第七章 戦争 パート2
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。時間の感覚は既にリンの身体から失われていた。どうやら今あたしは黄の国の王宮、自分の私室の寝台に横たわっているらしいという認識だけはあったが、一体パール湖からどのようにしてここまで帰還したのか、皆目見当がつかない。あの時パール湖湖畔で最後に許さない、と呟いた記憶は白いキャンパスの上に赤一色の絵の具で塗り固めたかの様に鮮明に残っていたが、それ以降の一切の記憶がリンから失われていたのである。今は昼間かしら。それとも夜かしら。その程度は確かめるべきであるような気がするが、その行為ですら億劫だった。そう言えば、ここのところまともな食事を食べていないような気がする。帰還途中に一度ジョセフィーヌから落馬しかけて、レンがすんでのところで抱きとめてくれたような記憶もあるが、それが夢の中の出来事だったのか、それとも現実にあったことなのかさえ良く思い出せない。
カイトが嘘をついたの?
閉じ込められた部屋の中で、リンはそう自問した。そんなこと、あるはずがない。だって、カイトはあたしに言ってくれた。婚約者だって、言ってくれた。だとしたら、もしカイトがあんなに酷い事をいうのなら、その原因は一つしか考えられない。
ミクがカイトを誑かしたに違いない。そうよ、それに違いないわ。
まるで根拠のない論理にも関わらず、その仮説はリンの心の中で風船に空気を詰めるかのように大きく膨れ上がり、そしていつしか確信へと変化していった。ならば。悪ノ原因は取り除かなければならない。あたしとカイト王の仲を裂き、ミルドガルド大陸を不当に混乱に陥れようとしたミクは討伐されて当然の存在であった。そして緑の国を滅ぼし、ミクを殺す。そうすればカイト王も目が覚めるはずだった。あの緑の髪の女の呪縛から解放されるはずだった。そうなれば、以前と同じ。何事も平穏無事にあたしとカイト王は結ばれ、ミルドガルド大陸に再び平穏な日々が訪れることになる。緑の国は黄の国が正しく導いてあげればいい。その為には、外科手術がどうしても必要だった。その為には何が必要だろう。ロックバード伯爵に黄の国の全軍を率いて緑の国に攻め込ませる。いいえ、緑の国もそれなりの国力を持っているはず。ならばメイコも同行させよう。それだけでは不安だ。何しろ相手はカイト王ですら誑かした魔性の女。ロックバード伯爵とメイコがミクの言葉に心を奪われる可能性は十分にある。ならば、絶対に裏切らない人間に一軍を率いさせる必要がある。それに適した人物は誰か。一人しか思い浮かばない。彼は丁度メイコの下で剣の訓練に励んでいたはずだ。あるいはこのような万が一の事態を見越して、早い段階から手を打っていたのかもしれない。何しろ、彼はあたしが唯一心を許せる召使なのだから。
そして、リンは立ちあがった。女官を呼びつけ、血相を変えた女官に向かってこう言い放った。
「ロックバード伯爵を呼びなさい。至急の用件よ。それから、謁見室に出ます。着替えを手伝いなさい。」
その言葉を受けて、女官が恐れおののくように一歩後退しながら頷き、狐から逃げる兎の様にリンの私室から飛び出して行った。どうしてその様な態度を取ったのか、リンには皆目見当つかなかった。何しろ、自分が怒りに満ちていることにリンは気が付いていなかったのだから。
黄の国王宮の第三層に用意されている私室で旅の疲れを癒そうと寛いでいた軍務大臣ロックバード伯爵は血相を変えて飛び込んできた女官に思わず顔をしかめた。割合古い体質の人間であるロックバード伯爵には、その女官の態度に対してはしたないという感想を抱いたのであった。だが、女官が息を切らせながらリン女王が危急の用件でお呼びになっている、と告げた途端に、ロックバード伯爵はただ事ではない、と考えた。リン女王に一体何があったのか皆目見当がつかないが、道中をまるで人形の様に生気を失ったままで行進を続けていたリン女王から突然の指令が来るとは、やはりよほどの事態が遊覧会で起こったのだろうと考えたのである。
