喫茶店でお茶をして、少しばかり買い物をしてから家へ帰った。
その後は普段していたように、夕飯を済ませ、風呂へ入り、本棚に背を預けて布団をかぶる。
疲れた身体を癒すために、そして脳内の情報を整理するために睡眠へ。
そこで私は、父に会った。
>>06
薄く思考が陰っている感覚があった。
濃霧のようなはっきりとしない視界と同じように、思考にも霞がかっている……そんな感覚だった。
そして体を襲うのは、無重力状態のように上下左右が消失した感覚。
ぼんやりと、これは夢なのだと考える。
こういう夢の中にいるのだと認識して見る夢を、明晰夢だとかいうんだっただろうか。
確か訓練すれば、自分の意のままに夢を操作できるようになるとか……いや、違ったか。
足も地につかないままでは、思考も頭の中で堂々巡りを繰り返すだけ。
「やあ、少し見ない間に良い顔になったみたいだね」
軽く声をかけられて視線を声の方向へと泳がせる。
酷く懐かしい、いつも身近にあったはずの声。
視界に人影が映ると、平衡感覚を失っていたはずの身体がすっと地についた。
目の前に濃霧に隠されておぼろげな影となったその人は立っている。
声だけだが、はっきりとわかる――それは、父だった。
何か聞きたいことがあったはずだが、口が動かない。
どうにか思考をまとめようにも、あったはずの疑問は真っ白に塗りつぶされて見えてこない。
「何だか、不思議な感じだな」
照れたような笑い方。
父の影が笑い声に合わせて体を揺らしていた。
顔が見えないことが、私の中の不安を煽る。
もう会えないのではないかと、そんな嫌な予感がした。
ただ、何を口にしていいのかはまだまとまらずに、何も言葉にすることができない。
自分の置かれている状況を説明して、その解決策を――。
そこではたと気付く。
今自分が置かれている状況とは何だっただろう。
解決策が必要な状況だっただろうか。
――わからない。
「不安そうな顔だね。でも、君がそういう顔をするようになったのは良い変化だよ」
霧がかってはいるが、父が微笑んでいる姿が想像できた。
見える片目を細めて、不安すら包み込むように笑っているのだろう。
父の言葉が思考の大半を占めていく。
今まで考えかけで放置されていた疑問が、嘘のように消えていくのを感じた。
わからないことすら、気にならなくなる。
ふわっと影の手が私へと伸びて、頭を撫でられた。
力強く温かな手の温度で、何となくもう夢が冷めるのだと理解する。
「寂しがらなくても大丈夫。違うけど、ずっと君の側にいるから」
最後に声をかけられ、引き留める言葉を必死に紡ごうと口を動かす。
何度口を開閉しようと、出てくるのは空気音ばかりで声にはなってくれなかった。
バサリ、と布団ごと跳ね上がる。
目の前には、私を起こそうと思っていたらしいカイトが、驚いた表情で動きを止めているのが見えた。
乱れた呼吸を整え、最後に大きく息を吐き出す。
心音が高鳴っているが、すぐにおさまるだろう。
汗ばんだ額を拭って、カイトを見ると、まだその場で固まったままだった。
先ほどと寸分たがわぬ格好のまま止まっている。
「……どうした?」
訝しげな声に、ようやく動き出したカイトが「え」「あ」「う」と狼狽えながら顔を赤らめた。
私はといえば、何故そんな顔をするのかわからず首を傾げるしかない。
しばらく彼は言い淀んでいたが、意を決したように口を開いた。
「メイコさんが泣いてるのを、初めて真っ直ぐ見たので見惚れて……あ、いや、変な意味じゃなくて、その、綺麗だなって」
違うんです、本当に違うんです、と何度も言い訳する彼を不思議に思いながら、そう言われてみれば視界がいつもより滲んでいるかもしれない、と目の辺りに触れてみる。
初めて触れる、自分の涙の感触。
昨日初めて泣き、人の体温を感じ、人の腕の中で涙を止めて、今日初めて自分の涙に触れることになった。
指先を濡らす生暖かい透明な水滴が、自分の目から流れたものだとわかった時は、知らずに笑みが漏れていた。
昨日はそこへ辿りつくほどの余裕がなかったのだ。
自分のような人間でも泣けたのだという事実が、素直に嬉しいと思えた。
ただ、自分が何故泣いているのかはわからなかった。
寝起きなのだから、何か夢を見ていたのだろうことは容易にわかるが、それ以上はわからない。
悲しい夢ではなかったような気がするのに……。
「カイト」
「うえあっ!? は、はい!」
まだ言い訳をしていたカイトは、突然声をかけられて奇声を発しながら振り返った。
その焦った様子に思わずふき出しながら涙を拭う。
「何か言ってたかな、寝言」
もし言っていたなら、そこから夢の内容を思い出せるかと思ったが、カイトは「いえ」と否定しただけだった。
残念だが、記憶に残るようなものでなかったということは、どうでもいい内容だったのかもしれない。
いくら考えても答えが出ないなら、そうして考えなくていい理由を見つければいい。
諦めるようにして布団を畳み、立ち上がる。
ぼさっと突っ立ったままのカイトの肩を軽く叩くと、彼がびくりと体を揺らした。
「……朝ごはん、だろう?」
「あ、それはそう、なんですが……メイコさん」
部屋を出ていきかけて振り返ると、ただごとではない雰囲気の彼が真剣な表情でこっちを見つめていた。
つられるように気を引き締める。
私の緊張した様子を見て、カイトは自分の状態に気付いたように真剣な表情を少しばかり崩した。
「研究室には、入らないでください。今日は少し危険な実験をしますので」
そう言うカイトに小さく頷きながら、何故そんなことをわざわざ伝える必要があるのかと疑問に思う。
出会ったばかりでどの部屋を使おうかと思った時は、確かに他の部屋も見回ったものだが、自分が寝ることになる部屋を決めた以上、必要最低限の部屋にしか入らないようにしている。
そもそも私はここへ好きできたわけではないし、招かれたわけでもないのだから、一緒に住むことになったとはいってもそこまで図々しくもない。
大事な研究用具がある部屋――私にはわけのわからないものが置いてある部屋ぐらいにしか思えなかったが――に、勝手に入ろうなどと思うわけもなかった。
私の性格を何となくでも掴んでいるカイトになら、そのぐらいわかると思っていたが。
……まあ、念のためということもあるか。
区切りをつけて、カイトと共に食卓へと向かう。
その時の私はまだ知らなかった。
いや、今でもよくわかってはいないのだろうと思う。
不安定すぎる、私という存在のことを。
>>07
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