騎士であるメイコと大陸最強の魔術師であるルカが同行している。それにあの男。同行者の中で唯一の男性であるあの男も相当の腕前を持っているだろうことは容易に推測がつく。たとえ三人が相手でも負けることはないだろうが、それでも用心に越したことはない。そして奴らは今街道から離れて人気の無い草原をひたすらに北上し始めている。チャンスではあったが、逆に疑問も残る。一体奴らは何処に向かうつもりなのだろうか。
 「もう暫く、つける。」
 アクがそう言うと、ジャノメは難儀そうに眉を顰めた。
 「見渡しが良すぎます。尾行には適さぬかと。」
 「興味がある。」
 アクはそれだけ言うと、リンの一向に続いて北へと向かって歩き出そうとした。その瞬間にジャノメが焦るようにこう告げた。
 「お待ちください、皇妃様。見晴らしの良い場所での尾行となればもう少し距離を開けなければ。暫く、この場所で待機いたしましょう。」
 なるほど、正論だなとアクは理解して、ジャノメに向かって小さく頷いた。

 迷いの森。現代に於いてはグリーンシティ近郊にある自然公園として整備されたその森はしかし、産業革命以前であるこの時代においては原生林が生い茂る不気味な場所であり、人を寄せ付けぬ一種の精神体であるかのような威圧感を持ち合わせていた。
「相変わらず、嫌な森ね。」
 森の入り口に到達したところで、ルカが右手を腰に当てたような格好でそう言った。その言葉にリーンは神妙に頷く。迷いの森は二百年後の姿とはまるで異なっていたのである。人が気軽に踏み入れることが出来るようになった二百年後とは異なり、この森は言葉通り迷いの森そのままの姿であった。一度踏み入れればこの森から永遠に逃れることが出来ない。その様な感想をリーンは抱いたのである。
 「ハク、ビレッジへの案内をお願い。」
 続けて、ルカはハクに向かってそう言った。ルカに向かってハクは神妙に頷くと、森の中、獣道らしい僅かに開いた森の隙間へと足を踏み入れた。そして、全員に向かってこう告げる。
 「皆、あたしからはぐれないで。一度道を間違えると、強制的に森の外へと押し出されることになるわ。」
 ハクは緊張した様子でそう言うと、背後を振り返らずに迷いの森の奥へと向かって歩き出していった。その後ろからリンが、続いてリーンが、そして全員が続く。
 空気が違う。
 リーンは思わずそう考えた。都会から離れた清浄な森林空間という気配はこの場所にない。まるで威圧するかのような迫力で迫る森の圧力がリーンの肺を締め付けてくるような感覚すら味わう。太陽の勢力が一日で一番強い時間帯であるにも関わらず、この森ではその光は殆どが樹木に遮られて届かないらしい。日の出前のような薄闇に包まれた僅かに零れ落ちるような陽光だけを頼りに、リーンはハクに遅れないようにひたすら歩いた。
 あの時、あたしを呼んだのは誰?
 リーンは湿り気のある土の感覚を味わいながら、今一度その様なことを考えた。若い男性の声だということは理解している。だが、その声は本当にレンだったのか。一体レンは何処にいるのだろうか。或いは、この場所か。時間感覚すら消失してしまいそうなこの深い森の奥に、レンがいるというのだろうか。ハクが向かっているビレッジという場所に。
 リーンはそこまで考えてから、リンの横顔を横目で見つめた。普段とは違う、緊迫した空気をリンが放っていることはリーンには十分に良く分かった。リンもまたリーンと同じようなことを考えているのかもしれない。或いは、この森の奥から向かうことが出来るという異世界に対して何らかの想像をめぐらせているのだろうか。
 「もう少しよ。」
 沈黙のまま、ハクに導かれるままに歩き続けて一時間程度が経過したころ、ハクは唐突に全員に向かってそう告げた。
 「立派な樹・・。」
 リンがそう言った。この場所。この場所はあたしも覚えている。リーンは思わずそう考えた。視界に映るのは千年樹。二百年後の未来でリーンが時空間移動に巻き込まれたその場所と全く同じ景色であった。
 「こっちよ。」
 リンに向けて空気が靡く程度に小さく頷いたハクは続けてそう告げると、再び先ほどと同じように迷いの無い足取りで森の更に深部へと歩みを進めていった。
 もうすぐ、目的の場所に着く。
 その感覚は、リーンの感情を嫌にでも高ぶらせた。

 「不思議な森ですな。」
 同じ頃、リン達から遅れて迷いの森へと到達したジャノメは、無表情のままのアクに向かってそう声をかけた。その言葉を半ば聞き流すかのように瞬き一つで応答したアクは、森から溢れ出している強烈な魔術を身体に受けとめながら、それでも冷静にその森を観察していく。初めて訪れる場所ではあったが、魔術の流れを読み取れば人の感覚を狂わせ、森の深部へと進めないような流れが形成されていることは容易に推測がついた。おそらく、奴等は森の深部に向かった。何のために。それは分からないし、今必要な情報でもない。だが、ここまで侵入者を嫌う森ならば、何らかの秘密が隠されていると考えることが相当だろう。アクはそう考え、無言のままで迷いの森へと向けて歩き出した。その後ろを、ジャノメが渋々という様子でついてくる。
 ここで、リンを仕留める。
 アクは森の放つ威圧感に対抗するように小さく深呼吸を行うと、決意を固めるようにそう呟いた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

小説版 South North Story  38

みのり「お待たせしました!第三十八弾です!」
満「今日はこの後三本連続投稿する。」
みのり「そうなの!では続きもどうぞ!」

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投稿日:2010/09/20 19:35:09

文字数:3,078文字

カテゴリ:小説

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