私は汗をかいていた。
それは、運動によるものではない。ましてや熱によるものでもなく、純然たる恐怖だった。
私のすぐ後ろを歩いていた両親が瞬く間に横へ跳んだ。自発的に跳んだのならまだわかるが、何か大きなものが突っ込んできて二人をさらっていたのだった。
「お・・・母さん?・・・ねえ?」
そしてなおも突進し続けている黒い巨体はこちらへ方向を変えた。
――次は私の番だった。
鈍い痛みとともに私の顔にひどい熱が表れた。
顔を灼き切るような痛みは命を撒き散らしながら私の体を覆っていく。
「リ・・・リィ・・・」
安心させるように微笑む母が体を引きずって迫ってくる。
しかし母の体からは、かつて眠れない夜には私を抱きしめ、涙することがあれば頭をなでてくれた両腕が根元から失われていた。
昔の夢を見た。
それはあまりにも不愉快で変えようのない事実。
夢の通り私は悪夢にうなされ汗を大量にかいていた。
「・・・・・・リリィ。あなたは今日生まれ変わるの。母の意志を継ぐために。そして、生き残るために」
誰もいない孤独な家で私は纏っていた衣服を脱ぎ捨てた。そしてその姿のまま下の階にあるバスルームへ向かう。
半年前、商店街を歩く私たち一家に一台の車が突っ込んだ。運転手は発作で意識を失っていた。
暴走した車に撥ねられ両親は命を落とした。私自身も顔の半分を醜く歪められ、体に消えない傷を残された。
両親を失った今、頼りなのは彼らが残した遺産と人脈のみが頼りになった。
バスルームで一通り汗を流すと、ローブを纏い地下へ降りる。
町から少し外れた郊外に大きな敷地を持つこの家は地下に部屋があり、母が残した本が眠っている。
「・・・・・・かつて人に愛されなかった王子は魔女に醜き野獣にされ、真の愛を求めた」
階段を降りながら誰に語るでもなく言葉を紡ぐ。
「今、不幸という試練に試されている私はその野獣と成る。今日・・・この日、この瞬間を持って!運命など鍵さえあればすぐにこじ開けられる」
階段を下りた先にある厚く鉄で修飾された扉に鍵を差し込む。あの日母が死ぬ間際に私の手に乗せたものだった。
扉を開くと広がっていたのは奥が闇に覆われ見えないほどの部屋。入り口の松明をとり、その闇を照らし歩きだす。
蔵書1万を超えると思われる本棚の置くには異教の神を祭るような禍々しい祭壇があった。
祭壇の先には神体ではなく一冊の本が安置されていた。リリィはその本をとり開く。
まるで何度も読んだかのように本に書かれた手順を踏む。松明の明かりは祭壇の四方に放たれ、本は譜面台のようなところに置かれた。
「吾、心閉ざす者よ。深く闇を担いしリステリア家の血筋。今リリィ・カベナ・リステリアの名において獣とならん」
歌のような文句に始まり、祈りはそれから暫く絶える事がなかった。
祈りが死を選んだかのようにゆっくりと収束した。
歌が死に、途切れた瞬間赤い閃光が部屋を駆り、光の中心にいたリリィが悲鳴を上げる。
壮絶な悲鳴はあの日の事故のようだった。事実、これも事故なのだろう。あの日から始まった長い事故。
その事故の渦中において彼女は選択をした。自分を変える選択を。
赤い光がなおも彼女の体からもれ出ていたが、彼女の意識は光の現象とともにはっきりとしてきた。
何かが這うような気味の悪い音がして彼女の頭から黒い突起が這い出してきた。それは少し頭から出たところで天を求めるように昇っていく。
リリィがそれを角だと認識するまでに時間をあまり必要としなかった。
かつてきれいなリコリス色だった赤毛は今は澄んだ清流のごとく青く染まっていた。部屋の中のランプが彼女を照らすたびに青い髪がその光を受け輝いた。
「・・・・・・成功ね。私もついに母の意志を継げるわ」
握り締めた彼女の手には今まで持ち得なかった力を感じさせると同時に強い悲しみが宿っていた。
ある日リリィは街にある雑貨屋に行った。
外出は事故にあった日以来1年以上していなかった。
久しぶりの外は窓越しで見た日差しの予想をはるかに超えて眩しかった。
そよ風でもなびくほどの彼女の髪は青い。彼女が自分を変えた日から半年。その間に彼女は人外の力を制御する術をみにつけた。
