間違った方へ変わりそうな自分を、どうやったら止められるだろう。
例えば図書館で、短い会話を交わす時。図書館だから静かにしないといけないのと、仕事中だからか落ち着いた様子で話すので、來果さんは家にいる時とは別の顔を見せる。品の良い微笑を絶やさず、『穏やかなお姉さん』って感じだ。
だけど、短い会話の中で時折、『いつもの顔』が覗く事がある。興味深げに目を見開く愛嬌のある顔や、小さく笑う気安い雰囲気。シンとした閲覧室で閃いて、一瞬後には仕事用のすまし顔に隠されてしまうそんな表情に、僕の心はくすぐられる。
僕にだけ見せてくれる表情。僕にだから零れてしまう表情。――ですよね、マスター?
僕にだけ、僕にだから。僕が他の誰とも違うから、貴女にとって『特別』だから。
だから見せてくれる、僕だけの――。
そう思うと涌き上がる、うっとりするような満足感。いや、優越感だろうか。僕の最奥に在る歪なヤミも、害意を忘れて蕩かされる。
ヤミが凪ぐのは良いけれど、こんな思いは多分良くない。何かが少しずれている。
だってこんなの、不遜だろう。來果さんが優しい善い人で、だから僕みたいな不安定な≪VOCALOID≫でも受け入れてくれて――なのに僕なんかが『特別』だとか。
そんなのは傲慢で、不相応だろう?
* * * * *
【 KAosの楽園 第3楽章-003 】
* * * * *
どうして、嬉しいだけで終われないんだろう。ただ喜んで感謝して、それだけだったら幸せでいられるのに。
そんな風に思い悩みながらも、僕の毎日は変わらなかった。マスターの食事を作って、家事を片付けて、図書館へ。少し距離を置くべきなんじゃ、と思いはしても、耐えられなかった。
僕はただ『マスター』が欲しかった。≪VOCALOID≫として当たり前に、良いマスターと出逢い、慕って傍に居て。
それは叶って果たされて、僕は確かに幸せだ。來果さんにはどれだけ感謝しても足りないし、大好きだ。
だからもう、充分なはずなのに。なのにどうして、満足しないんだろう。
自問にも自責にも、答えは見つからなかった。
僕は今日も図書館で午後を過ごし、マスターの姿を追い続ける。
――追い続けたから、『それ』に気付いた。
最初は、特に気には留めなかった。
マスターを探す僕の視界に入った、一人の男性。ごく普通の人に見えたし、この図書館は新しいだけでなく蔵書も多いから、利用者の姿が目に入るのはいつもの事だ。
でも、2度、3度と同じ姿が目に付いて、おかしいなと思った。
気付かれないように眺め続けていると、理由はすぐに判明した。その男性は、ずっと來果さんについて回っていた。本の場所がわからなくて訊いているのかとも思ったけど、一向に離れていく気配がない。來果さんが棚に戻す本を抱えているのもお構いなしに、延々と何かを話しているようだ。
((なんだ、あれ))
ヂリ、と胸の奥が焦げ、僕の思考は奥底で目を眇めるヤミと完全に同調した。
どう見てもそいつは仕事の邪魔になっているのに、來果さんは穏やかに微笑んだままだ。それが仕事用の、お仕着せの表情だとは判るけど、苛立ちが募る。あんなの相手に、勿体無い。
そっと席を立ち、さりげなく本棚の裏側へ回り込んだ。≪VOCALOID≫の能力をフルに使って、棚の向こうの囁き声を拾う。聞こえるのはやはり男の声ばかりで、内容もくだらない世間話だ。本の案内中でさえない。
仕事中なんだから、振り切ればいいのに。苛立ちはマスターにまで向いた。僕だって、ここじゃ長くは話せないのに。ちゃんと我慢するのに。
((なんでそいつにそれを許すの))
頭がぐらぐらして視界が狭くなり、見えているものも意味を成さなくなった。目の前の棚に納められた本を掴み、腹立ち紛れに乱暴に引き抜く。
と、両脇の本まで一緒に飛び出てきた。雪崩れるように数冊が床に跳ね、バサバサッ!と結構な音が立つ。
僕は奇妙に冷えた頭で、それをどうでもいい事としてただ眺め、
「どうしましたっ?」
慌てた声を上げながら、マスターが棚を回りこんできた。
その後ろに男の不満気な顔を見とめ、咄嗟にしゃがんで慌てた風を装う。
「すみません、力加減がおかしかったみたいで、周りの本までついてきちゃって。傷んでないといいんですけど……」
「大丈夫ですか? どこかぶつけたりは」
言いながらマスターは駆け寄って、僕の側に膝をつく。こうなっては、男も所在無さげに立っているばかりだ。面には出さず、腹の底でニヤリと笑う。
そこへ、音を聞きつけた他の職員もやってきた。マスターは手短に説明し、片付けを引き受ける。未練がましくまだいた男は、寄って来た職員に声をかけられ、もごもご言いながら姿を消した。
そうして周囲は無人になり、散らばった本の中、僕とマスターだけが残される。
(さあ、マスター。僕に言う事があるでしょう? どうしてあんなのを好きにさせておくのか、)
聞かせてもらおう、と口を開きかけたところへ、盛大な溜息が吐き出された。一緒に力も抜け出たのか、マスターの身体がだらりと崩れる。
思わず止まってしまった僕に、顔を上げたマスターは安堵しきった笑顔を見せた。
「ありがとう、カイト。助かったよ」
「マスt」
床についた手に温もりを重ねられ、言葉が途切れる。短い言葉に、心底からの感謝と信頼が溢れているのが伝わった。
((――マスター))
全身を支配していた黒い衝動が、一瞬で霧散した。代わって甘美な痺れが走る。何処か一番深いところから涌き上がるのは、強烈なまでの愛しさで。
