『一番好きなアイスって何なんだ?それともそういうのは特に無いのか?』
マスターが初めてアイスを買ってきてくれたその日の夜。僕はマスターと座卓に向かい合って座り、アイスを食べた。初めて食べる冷たくて甘いその感覚に、頭の奥が痺れるような胸がきゅっと切なくなるような――不思議と懐かしい気持ちを感じて自然と顔が綻んでしまう。
それを見計らったかのように、お風呂上りのマスターが突然そんなことを訊いてきたものだから、僕は途惑った。
『一番好きなアイス――ですか……』
一番好き。何かと比べて、それよりも更に好きという感情。そもそも感情とは、“好き”とは何なんだろう。気付けば僕は、箱に付属していたピックで一口アイスを突き刺しているマスターに問いかけていた。
『あの、マスター。一つお訊きしたいことがあるんですが……』
『何だ?』
『……“好き”って、どういうものなんですか?』
『……は?』
マスターは目を丸くした。それはそうだろう。マスターは当然その感情を知っているはずで、知らない僕の方がおかしいのだ。それでも僕は何とか説明しようと試みた。
『その……僕はボーカロイドで人間じゃありません。なので、“好き”という気持ちがどういうものなのか、よくわからなくて……』
うまく伝わった、だろうか。自分が理解できていないことを人に説明するのは、何て難しいんだろう。恐る恐るマスターの方を窺うと、こちらを見つめる不審げな視線とぶつかった。慌てて顔を伏せたものの、目が合ったことはもう取り返しがつかない。
変なやつだと思われてしまっただろうか。たった二ヶ月で役を干されてしまうのだろうか。こんな時どうしたらいいかなんて、備わったマニュアルは教えてくれない。マスターには反抗せず従えと、ただその柱があるばかりだ。
『……でもお前、アイスは好きなんだろ?』
『……はい』
マスターが声をかけてくれたことが、これ程ありがたいと思ったことはなかった。そして脊髄反射で答えてから、ふと疑問が浮かぶ。僕はアイスが好き。それは、そういう設定があるのだからそうなのだろうというくらいの軽い気持ちだった。
でも考えてみれば、その設定を知ったのはインストールされていくらか経ってからのことで、元々組み込まれていたものではない。それなのに僕はアイスを食べると他の食べ物より美味しいと感じるし、胸の奥がざわついて奇妙な気分になる。こんな気分になるのは、今の所アイスを食べた時だけだ。
『だったら……わかってるんじゃないのか?』
『……このよくわからない、何とも形容できないような感覚がそうなんですか?もっとこう……これって言い切れるものだと思ってました』
僕は、感情とは感じた瞬間に、本人にはそれが何か即座に認識できるものだと思っていた。他にぶれようもない、明確な命令の如く瞬時に悟れるものだと。こんな本人にも断定できないあやふやな感覚が“好き”という気持ちなのか。信じられずにマスターを見ると、食べ終わった空き箱にピックを放り入れたマスターが、後ろに両手をついて口を開いた。
『感情ってそういうもんだよ。今お前が何を感じてるかなんて俺には言えないけど、顔を見てたら何となくわかる』
『何ですか?』
『お前はアイスが好きだ。間違いなく。確定的に。疑いようもない』
『……そこまで強調しないで下さい。何だか恥ずかしいです』
『恥ずかしがることないって。な、図星だろ』
そうして覗き込むように見上げてくるものだから、僕は本当に顔が熱くなって目を逸らした。今の自分を鏡に映したら、きっと頬を真っ赤にしているに違いない。
『……よく、わかりません』
そんな顔をさらしていること自体がそもそも恥ずかしい。にやにや見ているマスターを一度睨みつけてから、何とか気を落ち着けようと深呼吸する。そして作り慣れた笑顔を浮かべ、マスターを正面から見返した。
『でも、とても美味しいです。ありがとうございました、マスター』
『それは良かった。じゃあ今度はリクエスト聞いとくよ。流石に今日のはあんまりだしな。好きなもの買ってきてやるから、何が食べたいか教えてくれ』
しかしそこで僕は顔を曇らせなければならなかった。マスターの好意。それはボーカロイドとして何よりも尊ぶべきものだ。その気持ちに応えられないなんて、僕は失敗作筆頭かもしれない。
『すみません、マスター……』
『別にいいって。アイス一つくらい』
『いえ、それもあるんですが……』
『ん?どうした?』
『その……僕は今夜初めてアイスを食べたので、何が好きとかはわからないんです……』
気を悪くしただろうか。折角僕のために申し出てくれたのに、それを無下に振り払ったようなものなのだから当然だ。マスターの無言が耳に痛い。全身を巡る数列が、今日は何の役にも立ってくれずに空回る音が聞こえる。
そんな気詰まりな空気の中、しばらく何か考えていたらしいマスターが示した提案に、僕は目を見開いた。
『じゃあ、これから毎日何か買ってきてやるよ。それを食べ比べて、一番好きなやつを決めたらどうだ?給料入るまでは安いやつしか無理だけどさ』