あの日を思い出させる街路を彼女は思っていたよりも軽い足取りで歩いていく。
「私の予想を超えて世界は動くのね……あの日のことも覚えている人はもういない」
立ち止まって横にあるショーウィンドウに目をやる。異形の姿をした頭の角は帽子で隠している。
シルクハットのような帽子で大人びた雰囲気になっているが、目はやはり幼さをたたえている。
再び歩き出した彼女の目の前を一台の車が駆け抜けた。黒い車は制御を失っているようで、スピードが落ちる様子もなく蛇行を続ける。
蛇行する先にいたのは一人の男の子。彼は足がすくんでいるのか動かない。少年に車がぶつかる瞬間大きな黒い車体は宙を舞った。
大きな落下音とともに運転手が中から転がり出てきた。
車から少年のほうに目をやった町の人々は彼女を見た。力を使ったせいか角が肥大化し、帽子も吹っ飛んだ彼女の頭は注目を集めた。
衆人の中から声が上がる。「なにあれ……気持ち悪い」
我に返ったリリィに衆人の声はまだ届かない。少年の安否を確認しようと振り返ると、少年は彼女を見上げ怯えていた。
少年の反応を見ていると衆人から拒絶の声がするのに気がついた。
顔を上げたリリィに何かがぶつかった。次々と飛んでくるのは石だった。人を超えた体だけは傷つかなかった。
下で倒れていた少年が走り去りながら彼女に叫ぶ「化け物!」
石を投げ続けられる彼女はなおもその場に立ち尽くした。
彼女は目に向かって飛んできた石を右手でつかんだ。いや、掴んだはずだった。
衆人の反応に面食らった彼女の心は力を抑制することができなかった。結果石は原形をとどめず粉砕され、粉になった。
どこかで声がした「ならば怒りに身をまかせろよ」
必死の形相でその声を抑えているリリィはもう屈服しかけていた。
最後の一線を越える直前。怒号とともに侵入者が入ってそれをとめた。
「いかど市民といえど人の命を救った獣に手出しはさせん!」
侵入者、否。その国家保安軍はリリィを守るとともに拘束した。
拘束の後石礫はやんだ。槍を構えたままの兵士をかき分け、隊長と思わしき人物が姿を現した。
「私はマルコ。マルコ・デ・エルクス。このたびはか弱き少年を守ってくださりありがとうございます。先ほどの無礼はお許しを」
いきなりまくし立てるマルコの声に反応を返せないまま座り込んでいた。
やがてその様子を見かねたマルコが彼女を引き起こし、手の甲にキスをした。
「こんなに見目麗しい方には初めて会った。どうかよろしければこのまま国王陛下の元へ謁見へいらっしゃいませんか?」
答えを聞く暇もなく腕をつかみマルコは歩き出してしまった。その腕のつかみ方にはやさしさなんてものはなかった。
手袋を超えてくるのは単調な体温。すべての感情は飾りでしかないようだった。
国王に事情が説明されリリィが玉座のある部屋に通されたのはそれからかなり時間がたってからだった。
「おお、これは確かに麗しい乙女のような……」
国王あ近づきながら番兵たちに下がるように指示している。リリィをつれてきた兵士も部屋から出て行った。
リリィの前に立った国王はささやくような小さな声で彼女の耳に言葉を流しいれた。
「大きくなったね。先代の彼女よりはまだ少しちいさいがね」
耳に残るその声は昔聞いたもの。先ほどまで恐怖で見ていなかった部屋の中を見渡す。
「アレク……おじ様……?」
リリィが出した答えに満足するように国王はうなずく。
「レティが夫と君を連れていたときに事故にあったと聞いてね……会いたかったよ」
最後の一言で枯れたはずの彼女の涙腺は決壊した。ぼろぼろと流れ出る涙を前に彼女はただ目の前の叔父を見上げた。
そんな彼女をただやさしく抱きしめ、アレクは目を閉じた。
彼女が泣き止む頃にはもう空が茜を超え、藍色に染まっていた。
そしてまだ目の赤い彼女にアレクはひとつの鍵を渡した。皺の目立つ手からすべり落とされた鍵は金でできているそれだけで高価なものだった。
「……これは?」
その問いにアレクは少しずつ確かめるよう答えた。
彼女の母、レティ・エルザ・リステリアは昔から叔父のため国家のため裏社会の統治をしていたこと。
