濡れ縁から庭を見下ろす。
未だ冷たい風に嬲られ、灰桜色の花びらが舞い落ちては濃い闇に解けてゆく。
一振りの枝を生ける彼女を側で見守り、笑い合ったのは毎年のこと。
春の日差しの中でも、宵闇の中でも、膨らんだ蕾が枝を染めた頃も、咲き始めも、散る間際も、この桜はいつだって綺麗だった。
しかし彼女がこの家の床の間に、あの桜の枝を生けることは恐らくもう、ない。
「戒人、何を考えているの」
「…ただ、貴女様の倖せを」
柱の側に立つ彼女の足許に従える自分を、一度だけ視線が掠めたのを空気で覚る。
付き人としての其の一言で、しかしお互いに想い合っていることが判って仕舞う程、自分たちは側に居た。
幼い頃から一緒に居た二人は仲が良かったのに、其の日が近付くに連れて、言葉を交わす事も減っていった。
其れでも詞にせずとも判る、その間柄が愛しくて愛しくて、そして哀しかった。
空気が冷えてゆく。闇が増す。
「御身体に障ります。もうお部屋に戻られては」
翌朝には彼女は嫁いでゆく。
互いに想い合っている事にはもうずっと前に気付いていた。
「そうね。春は未だ寒いわ」

踵を返し、彼女は静かに廊下を渡ってゆく。其の後ろに従う戒人。
もう幾度となく繰り返した役目も今宵が最後だ。
常の如く彼女の部屋の敷居の前で、膝を衝き頭を下げる。
「御休みなさいませ」
しかし彼女が動く気配はしない。返事も無い。
戒人は手を衝いたまま、彼女の気が鎮まるのを静かに待った。
判っている。彼女が泣きそうな事は。
先ほど宵闇で見上げた目許は赤く摺れていた。昨夜もたった一人で泣いたのだろうと直ぐに見当がついた。
だけど、其れでも彼女は自分の前で泣かない事も識っている。
そして、此処で彼女を奪って逃げたとて、倖せには為らない事も解っていた。
彼女が泣くのを見たのは後にも先にも一度きり、あの宵だけだった。


好いているとか恋しいだとか、一度だってきちんと想いを詞にした事は無かった。
華奢な彼女を此の腕に収めて仕舞ったあの宵さえも。
そもそもが、ずっと秘めている心算で居た想いだった。
けれど、自分は彼女の気持ちに気付いて仕舞い、剰え其の手は自分に伸べられて。
あの夜の着物の八掛の緋。重ねられた自分の衣の藍(あお)。例えるならば躑躅の襲だ。
其の色目は、気丈な彼女に似合わぬ白く薄い肩と共に眼に灼き付いた。
結ばれぬ事は端から判っていた。
其れでも、静かに泣く彼女の髪を撫でながら、倖せだと思ったのだ。
想いを遂げられるのがたった此の一瞬だけだとしても、其れは他のどんな苦痛にも見合わぬ倖せだった。出逢わなければ良かった等と、思える筈も無かった。
「…戒人。赤い絲の云い伝えを知って居ますか」
何処か遠くで啼く鳥の声にも掻き消されそうな、細い声だった。
「小指に結ばれた絲の、ですか」
彼女の口から、夢を見る若い娘の様な話が出た事には正直驚いた。思わず返答が揶揄する様な柔らかな声になったが、可愛い、と口にするのは憚られ、代わりに其の額に掛かる髪を撫で上げた。
「私にしては子供騙しだと、笑うのでしょうね」
戒人の声音を敏感に察した彼女が眉を下げる。困った顔はそろりと笑った様にも見えた。
「笑ったり等致しません。貴女に赤は良く似合う」
其の聡明そうな額に、口付ける事が赦される日が来る等と考えた事も無かった。
「…繋がって居るでしょうか」
自分を見上げた視線と、睫に留まる雫に射止められて喉が潰れ、誰と誰が、と問う事は出来なかった。

出逢わなければ良かったと思えたら。
或いは憎み合えれば、此れ程彼女を苦しませたりはしないのだろうに。
この恋が罪で、想い焦がれて付いた傷だとしても、其の傷が癒えて消えて仕舞うのも惜しむ程、彼女に纏わる総てが愛おしかった。


「私は、」
頭の上で凛と響いた彼女の聲が、戒人の意識を過去から今日に引き戻した。明くる日、彼女を失うこの夜の、今に。
「…私は、運命を信じません。いつだって自らで切り拓いてゆけるものだと信じて居たいから」
嗚呼、貴女はそういう人だ。そういう、潔白で、強く、弱い人だ。
「だけど戒人、赤い絲は――」
声が震えていた。恐らく、あの細い指先も。
もう一度だけこれが最後だと抱き寄せてもいい。遂に好きだと詞にするのも構わない。
けれど、どの道彼女は、明日には他の男のものだ。
何を言おうとしているのかは、手に取るように判った。誰よりも長く側に居た女性だ。
それにきっと彼女も自分の胸中など判っている。
自分が彼女に仕えていたのと同じ時間だけ、彼女も自分の側に居たのだから。
「解っております。決して忘れたり致しません。だからどうぞ貴女は、御幸せに」
遊び女達は、本当に愛した男に、誓いの証として自分の小指を落として渡すと云う。
喩えば其れで、一番小さな指の壱つで貴女が慰められるのならば自分は何も厭いはしない。
だけど貴女と結ばれた小指を渡して仕舞えば、もう繋がっては居られなくなるだろう。
其れとも貴女が離れて、糸が張り詰めれば軋む胸と同じ様に此の小指を締め上げて、縊り落とすだろうか。
其れは見えない糸が繋がっていた証になるだろうか。
御伽噺を信じている訳でもないのに見当外れな事を真剣に考えてしまう。
「……戒人、頭を上げては呉れませんか」
「畏れながら」
此の頭を上げれば、彼女の顔を見れば、二人の間に張り詰めた何かが切れて溢れ出して仕舞う様に感じられて、もうこれ以上身動きが取れなかった。

十分に間を置いて、戸が閉てられる。静かに。
もう永遠にこの扉は開かない。
相手が居れば其れ丈で構わないと思える程、子供では無かった。
しかし、二人きりで生きて往けるほど強くも無い。
青い恋。
自分には貴女を奪えない。

だから忘れてしまえ、俺の事等。
そして。


「芽伊子、倖せに為れ」


一言、腹の底から絞り出した低い聲に、畳にくずおれて膝を衝く音が、襖の向こうで聴こえた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

青い恋 裏設定的SS

こちら(http://piapro.jp/content/gu1jqfkigkw6qr0b)で書いた歌詞の裏設定的SS。

太朗さんの絵(http://piapro.jp/content/q3ce8pwscmuz5iof)の最初のインパクトそのままです。


便宜上「戒人」と「芽伊子」にしたけど特にカイメイ意識でもないです。
ただ、赤と青と言えばね。

ゴシック体だと雰囲気出ないなぁ…。
と思うのは私の至らなさですね。

閲覧数:571

投稿日:2009/02/13 17:48:34

文字数:2,451文字

カテゴリ:小説

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