「さあ、お嬢さん。君の願い事は何?何でも叶えてあげるよ」
少年はおどけたように笑う。
少女は何も返すべき言葉を思い付かず、しばらくの間、呆然と彼を見つめている事しかできなかった。
<魔法の鏡の物語.2>
「魔法…使い?」
余りにも現実離れした答えに、私は何度か目をしばたたかせた。
そんな答えなんて、考えてもみなかった。…当然だけれど。
私はさぞかしおかしな顔をしていたんだろう。彼は鏡の向こうで少しだけ表情を引き締めた。
「信じていないのかな?例えば、その果物も元は僕のものだよ。間違えて落としちゃってさ」
ひょい、と彼の指が、まだオレンジが握られたままの私の手を指す。
瑞々しい艶やかな果物。
場違いにも、美味しそうだ、なんて思ってしまった。
―――そういえばこのところ、新鮮な野菜なんて食べていない。
そう考えた瞬間に、くう、なんてお腹が鳴ったから慌てて片手でお腹を抑える。
…よかった、魔法使いさんには気付かれてないみたい。
少しほっとしながら鏡の向こうに言葉を返す。
「あの、ごめんなさい、驚いて…」
「それはそうかもしれないね。一生のうちに魔法使いに出会える人なんて、そうそういるものじゃない」
うんうん、と魔法使いさんが鏡の向こうで頷く。
心なしか自慢気に見えるのは気のせいなのか、どうなのか。
…ああ、でもそうか、これって魔法なんだ。
そう言われれば、確かにそうかもしれない。
鏡越しの会話と放り出された果物。少なくとも唯人にはできっこない芸当なのは、確かなことだから。
物語の中にしかいなかったはずの存在。
それがこうして目の前にいるとなると、不思議な気分になる。
「僕の力量が君の願いまで達しているかは分からないけど。まあ即物的な物ならいくらでもあげられるし、うん」
…?
彼の独りごとじみた言葉が引っ掛かって、私は首を傾げた。
さっきの発言の割には、なんだか自信がなさそうな…
頭の中で、不意に一つの仮説が思い付く。余計なことかもしれないけれど、私は思いきって尋ねてみた。
「…魔法使いさんって、もしかしてまだ新人さんなの?なんだか不安そうだけど…」
「…直球だね」
勇気を出して口にした私の問いかけに対し、むう、と彼は鏡の向こうで唸り声を上げた。
あからさまに難しい顔をするのがとても分かりやすくて、つい吹き出してしまう。失礼だとは分かっていたけれど、我慢出来なかった。
長い間感じていなかった、開放感。
…笑うのなんて、久しぶり。
前に声をあげて笑ったのはいつだっただろう。
お母さんがいなくなってからかな…意識して笑顔を作ることはあっても、自然に笑うことがなくなったのは。
あれからどれくらい経ったのか頭の中で計算してみる。
けれどそれは、焦れたような魔法使いの声で中断された。
「僕の事はいいから。ねえ、本当に何もないの?」
拗ねたような声で問われ、私は少し言葉に詰まる。笑うのを止めて、彼と同じくらい真剣になるように口を開いた。
「何もない…ことは、ないよ」
それは―――叶えてほしい願いは沢山ある。
お父さんがちゃんと元気で帰って来てくれますように、とか。
この戦争が早く終わりますように、とか。
あるいは…私の体が治りますように、とか。
だけど、目の前の魔法使いさんにそれを願う気にはならなかった。
だって、そんな夢みたいな奇跡を望むには、彼が余りにも普通の子供に見えたから。
同じくらいの年の子ってほとんど知らないけれど、きっと彼みたいな感じなんだろうと思う。ちょっと気取ってみたり、言い当てられて分かりやすくへこんだり。最初に感じた浮世離れした雰囲気はまだ感じるけれど、彼が鏡に映った存在だということや魔法使いだということに対する違和感や畏怖は殆どなくなっていた。
さっきは半ばやけになって「なんでもいいや」と思ったわけだけれど、こんな性格をしているのなら、彼が人を言葉巧みに誘う悪魔だったとしても別にいいな。本当に。
少しだけ決まりが悪そうに、それでも真摯に私を映す青い瞳にきちんと応えたくなって、私は魔法使いさんをそっと見上げた。
「魔法使いさん。お願いの事、ちょっと…考えてみてもいいかな?すぐには意見を纏めきれないの」
「勿論良いよ。ゆっくり考えて」
彼が鷹揚に頷くのを確認して、胸に手を当ててみる。
私の願うこと、思うこと。
私が一番叶えて欲しい願いって―――何だろう?