それはリステリア家の背負う職業だったこと。そして、本来ならば不死であった彼女がリリィの父のため、不死を捨てたこと。
また、仕事のために彼女が使っていた古城のこと。
リリィはある程度話の内容は予測していた。しかし、それをアレクから聞くのと予想するのは違った。
大きなショックとともに、自分が両親からの愛を一身に受けてきていたことを改めて知った。
「……母は……幸せだったのね」
愛しい妹を取られた身としては素直に頷けないのか、微妙な表情でアレクは黙ってしまった。
「それでおじ様。母が請けていた仕事は?私が継ぐのかしら」
その問いで現実に戻されたアレクは国王の顔になる。そして少しだけすまなさそうな顔になりながら
「幸か不幸か、その仕事は君の叔母であるミクリア・カベナが受け継いだよ。だから君には母の古城を授けよう」
鍵をあらためてみると「レティ・E・L」と彫られていた。
鍵を握り締め、国王を見る。
「私、なさなくてはいけないことがあるの。母の遺志を継ぐため、何より私がこの世に生きた証を残すため」
少し驚いた国王は彼女の目に宿る炎を見て頷いた。
王宮を出るとリリィはすぐに家に戻り地下の蔵書や家財道具をまとめた。
荷物を馬車に乗せ、旅装を纏った彼女は古城に向け馬を歩かせ始めた。
古城への道程はかなり険しいもので、馬には過酷なものだ。しかし、馬は途中で逃がすつもりなので安心だろう。
3つの山を越え、2つの川を跨いだ。そして大きな平原を抜けた先に古城が建つ湖畔があった。
すぐに母のそれとわかったのはいつも彼女が好んでいた東欧州風の城だったからだ。
しかし、彼女が不死を捨ててから使わなくなったという城は多くが朽ち落ちていた。
城を包む一帯の気候はいったいどれだけの環境だというのだろうか。
ため息交じりに彼女は愚痴をこぼした
「母の片付け下手にはいつも困るわ。私が掃除してもすぐに本を撒き散らすのだから。あれは癖だったのね」
荒廃した城を眺め、昔の母を思い出す。記憶の最後に彼女は腕を失っていた。
記憶をたどりあらためて意思を強固にしたリリィは城に入り修復に取り掛かった。
壮絶な環境の下荒廃してしまった城にはもう耐久性などというものがなかった。
歩けば軋み、走れば床が抜け、見上げれば空が広がるほどに。
もう城は一度解体するほかなさそうに見えた。しかし彼女は考えた。城を魔法で覆えば…
そうしてリリィは材料を求め山野をさまよった。材料が集まったのは城に来てから1週間が過ぎる頃。
集めた材料には彼女が運ぶには大きすぎるものもあった。
しかし彼女の人ならざるほどの力でそれは難なく運べた。
集めた材料に彼女は手をかざす。
「リリィ・カベナ・リステリアの名において汝たちをわが礎とせん」
そして木片や金属の塊がダンスを始める。やがてそれらは積み重なり城とひとつになってゆく。
穴の開いた屋根にも青い金属がはまり同化する。
いつしか壊れ朽ちていた城の外壁はできたばかりの王宮を思わせた。
「これが私の城。母の城。そして夢幻の城。私はここにいてどこにもいなくなる」
大きく開いた城の外壁に彼女は飲み込まれた。彼女が城の中から外を見る。それが最後の外界だと彼女は悟った。
「さようなら、私の大嫌いな世界。こんにちわ私だけの世界」
そしてその穴はふさがった。彼女と彼女が嫌う世界を切り離して。
リリィが城の内部を掃除していく。その行程は10日ほど。
掃除が終わった頃彼女は地下に降りた。
タウンハウスの地下にあったように書庫があり奥には祭壇があった。
祭壇に登り彼女はかつてと同じように祈る。
「――君のために城下町に大きな土地を用意した。君の力を持ってすれば城の移動もできるだろう」
彼女は大きな城を移動させる。夜中のうちに建った城を市民は大きな驚きをもって見上げた。
やがて市民はその大きさよりももっと下。外壁へと視線を移す。彼女は自分の嫌いな外界を消した。
その城に扉はなかった。硬く閉ざされたその外壁に市民は悲しみを覚えた。
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