『え……でも……――いいんですか?負担になりませんか?』
マスターに迷惑をかけるべからず。こういう時はすぐにヒットするマニュアルの一項目に従い、僕は口を開いた。僕たちボーカロイドにとって一番恐ろしいことは、アイスが食べられないことでも歌が歌えないことでもない。言ってしまえばマスターに嫌われることでもなかった。自分という存在が消されてしまうことだ。
永遠の命のように人は思うのかもしれないが、僕たちの場合はある意味人間よりシビアな世界で生きている。電子の海に漂い、数列に身を委ね、音の宇宙に思いを寄せる。そのどれか一つでも狂ったら、僕たちは深刻なエラーに身体を蝕まれ、アップロードされた不安定な心(データ)は壊れてしまう。
キー一つで簡単に左右されるこの命。一度消されれば僕という個は消える。もしまたインストールされても、それは僕ではない別のKAITOだ。何度も消滅と誕生を繰り返し、見た目には何も変化がないように思えても、その数だけたくさんの僕たちが生まれては消えている。
それが何よりも恐ろしい。だから僕たちには大量の規則としてのマニュアルが備わっている。これさえ守っていれば、自分のマスターに愛想を尽かされて消される可能性がぐっと低くなるからだ。それでも絶対じゃないけれど、だからといってこれ以外に僕たちには何も出来ない。
僕たちはマスターたちのためにある存在。例え消されることになっても笑顔で感謝を伝えるのが当然で、それでも怖くないわけじゃないから――きっと最期は泣けぬ我が身を震わせたまま逝くのだろう。
たかがアイス一つで大げさだと自分でも思うけど、そんなことを一瞬の内に想像して僕は顔が引き攣るのを感じた。マスターに嫌われることは、まあ仕方がないと諦めたとしても、そこから派生する諸々の未来が棘になって胸に突き刺さる。
『まあ、負担っつったら負担だけど』
だからマスターがそう言って頭をかいた時には、これで僕は終わりなのだと本気で覚悟した。目を閉じ、宣告を甘んじて受け入れようと身を固くする。
『でも、それしか方法ないだろ?』
それなのにあまりに軽く響いた言葉に、僕は思わず目を開けてマスターを呆然と見つめてしまった。そうしてあっけらかんと笑っているマスターに、表現上でしか知らなかった“目が点になる”気分を味わった。受けた驚きに比例して身体の制御が利かず、瞬きすら忘れて金縛りにあったように動けなくなる。
それでも徐々にマスターの心遣いが染み透ってきて、僕の中でゆるゆると冷たい棘が抜けていくのを感じた。疑いも恐怖も何もかも全て、捨て去ってもいいのかもしれない。そんな気持ちが不意に湧き上がってきたことに、だけど何故か僕は驚かなかった。思ったのは別のことだ。この人に、マスターに、今のこのよくわからない気持ちを伝えるにはどうしたらいいだろう?
『……ありがとうございます、マスター。とても嬉しいです』
そこで僕は初めて自分の感情を口にし、自然な欲求に従って笑った。
そうして気付いた。僕にもマスターと同じように、内にあるマニュアルや命令とは違う何かが存在していると。これをもしかしたら開発者はバグと呼ぶのかもしれない。でも僕は出来損ないでもいいから、この気持ちを忘れないでいたいとその時に強く思ったのだ。
「それがたった二ヶ月前だなんて、自分でも信じられないな」
そう。ほんの二ヶ月前まで、僕は自分が何を感じているかなど知ろうともしてこなかった。だから言ってしまえば何も感じていないのと同じことだし、実際それまでの僕はマニュアルに沿うことを大前提に行動していただけで、意思などあってないようなものだった。
でも今は違う。今は何を感じているのかもわかるし、何をしたいのかもわかる。
そして今、一番望んでいることは。
「……マスター――」
自分を表現できるようになればなるほど、僕はマスターがわからなくなっていった。前は気にもならなかったのに、少しでも僕を見てくれないと不安でたまらなくなる。
「最近はマスター、歌にも付き合ってくれないよね」
忙しいのだろう。疲れているのだろう。それは重々承知しているのに。なのに僕は、マスターがわからない。どうしてマスターは僕の傍にいてくれないんだろう。どうしてマスターは僕を置いていつも出かけてしまうんだろう。
どうして。どうして。どうして?
答えが見つからない。どうしたらこの謎は解けるの?どうすればマスターはずっと僕の傍にいてくれる、僕だけのものになってくれる?
「どうしたら、いいのかな……」
夕暮れの街中で漏れた声は、何だか自分の声じゃないようでぞっとした。でもほんの少し気持ちが良い。こんな風に感情を吐き出すことなんて、前の僕には考えられなかったことだから。今ではそんな前の自分の方が信じられない。
今の僕は、こんなにもマスターが好き。マスターだけが好き。この気持ちを満たす方法は、何かないだろうか。
もうすぐ家に着く。あと少しで答えが見つかりそうな気がした。
(続く)
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