「あー! 思い出した!」
「ど、どうしたの、ミク?」
控室で雑誌を読んでいたお姉ちゃんがびっくりしたように顔を上げた。右手に持ってた紙コップがびくりと揺れて、ちょっと中のコーヒーがこぼれちゃった。
「あっ! お姉ちゃんごめんー!」
急いでティッシュを持っていって濡れたイスを拭きながら謝ると、困った顔をして笑われた。お姉ちゃんもわたしには大概甘い。でも、綺麗な赤い衣装にかからなくてよかった。
結局、あの後何度やってもマスターの要求にうまく答えることができなくて、レコーディングは明後日の午前中に延期になってしまった。だから、今日明日中には何が何でも「ソフト」を習得してマスターの前に立てるようにしておかないと。なんて、変なプレッシャーも拭えないまま今日のPV撮影に突入してる。せっかくお兄ちゃんに見てもらったくせに、なんにも役立てられなかった。なのに、夜中にヘロヘロになって帰ったわたしを、先に帰ってたお兄ちゃんと、お姉ちゃんは寝ないで待っていてくれた。散々愚痴を聞いてもらってさらに寝るのは遅くなっちゃったはずなんだけど、お兄ちゃんはケロリとして今朝も早くから朝ごはんの用意してたし、お姉ちゃんはジョギングとか行ってたみたいで、ほんとに信じられない。
「で、何を思い出したの?」
拭いたティッシュをくずかごに捨てると、お姉ちゃんはわたしの隣にパイプイスを引き寄せた。わたしも、ケータリングのお菓子を引き寄せながらイスに座る。
「昨日お兄ちゃんがお弁当持ってきてくれた時に、昔の世界はどんな感じだったの、って聞いたんだけどね、お兄ちゃん、聞こえなかったのか教えてくれなかったんだよねぇ」
「ブッ……」
「え?」
ちょっとお姉ちゃん、今度は口から缶コーヒー吹き出しちゃったんですけど。一体どうしたの?
「ご、ごめんごめん! ミク、それ聞こえなかったんじゃないわよ。『聞こえなかったことにした』のよ」
「えー、なんでー?」
あはは、と今度は盛大に笑いながらお姉ちゃんは目尻の涙を拭う。もう、なんで一人で楽しそうなのー! わたしはわけがわからないまま待つしかないじゃない。ずーるーいー!
ひとしきりお腹を捩らせた後、お姉ちゃんはやっと満足したのか話し出してくれた。
「ミクが来る前の世界はね、マスターが作ってくれた空と、彼女……あ、もう奥さんか。奥さんが作ってくれた大地と、あと小さな家と……。それはもうヨーロッパの片田舎みたいですごく素敵なところだったのよ」
マスターに作れるものが歌以外にもあったなんて知らなかった! その空は人間の世界と同じ天気じゃなくて、VOCALOIDの気持ちに合わせて変わるように設定されてたんだって。そりゃそうよね。わたし達は歌において空模様が心情に連動するってことが勉強できればいいんだもの。やっぱり、無駄な暑さとか寒さとか全くいらないんだわ。
「へぇ、今と全然違ったんだねぇ! わたしも行ってみたいなぁ」
「うーん、ミクも絶対に気に入ってくれると思うから、行けるなら連れて行ってあげたいんだけどねぇ」
「もう行けないの?」
そうやって聞いたらお姉ちゃんはまた、堪えきれなくなったようにふふふと笑い出した。お姉ちゃんって、こんなに笑い上戸だったっけ?
「カイトが、変な勘違いして壊しちゃったのよ」
「……へ?」
壊す? 世界を壊すことなんてできるの? しかも、あの、虫も潰さないんじゃないかと思うくらい温厚なお兄ちゃんが?
ポカンとしてしまったことに気付かれちゃったみたいで。お姉ちゃんはうーん、と少し考えてからまた話し始めた。
「この世界は、マスターと奥さんのシステム構築によって形作られてるでしょ? ってことは当然、壊れることもあるのよ。私達と同じようにね」
わたし達が「0」と「1」の集合体で作られていることは知っていた。人間の手によって生み出されて、人間の手でインストールされて、人間の手でプログラムされるからこそ、VOCALOIDは息をすることができる。ネットを見てみればいろいろなところで「仲間」が生まれては消えていたし、わたしだっていつアンインストールされてしまうかわからない。人間は病気や事故で亡くなってしまうことが多数だっていうけれど、わたし達はそれよりももっと高い、そしてもっとどうしようもない死亡原因を抱えながら生きているんだ、実は。永遠の歌声は、タネを明かしてしまえば薄っぺらいハリボテ同然なのよね。このことについてはもうとっくに考えることをやめていたけれど、そうか。この世界も、わたし達と同じくらいには、ハリボテなのか。
「でも、お兄ちゃんは人間じゃないよ?」
人間にはハリボテを壊す権限がある。クリック一つ、Enter一つで何もかもを終わらせられるけれど、わたし達にはもちろんそんなものはないじゃない。
「それが、マスターの作った天気との相乗効果というかコラボレーションというか……。私のいないところでカイトが勝手にスタジオ飛び出しちゃってね」
お姉ちゃんはわたしが引き寄せたお菓子の中からドーナツを一つ取って食べ始める。
「あいつって、どっか感情的すぎるところがあるでしょ。その時も変にひねくれた感情が一気に天気へ反映しちゃって。そしたら結局必要な容量も二倍じゃない? 耐え切れなくなったHDが故障しちゃったのよね」
