目が覚めたのが、辰の刻を回ったところだった。布団から重たげに身を起こし、のったりと頭を動かして、自分が目を覚ました原因を探った。外に面した窓の障子を通して白い日差しが布団の上に斜めに差し込んでいるけれども、それはいつもの事だから、それが原因ではない。眠るのが明け方近くだから、いつも昼前までは床の中にいるのが常なので、多少の日差しには慣れてしまっている。
目が覚めた原因はすぐに知れた。障子の向こう側、窓の外から騒々しい諍いの音が聞こえて来たからだ。店の若い衆であろう男たちの声に混じって一人、甲高い、まだ幼いような声が耳を刺す様に響いている。
みくがため息をついて、長い髪が床一杯に流れるように広がっているのを気だるげに手でかきあげながら身を起こすと同時に、部屋の出入り口の障子に細い隙間が出来て、そこから一層明瞭な光が差し込んだ。それはすぐに静かに広がって、白い足袋がその下のほうから顔を出す。
「あ、みく姐さん。もう起きていらしたんですか? 今火を持ってきたばかりだから、部屋が暖まるにはもう少しかかってしまいます」
恐縮した様子の相手に眼差しだけで少し微笑みかけて、みくは軽く首を横に振る。
「目が覚めちゃっただけから。……なんだか騒がしいね」
障子の向こうに目をやりながら言うと、火のついた火鉢をみくの部屋に置いて炭に軽く息を吹きかけていた相手は、苦笑いをした。
「最近新しく連れてこられた子が、ひと悶着起こしているんです。朝から大暴れで。器量が良いし、利発そうだからといって買ったそうだけど、失敗だったかもしれませんねえ。これで脱走騒ぎを起こすのはもう三回目」
みくは立ち上がると、襟元を合わせ、そばに掛けてあった紅色の羽織を肩からかけて、窓の障子を僅かに開いて、階下に見える中庭を覗いた。
なるほど、中庭には数人の男に囲まれて、まだあどけなく見える少女が声の限りに叫んでいる。小さな体には似合わず随分と良く響く声で、更に随分と凶暴に周囲に掴みかかって行くので、若い衆も手を焼いているようだった。きらきらと、黄金色の髪が、日に当たってはちらちらと周囲に光を撒き散らすように踊っていた。
「お客を取るには若すぎるような」
呟くようなみくの言葉に、相手ははい、と頷く。
「でも可愛らしい顔をしていますからね。少し誰か姐さんにつけて見習いをさせてからお店に出そうっていう魂胆だったと思うんですけど」
説明を聞きながらもみくの視線は窓の外の少女を追っていた。少女は捕まえようと手を伸ばす若い衆たちを蹴り付け、殴りかかり、捕まってしまっても引っ掻き、噛み付き。ありとあらゆる手段で抵抗する。
「元気……」
思わず、感嘆するように呟いた。自分にはない、力強さだ、と他人事のように思う。
「痺れを切らした若い衆たちが主人に言いつけたらしいですから、他の店に払い下げられるかも、という噂も聞きましたよ。……売られたのがこの店だったからまだ、幸運な方だったのに」
少し同情するようにそう言って、火が良い風についたのか、相手は、軽く膝を払って立ち上がる。
「あ、はくちゃん」
それじゃあ、と挨拶したその相手を振り返って、みくは言う。
「ご主人に会える?」
「今、ですか?」
怪訝な顔をする相手に、みくは当然のように頷く。
「みく姉さんなら、できると思いますけど。伝えてきます」
「うん」
みくは窓辺に置いてあった煙管を取り上げながら、当然のように浅く頷く。
「でも、ご主人に何の御用ですか?」
不思議そうに尋ねるはくに、煙管を差し出しながら、みくは謎めいた笑みを浮かべた。
「ちょっと、欲しいものがあって」
差し出された煙管を受け取って火をつけながらも、はくは背筋に鳥肌が走るのを感じた。それほどまでに、みくのその表情は艶めいて、そして何かそれだけでは言い表せない不思議な美しさを秘めていた。どこか背筋が凍るような、それでいて、いつまでも飽きず見て居たくなる様な。目が放せず、吸い寄せられるような。
流石、店一番の太夫だと、はくは内心で感嘆する。まだうら若いこの齢で、こんな表情をしてしまうこの娘は、やはり何か違うのだ。
☆ ・ ☆ ・ ☆
りんにとっては、何もかもが、気に食わなかった。
今までお嬢さんとして、蝶よ花よとまではいかずとも、それなりに不自由はなく育てられたはずの自分が。よもやこんな境遇に陥ろうとは。まさか身内の者に売られようとは。
それに加えて、否、それにも増して気に食わない事は自分が「厄介払い」された後、実家で起こるであろうと容易く予測される出来事。それを、自分はなんとしても阻止しなければと思う。
だから廓に連れてこられた日より連日、脱走を繰り返している。そして、掴まっては折檻をうけている。
この度もご多分に漏れず、簀巻きにされて、蔵に閉じ込められて一晩放置される筈だった。
それが、何事が起こったのか……?
りんはただただ呆然と、自分の右頬を右の手で押さえて目の前に立つ美しい人を凝視していた。
その人の、二つに高くくくった流れるような長い髪は、寂しげな浅葱色の着物の柄に良く映えていた。顔をあわせてすぐ、こちらを向いてにっこりと笑ったその顔は、作り物のように整っていた。そして、一見するととても柔らかい雰囲気の、優しそうな人だった。だけど、どこか背筋がぞくりと粟立つような、眩暈がするような、ひどく不安で……どこか恐ろしいような気がするようにも思える人だった。
その人は、たった今りんの右頬を叩いたその右手の手のひらを少し痛そうに顔をしかめて見て、それから手を下ろして肩を竦めた。
「やり方が、悪いよ」
「は?」
りんは訳がわからず、ただ、呆然と聞き返す。打たれた右頬が今になってじんじんと痛み出して、火がついたかのように熱かった。そんな痛みを、初めて体験した。
「ここを抜け出したいのなら、もっと頭を使わなきゃ。そのやり方じゃあ、すぐにもっと酷いところに身を沈める事になるよ」
「抜け出して、いいってこと?」
「いいえ」
みくは朱色に塗った唇を薄く横に引いて、微笑んだ。
「今日から私につくのだから、今までのような我侭は許されないの」
でも、とその朱色の唇は艶やかに語る。
「きちんと私に尽くしてくれたなら、悪いようにはしないのよ?」
その深い青と緑の混じったような複雑な色の瞳は、見つめていると吸い込まれてしまいそうな気さえした。りんは呆然と、その瞳に見入っていた。
「返事は?」
絹を撫でるような声は、柔らかく、しかし否定は赦されないような絶対的な音をもって、りんの耳に届いた。
⇒二話に続く
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