数分かかって、なんとか願いは決まった。
だけど、いいのかな…うーん…
でも、色々な事を考え合わせれば、これが一番。それは間違いない、と思う。
一度も私から逸らされることのなかった視線に少し緊張しながら、慎重に口を開く。
「…じゃあ、もしよかったら、なんだけど」
「何かな」
私の言葉で、鏡に映る彼が少し身構えたように見えた。
どんな無理難題を言いつけられるのかと、内心ではびくびくしているのかもしれない。そう考えるとなんだかちょっと微笑ましくなって、少しだけ頬が緩むのを自覚した。
私だって心の中は躊躇いで一杯だ。口をつぐんで黙っていた方がどれだけ心への負担が少なくて済むか分からない。
でも…せっかくだもの。
―――彼はやがてどこかに行ってしまうのだろう。魔法使いが叶えてくれる願いが無限だったなんて筋書きは、どんな昔話でも見ることはないんだから。
遠くないうちに、彼もまた私の前からいなくなる。
そうしたら、私はまた一人。
ここでまた、一人きり。
それを考えるだけで、心が寂しさでくしゃくしゃになってしまうような気がする。
誰もいない間はまだ良かった。嘆いても仕方ないんだと、そう思って諦める事ができたから。
だけどこうして声をかけてくれる存在が現れてしまったら…もう、一人には戻れない。慣れてしまったら、尚更。
今の私に、ものはいらない。
誰かに側にいて欲しい。
でもきっと、側にいてもらってはいけない。
今の世界で、それは過ぎた望みだから。
その二つの心の間で折り合いをつけた結果が、これ。
「あの…あと五分だけでいいの。そこにいて」
一瞬の沈黙。
「…え?」
返ってきたのは、心の底から驚いた、と言わんばかりの一言だった。
「そんなのでいいの?」
「うん」
確認の言葉に対して、私は頭を縦に振った。
それでいい。それで私は彼を諦められる。
私が小さく頷くのを見て、鏡の向こうの魔法使いは何故か黙り込んだ。
沈黙が空気を何重にも厚塗りしていくのが、不安を生み出す。
…いけないお願いだったのかな?
「あの…やっぱり、大きなお願いじゃないと駄目?」
「…いや、そんなことない」
夾雑物のない沈黙にいたたまれなくなって声をかけると、返ってきたのは不思議に感じるほどにきっぱりとした声。それに驚いて、いつの間にか俯いていた顔を上げると、彼は真っ直ぐに私を見ていた。
さっきまでの見守るような視線とは違う、射抜くような瞳。心なしか視線が痛い。
視線が合ったことを確かめるような沈黙を挟んで、魔法使いさんは静かに口を開いた。
「君の名前は?」
「リン、です」
「そっか。僕の名前は、レンって言うんだ。呼び捨てでいいよ、僕も呼び捨てにするから」
「は、え、はぇ…?」
彼が急に醸し出し始めた気迫のようなものに押されて、私ははいといいえがごたまぜになったような意味不明な声を漏らす。
それを遮るように、彼の溜め息が空気を揺らした。
「あのさ、リン。自分を抑えるのは止めようよ。遠慮とかしないでよ」
「え…遠慮なんて…」
「…じゃあ、どうしてそんなに苦しそうな顔をしているの」
―――はっとして、私は思わず顔に手をやった。
自分がどんな顔をしているかは、触っただけでは良く分からない。
けれど、自分でこんな風に確認行動を取ると言うことはつまり、自覚はあるということで…
「……わ、私、は」
ぽろり、と、唇から声が零れ落ちた。
口を開くつもりなんてなかったのに、一度声を出してしまえば、押し出されるように思いが音になってしまう。
「…言えない…叶いっこないもの…」
「何も言わずに決め付けるのはよくないよ」
「だって…無理だよ…」
声が震える。
もしも願って、叶わなかったら。
それは、とてもとても苦しいことだ。
「なんでさ。友達になるくらい、簡単な事なんだから」
「…友達?」
耳慣れない響きに、私は彼の言葉をそのまま呟きとして口にした。
耳慣れない…―――違う。
聞いたことはあっても関係のある事として実感することができなかった、と言うのが正しいんだろう。
テレビや本の中だけの知識。外の世界では当たり前の概念なのだろうけど、私にとっては初めて肌で触れる関係性。
「え、違った?リンが淋しそうに見えたから、そうなんじゃないかと思って」
私が聞き返すと、さっきまでの気迫はどこへやら、彼は眉を下げて悲しそうな顔になった。
捨てられた子犬のような目付きって初めて見た。良心を的確に狙ってくる罪悪感にしどろもどろになりながらも、口を開く。
「えっと…そう、だけど…ただ、友達を作るのって初めてで、私、どうしたらいいのか」
弁解じみた事を口にしてから、完全に蛇足だったのに気づく。私の生い立ちなんて彼、レンにしてみれば興味もないだろうに。
ふう、と軽い溜息が聞こえて、私は思わず肩を震わせた。
どうしよう。絶対に呆れられた。
でももう俯くことだけはしないでいよう、そう覚悟を決めて鏡面を見詰めていると、
「特別なことなんてしなくていいんだよ。どうしてもって言うなら、はい」
ぺたり。
…なぜか鏡の向こうで彼が掌を鏡面につけた。
「そっちには行けないからさ。握手のかわりに」