あれは凄かったわよぉ、なんて呑気に食べてますけどお姉ちゃん……。それって結構大変なことなんじゃ……。結局、その時の世界はバックアップを取ってなくて元に戻せなかったみたいで。ちょうどもうすぐ私っていう大型新人(自分で言うのもなんだけど)を迎えるっていうんで、奥さんがまっさらなところから作り直したみたい。今のこの世界に。外が暑いのも日暮れが遅いのも、全てはお兄ちゃんのせいだったってわけ……。
「ミクも、あんな奴の真似して勝手な行動取っちゃだめよ。世界が終わっちゃうんだから」
怖い顔をしてそんなことを言う割に、お姉ちゃんはやっぱり口の端っこが笑ってる。本当に、わたしの憧れ「始まりの歌姫」は肝が据わってるんだから。すごいよねぇ。
「でも、なんでその時、お兄ちゃんが勝手にスタジオ飛び出しちゃったってわかったの?」
「え?」
「……え?」
てっきり、後からマスターに聞いたとか、同じエンジン同士だから心の中で通じ合ってるとか、わたしにはついてないテレパシーみたいな機能で勘付いたとか、そんな答えがすらすらと返ってくるんだと思ってた。いやいや、だって、それまでのお話がもうとんでもなくぶっ飛んでますから。それくらいのことがあったっておかしくないじゃない? 第一、「同じエンジン」っていうのがどういうことなのか、どこまで通じ合えるのか、わたしにはそういう人がいないからいまいちよくわかんないんだもん。だから、どうなのかなって……。
でもお姉ちゃんたら、あんなに楽しそうに話してたのに、それを聞いた瞬間固まってしまった。しかも、顔が信じられないくらい真っ赤になっちゃってる。あの、ついさっき、わたしに「肝が据わっている」と評されたばかりじゃありませんでした?
「もしかして、お姉ちゃん……お兄ちゃんのことスト――」
「ハーイ、お二人さん! 陣中見舞いに来たよー!」
「きゃああぁぁぁぁぁ!」
突然開いた控室のドアと聞こえてきたその声に、今度こそお姉ちゃんは飛び上がった。あんまりにも大きな声で叫んだもんだから、鼓膜が破れるかと思った!
「え? え? なに? どうしたの?」
目を丸くしてるお兄ちゃんを突き飛ばして、スタッフさんが後ろから飛んできた。それに対して、これまた真っ赤になりながらお姉ちゃんはペコペコ頭を下げて帰ってもらう羽目になってしまった。MEIKOの本気は凄まじい。スタッフさんは帰り際にギロリとお兄ちゃんのことを睨んで去っていったけど、えと、あの、すみません……これは……お兄ちゃんというよりも、わたしの言ったタイミングが悪かったですよね。
「めーちゃん、どうしたの?」
何も知らないお兄ちゃんは自分への濡れ衣なんてお構いなしで、本当に心配そうにお姉ちゃんへと近寄ってその手を取った。あぁ、お土産のシュークリームがものすごく無造作にテーブルに放られちゃった。中身が出たら食べられないじゃないの、もう。
「な、なんでもないわよ!」
青いまっすぐな瞳に見つめられて、さらにバツが悪くなってしまったお姉ちゃんが突き放す。ぺちんと叩いて離した手に、お兄ちゃんがちょっと切なそうな顔をした。それはたった一瞬のことだったのに、見逃さずに気づいたお姉ちゃんまで同じ表情になってしまう。あーあ……それは最近流行の「ツンデレ」というやつでは……? でもこんな光景、家の中だったら日常茶飯事のはずなのに。さっきのお姉ちゃんの、あの慌てようのあとじゃ全てが違って見えてくる。
「えー、めーちゃん。何でもないってことないでしょう。ねぇ、ミク。何かあったの?」
「……え?」
不意に顔をこっちに向けられて、今度はわたしの心臓がドキリとした。お姉ちゃんみたいに飛び上がるなんてことはなかったけど、なんか、もう、口から心臓飛び出るかと思った。なんだろう、この、なんか急に何かが暴かれそうになったかのような、ひやっとした、変な罪悪感みたいなこの感情は。
「……ミク?」
鋭い。さっきまでのパニックを引っ込めたお姉ちゃんが、お兄ちゃんを押しのけこっちにやって来ようとしてる。すごく心配そうな顔。でも、それはお兄ちゃんがお姉ちゃんに向けるのとは全然違う顔……。このまま、お姉ちゃんに抱きついちゃえば、少しは私の心臓も落ち着くかな。お兄ちゃんの顔がお姉ちゃんの姿で見えなくなってしまえば、ちょっとは楽になれるかな。
お姉ちゃんの、手が伸びてくる。
「あ、ごめん! わたし、スタッフさんに確認したいことがあったんだった!」
「は?」
「なんか、思い出せなくてさっきから気持ち悪かったんだよね! いやぁ、本番前に思い出せてよかったなー! ちょっと、行ってくるね」
「ちょ……ミク?」
「あ、お兄ちゃん、来てくれてありがとう! おかげで元気出たよー!」
ちょっと、何が正解なんだか何がわたしの中で起こっているんだか何がわたしを救ってくれるんだか、わからなくなってしまった。お姉ちゃん、お兄ちゃん、それとも全く別の、想像すらできないような何か? 本当にわからない。物事には結構頓着しない方だし、それでも、やりたいこともやりたくないことも好きなことも嫌いなことも全部自分が一番よくわかってると思ってたのに。わたしは今、自分が一体どうしたいのか、世界一わからないひとになってる。結果、半ば叫ぶようにして部屋を飛び出した。なんでなんで、わたしがこんなにテンパってるの? どこにそんな要素が潜んでいたっていうの?
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