それからロックバード伯爵は従者も呼ばずに、一人だけで手際よく正装を整えると、大理石造りの廊下が抗議の声を上げることも無視して出来うる限りの早足で第四層へと駆け上がり、そして両開きとなっている謁見室の扉を自身の手で開いた。本来の作法通りならば従者が静々と謁見室の扉を開き、そのうえで極力の威厳とリン女王に対する畏敬の念を持って謁見室中央に到達し、そして跪いてリン女王からの指令を受けるという慣習があったが、ロックバード伯爵は敢えてそれを無視した。女官の様子から、その様な作法を気にする程の余裕はないと判断した為であった。その様に良く言えば武人らしく謁見室へと踏み込んだロックバード伯爵であったが、既に玉座に腰を落としていたリン女王の姿を見て無意識に息を飲んだ。ずっと泣き腫らしていたのか、瞳は真っ赤。眼の下には大きな隈。髪も最低限整えただけという状態で、女王の威厳など微塵も感じ得ない状態だったのである。ただ、蒼い瞳だけが妙に爛々と輝いていることが嫌味なくらいにロックバード伯爵の記憶に強く残った。
「如何なさいましたか、リン女王。」
それでも主君にあることは変わりがない。ロックバード伯爵はそう考えて、作法通りに跪くと、リン女王に向かってそう訊ねた。だが、次にリン女王から飛び出した言葉はロックバード伯爵ですら予想しえない言葉であったのである。
「ロックバード伯爵、三万の兵を率いて緑の国を滅ぼしなさい。」
「今、なんと?」
女王の言葉に対して疑問を投げかけることはご法度である。しかし、それでもロックバード伯爵は疑問を提示せざるを得なかった。緑の国を滅ぼす?つい先日まで訪れていたあの緑豊かな国を滅ぼすというのか?
「何度も言わせないで。緑の国を滅ぼすの。」
とうとう気でも触れられてしまったのか。不敬罪に当たると自覚しながらも、ロックバード伯爵は思わずその様に考えた。しかし、戦には大義名分が必要である。ミルドガルド大陸にいつしか慣習法として根付いている大義名分すら無く戦場へ出るとなれば、将校は納得しても兵士達が納得しない、と考えてロックバード伯爵は額に溢れる脂汗を自覚しながらもこう答えた。
「リン女王、お言葉ごもっともではございますが、我が国に緑の国を攻める理由がございません。大義名分の無い戦は国際法により禁じられております。」
その言葉に対して、リンは予想よりも冷静な口調でこう答えた。
「大義名分ならあるわ。」
「それは一体。」
何を言い出すのか、身構えたロックバード伯爵に向かって、リン女王は淡々と語り始めた。
「ミク女王はあたしとカイト王との仲を裂き、ミルドガルド大陸に不要な混乱を巻き起こそうとしたの。あたしがこの耳で聴いたのだから間違いないわ。忘れもしない、遊覧会の最終日にミク女王はカイト王をパール湖湖畔に誘い出し、そして求愛を求めたの。可愛そうなカイト王。気付かぬうちにミク女王に誑かされてしまったのだわ。」
自身で話している内に怒りが込み上げて来たのだろう。言葉の終わりに近付くにつれてリン女王は右手を血が溢れるのではないだろうかという程度に強く握りしめ、そして唇の端を噛みしめながら、震える声でそう告げたのである。そして、実際に左唇の端から一筋、血が流れた。唇の薄皮を噛み切ってしまったらしい。こうも言われて、ロックバード伯爵は言葉を失った。カイト王がミク女王に誑かされたことが事実であるかどうかを確かめるべきだとも考えたが、果たしてリン女王自身が目撃したという事実に対して反論を述べることは不敬罪に当たるのだろうか。その様な判決はこれまでの王国裁判でも出されたことがなかったが、少なくとも今のリン女王の精神状態から考えるに容易に不敬罪だと断定されうるだろうことは簡単に予測が出来た。その事実が正しいかどうかは問題ではない。リン女王が見たということが真実なのだ、と自身を納得させるように心中に呟いたロックバード伯爵は、何かを諦めたようにこう答えた。
「畏まりました、リン女王。必ずや緑の国を打倒して参りましょう。」
ロックバード伯爵がそう告げると、リン女王は途端に安堵したかのような溜息を洩らし、そしてこう告げた。