はいリン、手を合わせて。
飾り気のない笑顔でそんなことを言う彼に、私もおずおずと綺麗に磨かれた鏡面に手を伸ばした。
彼が、怒っても呆れてもいないように見えたから。
指先が触れる。掌が合わさる。
―――冷たくて硬いガラス越しのはずなのに、何故か彼の体温が伝わった。
私よりだけ少し大きくて、温度の高い感触。
「…あ」
その温もりが、ゆっくりと私の中の堰を押し流し―――…
寂しかった。怖かった。そんな負の感情と一緒に、他の思いも頭の中へと溢れ出す。
今生きてここにいることのへの純粋な嬉しさ。状況を弁えずにそれを喜んでしまっている事に対する罪悪感。不安。祈り。感謝。
ぼろぼろと涙が目から溢れ出す。
止めたいのに止まらない。心を満たす思いと同じ。
「…ごめんなさい…!」
「え…リン?」
じんわり、その声が耳から染み込んで心を揺さぶる。いきなり泣き出すなんて、彼から見ればよく分からない行動だろう。困らせてしまっている。分かっている。だけど。
手が温かい。
―――温かい。
「…お願い、レン、呼んで」
温もりなんてないはずの鏡面の温度にすがるようにして、私は彼に願った。
「私の、名前を呼んで…」
私はここで生きているんだと、ちゃんと誰かと繋がっているんだと…確かめたかった。
「…リン。リン、何度でも呼ぶよ」
―――だから、泣かないで。
触れた温もりから直に伝わる、澄んだ響き。
出会って間もない筈なのに、どこか懐かしい響きを帯びているような気がする。
彼の声が描き出す、歯車が上手く噛み合ったような感覚。
ぼやけた視界の中で、彼の指先が動き、止まる。私の涙を拭おうとしてくれたんだと気付いて、新しく涙が溢れた。
鏡の向こうの優しい手に、心に溜まったくすみがゆっくりと解けてちらばっていく。
ああ。そうか。
不意に、すとん、と心の中に落ち着くものを感じた。
―――きっと私は、彼と出会える時を待っていたんだ…。
それから、私達は暇さえあれば鏡越しに話をするようになった。
魔法使いは多忙なのか、レンの方が鏡に向かえる時間は少ない。彼が姿を消した時は私も大人しくベッドに戻って、黙って外の音に耳を澄ませているようになった。
魔法が終わってしまわないか内心心配だったけれど、今のところそれは杞憂で済んでいる。
たった数日で、私達はとても多くの事を話した。自分のことや家族のこと、今置かれている状況のこと。
そして、抱いている思いのこと。
それらを聞いたとき、彼は不満そうに目を細めてため息をついた。
「…なんで最初にそれを願わなかったのさ」
「え、と…なんとなく」
端的に言ってしまえば彼が頼りなく見えたから、だなんて絶対に言えない。
「じゃあその辺りも叶えるよ。すぐにとはいかないのは勘弁して」
「やっぱりそういう、大きな願いの方が良かったの?」
「いや、あれで有難かったけど…正直、まだ出来ない事だらけだし」
「…何でも、って言ったのに」
「その場で叶えるなんて一言も言ってないよ、…ちょっと、何でそんな目で見るのさ。誰だって初めは初心者じゃないか」
彼の顔をじっと見ていたのを違う風に取られてしまったらしい。
機嫌を損ねてしまった様子の彼に、私は慌てて首を横に振る。そんなつもりじゃない。
「そ、そうじゃなくて、あの、…じゃあせっかくだからゆっくり叶えて欲しいな、と思って」
「え」
「その方が一緒にいられるかな、って…」
―――あ。
「…」
「…」
お互いに真顔のまま視線が絡む。
その視線の意味が分かってしまって、私は激しく混乱した。
いやその、今のは別にそんな深い意味とかは全然無くて、ただ一緒にいて欲しいな、もっとお話したいなって、あれこれって一緒かなあ?じゃなくてその、ええと、あの、レンの声って落ち着くし手があったかくて安心するし、仕草の一つ一つが優しくて、あう…
「…そっ、そろそろ用事の時間だから、僕は行くね!」
「う、うんっ!いってらっしゃい!」
馬鹿みたいな明るさを装って、私は鏡の向こうに手を振る。
真顔だったはずのレンが後ろを向く一瞬の間、その頬が少しだけ赤くなっていたのに気付いて頭が無駄に沸騰する。嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な気持ち。
ふわり。鏡の輝きが薄れて、消える。
それでもこの部屋の中に、その煌めきが確かに残っているように感じた。
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ご意見・ご感想
ゼロ鳶
ご意見・ご感想
やっぱり翔破さんの小説はいいですね!
これからもたくさん見させてもらいます!(繰り返したりしてみてます!)
2011/07/31 20:26:28
翔破
コメントありがとうございます!そして一ヶ月くらい放置していたのに見てもらえて嬉しいです。
繰り返し読むに耐える作品を書けていたら嬉しいです。この後も、果たして思った通りに書けるか心配ではありますが、ちゃんと終わらせたいですね。リンサイド→レンサイドなのでさきはまだちょっと長いですが…
2011/08/01 10:26:11