58.ヨワネの今、ハクの今
ハクの心配に反して、リンと名乗った少女はすんなりと子供たちの輪になじんだ。
「リン! これ、あたしの刺繍だよ! きれいでしょう!」
「あー! リュイはすぐ得意な柄ばっかり見せるんだから! ハクさんには、別の柄の練習もしなさいって言われているのに」
「自分の最高の作品を見せるのは当然じゃない!」
わいわいと子供たちに囲まれつつも、リンが言葉を発することはまれだ。
しかし、子供たちからしてみれば、新しく教会にやってきた、なにやら訳のありそうなリンに対して、幼くも庇護欲をかき立てられているようだった。
「リン! わからないことがあったら、あたしに聞いてね!」
「あーっ! リュイだけじゃないよ! 私もいろいろ教えてあげられるんだから!」
そんな子供たちの騒ぎを、最初の『教会組』の年長者たちは苦笑しながら見守っていた。
「女子たちは、すっかりお姉さん気分だな」
ブリオッシュを焼いたのは、ヨワネの旧職人街にて、ナユの糸屋の正面で宿屋を営むノルンである。
彼は職人にはならず、宿屋を経営することを選んだ。宿屋の主人としてのノルンの仕事は、ヨワネを訪れた商人たちをもてなし、職人たちの作った作品を宣伝することだ。ヨワネの町の復活にとっても大事な役割を担っていた。
「ノルンの焼いたブリオッシュ、泣くほどおいしかったみたいよ?」
今朝、そのブリオッシュを、ナユは泊まり客のもてなしで忙しいノルンの代わりに持ってきたのだ。笑って報告するナユに、ノルンもほっと笑顔を見せた。
「そりゃよかった。親父のレシピに俺が改良を加えたものだからな。小麦の本場の黄の国のお客さんに喜んでもらえりゃ本物ってことだな」
黄の侵攻時に十一歳だったノルンは、死んだ自分の父親を、ハクとともに自身の手で埋めている。ナユも自分の家族の最期をその眼で見ている。
「……あの、黄の子さ、リンっていうんだって?」
「うん、あたしも、まさかあの『悪の娘』かと思ってびっくりしたけど、黄の国にはあの年頃の女の子で、リンちゃんという名前の子はたくさんいるみたいだから」
子供たちの声が、リンをとりまいて教会の庭に響いている。
リンは、その賑やかさに囲まれて、ときおり微笑みを見せるようになった。しかし相変わらず、口をつぐんだままである。
「……それに、リン女王は、死んだんでしょう?」
「……まあ、な」
ナユの問いに、ノルンもあいまいな返事を返し、ハクを見やる。
ハクはじっと子供たちの中にいるリンを見つめていた。
「……ハクさん、」
「ナユちゃん。ノルンくんも、ここで暇をつぶしていていいの?」
時刻はもうじき夕方になる。宿屋にとっては夕食の準備と、夕方到着する客に向けて準備を始めなければならない時間帯だ。
「おっと。俺はいかなきゃ。ナユはどうする? ……まだここに居たいなら、糸屋のほうにも俺のとこの人を店番に貸すけど」
ナユがハクの方をちらりと見た。
「なに、ナユちゃん。私は、大丈夫よ」
「……そう?」
「さて。私も夕食の準備をしなくてはね」
今日は私の当番なのよ、と、ハクは立ち上がる。食事や掃除などの生活の当番は、ハクも含めた教会に住む子供たちの間で順番に回している。
「今日の食事当番―! リュイー! あなたと私よー!」
子供たちに向かってハクが叫ぶと、リュイはリンの手を引いてきた。
「ね、リンもいいでしょ! 黄の国の人なら、緑の国の台所なんて、珍しいだろうから!」
パンを焼く窯もちょっぴり変わっているんだよー、と、リュイは得意そうに笑う。
「あたしねっ、この前、お肉の焼き方が上手いってハクさんにほめられたんだから!」
ハクは、わずかにうなずいて、リュイを伴って台所に向かった。
「水汲んでくるから!」
「焚きつけも取ってくる!」
リュイとともにリンを取り巻いていた子供たちが、あっという間に散っていった。
「あいつら、いつも当番さぼりたがるくせにな」
ノルンが苦笑し、帰ろうか、とナユを促す。
「じゃあね、ハクさん。しばらくはこっちにも頻繁に顔をだすよ」
ふたりは教会の丘を降りて、自分たちの仕事場に戻っていく。ハクは二人に向かってゆるく手を振った。
「……そう、リン女王は、死んだ」
ハクの口が、ゆるく『悪ノ娘』の一節をくちずさんだ。
彼女はこう言った……
「あら、おやつの時間だわ」
口にした瞬間、ぞくり、と背筋に戦慄が走る。
「……そう、死んだ、はず」
「ハクー! 何してるのー!」
リュイの声にハクの耳に音が戻ってきた。
「うん! 今行くわ!」
ハクは走りだす。