「もう、しつこいし仕事進まないし近付いてくるし、でもお客さんだから変にあしらってクレームになっても駄目だし……ホント困ってたの。こういうのも要領良く流せるようにならなきゃいけないんだけど、難しくて」
だからありがとう、と重ねて笑い、散乱した本を片付ける為に僕の手を放し、
「マスター」
その腕を捕まえ、引き寄せたのも、零れ落ちた言葉も無意識だった。考えるより、自分の行動を理解するより早く、衝動的に抱き寄せて。
勢いのままに唇を重ねたのも、無意識だった。
柔らかい。甘い。あたたかい。
愛しい。
何も考えられずに抱きすくめた。呼気が溶け合うと、不思議と安堵が胸に満ちる。この瞬間に、不足など何もなかった。
「~~~カイトッ」
永遠のような数瞬の後、ぐいぐいとマフラーを引かれて引き剥がされた。
それでも腕に捕らえたままのひとは、顔を真っ赤に染めて肩で息をしている。僕を映す瞳が潤んで揺れて、
「――っぁ」
漸く、今更、思考が事態に追いついた。弾かれたように彼女を放し、何事か言いかけるのを遮って立ち上がる。
「ごめんなさい、俺……っ」
自分のした事を理解して、全身を熱が走り、同時に血の気が引く思いも味わった。
触れられて嬉しかった。こんな事しちゃいけなかった。ずっとこうしたかった。自制を失くして怖かった。
頭の中はぐちゃぐちゃで、何をどう言う事もできなくて。恐怖に駆られて顔を見る事もできずに、俺は其処から逃げ出した。
≪VOCALOID≫だから、マスターを慕う。
その枠を逸脱してしまったら、間違った方へ変わってしまうんだ。そうわかっていたのに、恐れていたのに。
どうして、何処で、掛け違えてしまったんだろう――。
<the 3rd mov-003:Closed / Next:the 3rd mov-004>
KAosの楽園 第3楽章-003
・ヤンデレ思考なKAITO×オリジナルマスター(♀)
・アンドロイド設定(『ロボット、機械』的な扱い・描写あり)
・ストーリー連載、ややシリアス寄り?
↓後書きっぽいもの
↓
↓
* * * * *
兄さん、軽く暴走。
相反する感情(今回だと"喜び"と"恐怖")の狭間で翻弄され、混乱する――というのを書くのが好きです。でも説明臭くならずに表現するのが難しい。伝わっていると良いのですが;
こういう展開が待っていたので、これまでカイトに「好き」という言葉を使わせるたびに迷ってました。
これは恋愛の「好き」ではないんだけど(少なくともカイトはそのつもり)、下手に「恋愛ではなく」とか説明すると却って意識してる事になるし、どう書こうか…と。
私に技量があれば、もっとスマートに何とかできたかなぁ。
*****
ブログで進捗報告してます。各話やキャラ設定なんかについても語り散らしてます
『kaitoful-bubble』→ http://kaitoful-bubble.blog.so-net.ne.jp/
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そうだった、僕は『歌うアンドロイド』だっけ。どうもそういう意識が薄いなぁ……。
* * *...KAosの楽園 第2楽章-003
藍流
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ご意見・ご感想
sunny_m
ご意見・ご感想
こんにちは、sunny_mです。
カイトに、もがぁ~!!!となりました。
なんというかもう、カイト逃げるな!と一喝したい気分です(笑)
まあ、混乱するのも分かるけど。今現在、良いも悪いも含めて暴走気味な感情を持てる相手がいない私にとっては、その状況はちょっとうらやましいんだけど!?カイトさん!!?
と言ってやりたい(笑)
とまあ、私も暴走気味ですが。
ここまで感情移入できる文章を書ける藍流さんがうらやましいです。
ところで。ひとつ前の002の中に出てくるお話、はてしない物語ですよね?
子供のころに、ダメになっていく主人公に本気で腹を立てた覚えがあります(笑)
同じ作者だとモモも好きです~。
続きが気になって、ちょっともがぁ~!となりつつ。
それでは。
2010/10/14 21:24:28
藍流
こんばんは、感想ありがとうございます!
感情移入できるとは、何とも嬉しいお言葉です(´∀`*)
今回のカイトは黒いわ逃げるわ、ちょっと情けない役回りでしたね?。まぁあのカイトは起動から数ヶ月、中身はまだまだ経験値足らずという事で許してあげてくださいw
でもそこがこのシリーズの中心でもあるので、「一喝したい」というほどの印象を抱いていただけたのは、書き手としてはやっぱり嬉しいです。
そして「はてしない物語」、ビンゴです! これを分かっていただけたのも嬉しいヽ(*´∀`)ノ
あの後半は、やっぱり子供の頃に読むと「何だこいつは!」ってなりますよね?。來果&カイトの感想は、私が昔読んだ時の感想ですw
でも大人になってから読むと、後半の方が好きになってました。エンデの物語は本当に奥深くて大好きです。
「モモ」も良いですよね! というか私、エンデ好き過ぎて全集持ってますw
もがぁ?!と続きを気にして頂けて(´∀`*)ウフフとなりつつ。
次回もよろしくお願いします!
2010/10/15 00:16:46