「期待しているわ、ロックバード伯爵。それから、赤騎士団団長のメイコと、召使のレンを連れて行きなさい。」
「レン殿も、ですか?」
その言葉に、ロックバード伯爵は今一度疑問を呈した。赤騎士団団長のメイコの同行は納得できる。むしろ戦を有利に進める上でどうしても必要な人材であった。だが、レンも同行させるとは。彼は未だ戦の経験を有していないはずだと考えたのである。しかし、その言葉にリン女王は何かを確信しているようにこう告げた。
「そうよ。レンにはあたしから直接に指令を与えます。どうしても必要な作戦よ。」
「畏まりました。」
ロックバード伯爵は素直にそう頷いた。そして、腹の中で思索する。彼がもし戦に紛れて死ねば、或いはリン女王は正気に戻るかも知れない。それが正しいことなのか、ロックバード伯爵には全くもって判断出来ぬ内容ではあったけれど。その様なことをロックバード伯爵が思索しているとは露にも感じていないリン女王は、最後に急かす様にこう言った。
「すぐに進軍の準備を整えなさい、ロックバード伯爵。出立は明日。」
「承知いたしました。」
ロックバード伯爵がそう言い残して謁見室から退出した後、リンは傍に控えていた女官に向かって、レンを私室に呼ぶように、と指示を出した。
およそ三週間ぶりに厨房仕事に復帰していたレンは、リンの突然の呼び出しに対して一体何事だろう、と思考を巡らせた。おそらくパール湖の一件で話があるのだろうとは推測が付いたが、明確な対処法が今のレンに浮かんでいる訳ではない。それでもリン女王が自分を呼び出せる程度には元気が出たということは喜ぶべきことか、と考えて、レンはそれまで手洗いをしていたお皿を綺麗に拭うと厨房の端に用意されている食器棚の中に丁寧に仕舞い込んだ。
「すみません、残りのお皿をお願いします。」
近くにいた女官にそれだけを伝えると、レンはそのままの姿でリンの私室へと向かうことにした。急ぎの用件だというから、執事服に着替える必要もないだろうと考えたのである。なにより、パール湖の一件で衝撃を受けたのはレンも同様だったのである。あのミクがカイト王に求愛を求められている。それに対してミク女王がどんな返答をしたのかは分からないけれど、もし承諾をしてしまったのなら。そう考えると、何故だか胸が締め付けられる様に痛む。何かの間違いで合ってほしい。いや、カイト王の言葉が間違いではなくても、ミク女王がカイト王を拒否してくれてればいい。それなら全てが丸く収まる。ミク女王が僕に振り向いてくれる可能性は、身分の違いもあるしとても低い確率だろうけれど、少なくともリン女王とカイト王の仲はそのまま、元の位置に戻るはずだ。そのことが幼い思考であることに今のレンには気付きうる状態ではなく、結局経験値の薄さが判断ミスを生んだと気付くのはレンがもっと大人になってから、とても仲の良い、幼馴染同士だと言う男女二人に出会ってからのことになるのだった。
ともかく、すぐにリンの元に向かわなければならないと考えたレンは、半ば駆けあがるようにして玄関ロビーから螺旋状に伸びる階段を上り、第三層と第四層も出来うる限りのスピードで上り切ると、リン女王の私室の扉を叩いた。
「入って。」
奥からリン女王の声が響いた。その声が妙に震えていることに違和感を覚えたレンは、そのまま私室の扉を開き、そして普段おやつを食べる長机にある指定席に腰を落としているリン女王の姿を見て驚愕の為に目を見開いた。一体、どうしたらこんな表情が出来るのだろう。怒りと絶望と虚無を同時にブレンドしてミキサーにかければこんな表情が作り出せるのかも知れない。その姿は生まれた時からリン女王に仕えていたと述べても過言ではないレンですら見たことのない表情であったのである。
「レン、指令を与えるわ。」
レンが私室の扉を閉じたことを確認すると、リン女王は単刀直入にそう告げた。
「指令、でございますか。」
指令など、今まで一度も受けたことが無い。一体何を要求して来るのだろう、と軽く考えたレンの思考を一蹴りにして吹き飛ばすような言葉をリン女王は平然と放ったのである。それもとても冷たく、他人事のように淡々と。