とりあえず、今解ることは、黄の髪の彼女がボロボロになって倒れていたこと、そして彼女がしゃべることのできないほどに傷ついていることだ。
かつてハク自身も、傷つき疲れ果ててこの教会へやってきた。彼女がこの場所に倒れていたのも、何かの縁のように思えた。
「リン! 今夜はちょっぴり豪華だからね! あなたの歓迎会よ!」
ハクは腕をまくり、春の夕闇の空気の中を走りだす。後ろで一つに結んだ白い髪が輝いてなびき、空に昇った一番星がその輝きに光を添えた。
* *
リンがこのヨワネの教会にきて、数日が過ぎた。
リンは相変わらず無口だったが、時々は笑顔を見せた。そして、料理の腕前はそこそこ良いことが判明した。
子供たちも、少しずつ笑みを見せるようになっていくリンになつき、付きまとっている。
「ねえ! 今、ノルンの宿屋に『歌屋』の詩人が来ているんだって!」
そんなとき、リュイがハクに明るく声をあげて飛びついてきた。
「あら、ノルン、最近よく来るわね」
ノルンはリンが教会に来てから、頻繁に様子を見にやってくる。
「ブリオッシュの本場の黄の人に、俺の店の物を批評してもらいたくてさ」
今日もブリオッシュを手土産にしてきたようだ。今回のそれには甘く煮込んだ熱帯の木の実をすりつぶしたものが練りこまれている。
味見といって配るノルンに、ちょうどおやつ時だった子供たちが歓声を上げて群がった。
「うまーい!」
子供たちの歓声につられるように、ハクもひとつブリオッシュを手に取る。
「たしかに、これはおいしい……」
「だろ? 俺、ちゃんと着々と腕を上げてるだろ? どこの国のお客さんが来ても恥ずかしくないようにしたいし、さ」
わざとらしく胸を張るノルンに、ハクは苦笑する。彼の父親は、もてなし上手の良い商人だった。きっと彼も、口には出さないけれども、父親をめざす思いはあるのだろうなとハクは考える。
「ああ。ウチに来ている『歌屋』さん。このあたりに吟遊詩人が来るなんてめずらしいだろ? ハクさんも、時間があったら聴きにおいでよ。なかなか良い声の奴だよ」
「奴?」
ハクがきき返すと、ノルンはうなずいた。
「ああ。男だよ。そいつ。ピンクの髪に、黒の衣装って奇天烈な格好しているけど、声は良いし詩にセンスもある。……『巡り音』の印も持っている、本物の『歌屋』だ」
巡り音、と聞いて、ハクの心が切なく痛む。青の国で出会った『巡り音』。
ハクにとっては、いつまでも色あせない強烈な思い出だった。
ルカと名乗る『巡り音』の歌を、初めての同じ身分の友達、レンと聞いた。刺されたレンを助けたのも、その『巡り音』だ。
あの頃は、まだ、自分とレンに起こる出来事を、何も知らずにいた……
暗い考えを振り払うように、ハクは明るい声を通した。
「へえ! 『歌屋』って有名な吟遊詩人の組織でしょ? そんな人がこのヨワネにくるなんて、すごいじゃない」
「ああ。ヨワネの復興を聞いて来たんだって。ハクさん、良かったね。いよいよヨワネの復活も軌道に乗ったってことだよね」
「ふふ」
ハクは笑う。正面のリンを見ると、子供たちに促され、ブリオッシュにかぶりついたところだった。
「こらみんな。行儀悪い食べ方を教えないの! ちゃんと一口ずつちぎって食べなさい!」
「いいのよ! これが『緑の国風』なの!」
「ヨワネの教会の悪ガキ風の間違いだろうが!」
そういうノルンも思い切りかぶりつく。甘いペーストを練りこんであるので、かぶりつくのが正解のようだ。
「で、どうする、ハクさん。もし来るなら、子供たちは自分のところに招待するって糸屋のナユは言っているけど?」
ナユの糸屋には、広い工房がある。かつては職人たちでにぎわった場所だが、今はまだ、糸を紡ぐのはナユひとりきりだ。
ハクが見回すと、子供たち皆が、瞳を輝かせてハクを見ていた。
「……この状況で、断れないでしょう。ノルン。子供たちの前でこの話をしたの、わざとね?」
ハクが、解った、行くわ、と答えると、部屋は蜂の巣をつついたような大騒ぎと笑い声に包まれた。
「お泊りよ!」
「やった! オレ、歌とか聞くの初めて!」
はしゃぐ子供たちの中で、リンだけはうつむいている。
「リン。もしかして、歌、嫌い?」
リンはゆるやかに首を振った。
「じゃあ、いっしょに行こうか」
おそらく、このリンは、あの王女に似ているけれども、別人だ。
そう、思いたい。
ともに巡り音の歌を聴くことで、自分の中に深く根を張っている悲しみにも区切りをつけられたなら。
その時のハクは、そう思っていた。
つづく。
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