「はつ恋の色 -上- 」【がくリン】
秋風が、木の葉を一枚舞い上げる。黄色に染まった葉は、抜けるように青い空の手前で、くるりと縁を描いた。肘を付いた窓辺よりそれを見上げ、同様に、リンは頭のリボンを指先に絡める。既に風は、いくらか冷たい。
「リーンー、行くわよー」
姉のネルの声がし、はぁいと返す。三味線の入った袋を掴み、稽古包みを抱え階段を降り、いってまいります、と番頭と帳簿台の女将に頭を下げる。
「はい、いってらっしゃい」
玄関の引き戸を後ろ手に閉めると、もうその先にはネルとミク、レンが待っていた。リンが出てきたのを待って、四人は一緒に置屋が軒を連ねる小路へと出る。
置屋、甘栗屋には今娘が、四人いる。歌姫と名高いミクに愛嬌のあるネル、そして双子の舞姫として徐々に知られつつあるリンとレンだ。座敷に上がるときは娘の格好をしているレンも、稽古のときは袴姿を通している。四人は都合が合えば、揃って芸事の師匠の元へと稽古に通う。
からころと、下駄が鳴る。上方では稽古にも小紋を着ていくらしいが、リンはまだとても、そんな贅沢は出来ない。たくさんご指名が入って、座敷に呼ばれるようになって、そしていつかは『旦那様』に付いてもらえるようになって・・・・・・。花街の娘と云えども、それまではリンみたいな半人前は、オレンジ色の銘仙で我慢だ。
秋の陽がやさしく、四人の肩に降りそそぐ。もう通い慣れた道なのに、リンは一歩進むごとにドキドキする。柳小橋を渡って、五軒先を曲る。花街を抜け、閑静な住宅街に入ってしまえば、もうそれはすぐそこだ。
「それでさぁ。・・・・ねぇリン、聞いてる?」
黄色地に小梅柄の小紋姿のネルが、振り返る。え、とリンは目をしばたかせた。
「もう、ぼーっとしちゃって」
頬を膨らませるネルに、あまりお喋りしてるとまたお師匠さまに叱られるわよ、とミクがたしなめる。この間もネルは、師匠から「二町も前から声が聞こえた」と云われたばかりである。
リンが気もそぞろなのには、理由がある。師の家が近づくにつれ、鼓動が高鳴る。その家には―――。
「お師匠さま、お稽古に参りました」
垣根を抜けた玄関先で、ミクが大きくはないが通る声で云う。次いで参りました、と三人が声を揃えた。
「はい、いらっしゃい」
内からの声に引き戸を開けると、以前は姐妓、今は芸事の師匠であるルカがにっこりと出迎える。敷居の手前で四人は頭を下げると、ミクを先頭に順番に玄関に入った。
レンの後に続いて玄関に入ろうとしたところで、庭の植え込みの先で人影が動いたのが見え、リンは足を止める。ふと遣った視線の先に彼の人を認め、あ、とリンは息を呑んだ。
秋の庭を、木の葉が気まぐれに舞う。宙を漂う葉をいとおしむように、その人は視線を上げた。後ろでまとめた長い髪がやさしく揺れ、庭の空気を僅かにふるわせる。薄紫のお召を纏った上背は高く、物憂げな横顔は役者のように整っていた。
ふと彼が視線を動かしたので、リンは慌てて目を逸らす。頬が熱い。
庭に立っていたのはこの家の主であり、ルカの夫。そしてその人こそが、リンの想い人、神威であった。
彼を初めて見たのは、甘栗屋の座敷だった。ルカ姐の情人(いろ)が来ている、それも大層大事な用のようだ、とネル、リン、レンの三人は、見つかったら叱られるのを承知で、細く開けた襖の隙間から重なり押し合い、何とか座敷の中の様子を知ろうとしていた。何と云ってもこの花街きっての名妓、甘栗屋の留花に身請けを申し込みに来たというのだ、これを見ずして何が甘栗屋の娘か。
レンの肩を支えにして精一杯背伸びをし、ようやく覗けた隙間の向こうにいた人を目にした途端、リンははっと息を呑んだ。うすい紫の夏物の上に絽の黒紋付を羽織ったその人は、今まで見たどの役者たちよりも、いや、女よりも美しかった。
やがて女将のメイコが、それでふたりが幸せになるというのなら、と身請けの承諾を出す。目を輝かせてその一部始終をうっとりと眺めていた三人の背後から、抑えながらも鋭い声が飛んだ。
「あんたたち! どこにもいないと思ったら、そんなところで―――!」
ミクの声に、ネルがわぁっと声を上げる。あ、バカ押すな、とレンの声が重なり、その弟の肩に手を置いていたリンは勢い余って襖に手をついた。
「ちょっ、待って動かな―――きゃあ!」
どったーん、と派手な音を立てて襖が外れる。重心をなくした三人は、そのまま頭から座敷に転がり込んだ。
「・・・・これはこれは」
気まずさを笑顔で誤魔化し、恐る恐る顔を上げると額に手を当てた女将と向かい合うかたちで、神威がいた。
「元気がよろしいのは、良いことですね」
目が合った拍子に微笑まれ、リンはたちまち熱湯に放り込まれたタコのように赤くなった。
「すみません―――!」
倒れた襖の上で慌てて座り直し頭を下げた途端、膝と着いた手の下でばりっと音がした。
「・・・・・・あ」
襖に穴が、開いていた。もういいから、と女将に手を振られ、三人は慌ててガタガタと襖を立て直すと、一目散に二階へと退散した。
その後三人が女将にこっぴどく叱られ、破れた襖を張り替えさせられたことは云うまでもない。
そんな最悪な第一印象だったせいか、神威はよくリンのことを心配してくれた。
「座敷は大事無いか? 無理はよくないぞ」
否、甘栗屋の面々を心配してくれていた。しかしリンには、どちらにせよ嬉しかった。
初めての恋の相手が、他人のものだなんて笑えない。それもよりによって、姉と慕うルカの亭主である。救いようがなかった。
祝言はふたりの希望により、つつましく終わった。若いくせに古物商などを営んでおり、その上稀代の名妓を身請けできる実力もある神威は、例に洩れず訳有りの身である。そして花街で人気を博しながらも、どこかその人気を疎んじていたルカは、慣習どおりの華やかな祝言など望むはずもなかった。
「私はねぇ、“二号さん”は厭なのよ。社会的な地位なんていらないわ、私を一番に愛してくれる人でなきゃあ」
財閥の御曹司を袖にして、貴族院の議員ですらお断りの変わり姫、留花の選んだ道だった。そのうち若くなくなった頃に、後悔するに決まってるんだから、と聞こえよがしの影口も聞き流し、ルカは彼女が一番美しいときに、白無垢を纏った。そして今は花街を退き、自宅で芸事の師匠として、いもうとたちの面倒をみている。
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