『人よその幸福に呪われてあれ』①
*今より少し未来の話です。
∵.:☆+.。.:*・:*・∵.☆:*・∵.゜ .+.・∴.,★ ∵.:☆+.。.:*・:*・∵.
ハッピーバースデー、ミク。と僕は呟いた。
他に誰がいるでもない殺風景な室内だ。
以前は会社の作業フロアででもあったのか、しんと広い室内にはデスクとパソコンが所狭しとひしめいていた。
部屋の南側と東側には道路に面して窓があるが、それもひびが入って汚らしく曇り、壊れたブラインドが斜めに引っかかっていた。そこから覗くのは今にも降り出しそうな濁った灰色の空だった。
床に散らばった雑誌や会社のものらしい資料のファイル、かつてここにいた人たちの私物らしい雑多なものたちの色彩さえ侘びしさを増す。
ここは倒産した会社のビル。その一室だ。
電力も来ていないので晴れた真昼でも薄暗い。曇りの今日などは夕方かと思うほど。
僕はここへ持ち込んだパソコンに今、最後の仕上げとなるプログラムを打ち込んでいた。あともう一時間もしないうちに出来上がるだろう。
誰のともしれないワークデスクの上を適当に払ってスペースをつくり、倒れた椅子を一つ引きずり起こして座り込んでから、あれから何日たったのか。パソコンを抱え込むように背中をまるめて作業を続けている。
ほこりくさい静寂の中、キーを叩く音はいつか聴いたことのある雨垂れの音に似てきた。
不規則にリズミカルに、コンクリートの地面を濡らしていくあの音に。
雨は染みていずれ植物の根に吸われ、新たな芽吹きの助けになるだろう。
僕のしていることもそうだ。きっと新しいなにかを生み出すんだ。
「腹減ったな……」
今日が何日目かは忘れたが、確実にずっとなにも食べていない。
持ち込んだミネラルウォーターはまだあるものの、人間食べずにはやっていけないのか、と煩わしく思った。
いっそ胃なんてなければいい。
始めたころは終わりも見えなかったが、最終調整はたった今済んだ。起動テストが終わったら何か買い出しにいけばいい。
作業を終わらせ、僕は祈るような気持ちで今作り上げたばかりのプログラムを起動する。
VOCALOID、初音ミク
その人格プログラムを。
起動にはしばらく時間がかかりそうだった。
当たり前だ。一個の人格プログラムがそう簡単に起動するわけもない。
すっかり前傾姿勢のまま固まった背を伸ばすとバキバキと音がして、僕は思わずうめいた。
視力は前よりもひどくなったにちがいない。
自嘲的に笑い、椅子の背もたれにもたれかかって長々と身体を伸ばしながら事の発端を思い出す。……もう何年か前だ。
「ロボットに人格なんていらないよ」
ああ、とか、そうだよな、だとか賛同する意見がささやかなざわめきと共に満ちる。全て今になっても忘れられない声色だ。
大学のある構内だった。昼食を終えて次の教室へ早めに行くべく僕は足早に廊下を歩いていた。
その他愛も無い雑談が耳に入って来たのはまったくの偶然だった。
通り過ぎようとした空き教室に何人か溜まっていた学生たち。彼らは思い思い席に座って、そこで昼食を取っていたようだ。
聞き流してもいいことだったはずなのに、僕の足はぴたりとそこで止まってしまった。
なぜか、どうしてだかその一言が聞き逃せなかった。
例えば機械に興味などない女の子たちならまだ分かる。デジタルものにいまだ弱いおじさんおばさん連中だったとしても理解できる。
しかしそんなふうに言って笑いあうのは僕と同じ年齢くらいの……つまり、十代後半か二十代くらいの男たちなのだ。
どういった経緯でそんな話題になったのか知る由もないが、彼らはその話題を続けているようだった。
僕は教室の中の者たちに気付かれないようにすっと壁際に身を寄せた。
「映画なんかの作り事とは別でさ、現実に人間みたいなAIなんかいたら怖いって」
声高に語る声がする。
もちろん何が怖いのかは聞かないでも分かる。
コンピューターウィルスに侵されたり、プログラムのミスでどんな悲劇が起こるかわからないからだろう。
暴走して人を殺してまわるかもしれない。
確かにそれはおそろしいことだ。
だがその時僕は笑った。
なぜなら、暴走しなくともすでにロボットは人を殺しているからだ。
全く今更だ。戦場で人間のリモコン操作ではなく、己自身の判断でより効率的な破壊をもたらすために思考を凝らして働くAIはすでにある。
彼らはそれらのことは怖くないのだろうか。
案の定、人類に逆らうような思考をするかもしれないとか、人間の虐殺を始めるかもしれないなどという会話が耳に届いた。
そんな可能性があるなら、そもそも作られないほうがいい。そして彼らは続けた。それでも人間の技術力はいずれ可能にしてしまうだろう。と。
僕はそこへ割って入らなかった。
一言言いたい気持ちはあったのに。
僕は大学ではぐれ者で変わり者扱いをされていたが、それが気まずかったから割って入らなかったのではない。そこで話していた奴等はまったく授業も学年も別の見知らぬ相手だったから僕のそんな立場は知りようもなかったはずだ。
僕が何もできなかったのは、その瞬間なにやら得体の知れない気持ちに襲われて身動きできなかったせいだ。
胸を内側から突き上げるような、心臓を絞られるようなともかく激しく苦しい何かだった。
過去の経験を振り返ってみても同じような気持ちは見つからなかった。
確かに心揺さぶられるような経験などほとんどない生き方だったが、これほど印象的な感覚は他になかった気がする。
一体これはなんだろう。とそれに気を取られていて、僕は割り込むタイミングを永遠に失ってしまった。
彼らの話がそれで終わってしまったからだ。話題が別のことに飛んでゆく中、僕一人だけが取り残されて一人廊下で胸の苦しさを握り締めていた。
あの時会話に割り込んでいたらこういうことにはならなかったのかもしれない。
もしかして喧嘩になったかもしれないが、ことは全てその時に終わったはずだ。
僕はあのときの混沌とした感情の正体がまだ分からないでいる。
大学は無事に卒業したというのにあの時の感情がずっと心の隅に居座っていた。
普段淡々と日常をこなしながら心はどこかおかしかった。僕は空いた時間を作っては心が暴走するまま、自分ひとりだけでAIの開発に乗り出していた。稼いだ金は全てつぎ込んで。
そして、僕は今こうしてここにいる。
人類はいまだ自律思考するAIの開発に至っていない。似たようなものは作れてもまだまだ人の感情の再現にすぎない。
有名な大学や研究機関ですらそこまでなのに、そんな夢のような技術を一個人が開発できるようなものではない。たった一人で宇宙ロケットを作るようなものだ。そんなことは初めから僕にも良くわかっていた。
それでも、あのときの他愛も無い雑談の言葉が忘れられなくて僕はこうして時間と命を削るようにして作業に没頭した。
AIを作ろうと思ったとき、僕はベースになるものを探した。
なんでも良かったが人格が想像しやすいものでないと僕の想像力では一から何かを作り上げるのは到底無理だった。そして選んだのがVOCALOID、初音ミク。
かなり昔に発売されたただの音声ソフトだ。一時期やたら流行っていたらしいが、僕が生まれる前のことなのであまり多くを知らなかった。
調べるうちにたくさんの人に描かれ、そして歌われた数多の歌を聴いて。僕は彼女を選んでいた。
運命というのはこういうものか。
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