「レン、ミク女王を殺して。」
理解出来なかった。リン女王が何を言っているのか、皆目理解できずにレンはただ呆然とリン女王の蒼い瞳を眺めることしか出来なかった。その蒼はしかし、いつもの様なサファイアの輝きを有してはおらず、ただ濁った冬の海の様に暗く、落ち込んでいたけれど。
「あなたも見たでしょう。パール湖での不倫。全ての原因はミク女王にあるわ。彼女を殺さない限り、あたしはカイト王と結ばれない。だから、お願い、レン。ミク女王を殺して。」
そこまで一気に言い尽くしたリンは、突然想いが溢れたように両目から涙をこぼし始めた。駄目だ、そんなことはできない。そう強く言いたかった。だけど、それがどうしても出来なかった。リン女王の泣き顔を見るのはレンもこれが初めてのことだったからだ。
どんな時でも、僕だけはリン女王の味方です。
まだ記憶が定かではない程度に幼いころに彼女にそう告げた言葉は絶対の不文律として二人の間に存在していた。だから、リン女王のどんな要望でさえも、僕は叶えてあげなければならない。たとえ、それが愛する人を殺せと言う要望であったとしても。
「承知いたしました、リン女王。ミク女王は必ず僕が仕留めます。だから、泣かないでください。リン女王が悲嘆される原因は、全て僕が排除します。」
レンは震える声でそう言った。そして、視線を床に落とす。そう言った自分自身の涙腺が崩壊寸前だと自覚したからだった。
「ありがとう、レン。うん、あたしもう泣かない。だって、レンはいつもあたしの願いを叶えてくれたもの。今回も、きっと叶えてくれるよね。」
親を頼る幼女のように、リン女王はそう言った。それに対して、レンは小さく、はい、とだけ答える。ミク女王を殺す。殺したくない。もし出来うるならばこの後の人生をミク女王と一緒に過ごしたい。それでも、それでも。
僕はリン女王の召使なんだ。
ハルジオン25 【小説版 悪ノ娘・白ノ娘】
みのり「第二十五弾です。」
満「前作よりも内容が濃い分きついな。」
みのり「そうだね。」
満「そしてさりげなくネタばれがある。」
みのり「ああ、あの一文ね。」
満「ま、楽しみは取っておくべきというからな。」
みのり「そうだね。で、実は新事実発覚。」
満「そう。ジョセフィーヌについて。」
みのり「偶然ググったら、こんな人が出てきました。ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ。」
満「彼女は馬じゃないぞ。人間だ。実はナポレオンの妻に当たる。」
みのり「結構浮気が激しい人だったみたいね。」
満「悪ノP様はどれだけネタを仕込んでいるんだろう。改めて尊敬しました。」
みのり「レイジさん以外には敬語なのね、満って。」
満「当然だ。ついでに、大義名分論についても説明しておくか。」
みのり「そうだね。どんな理論なの?」
満「中世後期になって、欧州で戦争が多発した時に少しでも戦争を無くそうとして発達した考え方だ。戦争は正義の戦争(正戦)以外に認められず、その戦争を起こす為には大義名分が必要だという考え方だな。」
みのり「それって効果あったの?」
満「正直に言うと無い。結局大義名分もただの戦争を行う為の言い訳になってしまったからな。」
みのり「そうなんだ。戦争を無くすって難しいのかな?」
満「レイジは難しいと考えているけれど、それでも理想はあるからな。せめてこの小説の中だけでも戦争の無い世界を表現出来ればいいけれど。」
みのり「そうだね。さて、では次回。混迷を深めるミルドガルド大陸の動向にご注目ください。それでは!」
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キャラメル・キャンディ・チョコレート
お洒落でカワイイティータイムは なんか疲れちゃいそうだし
アゲアゲで行こうよ(アゲアゲ!)
コツは楽しんで楽し...ポッピンキャンディ☆フィーバー! 歌詞
キノシタ
「彼らに勝てるはずがない」
そのカジノには、双子の天才ギャンブラーがいた。
彼らは、絶対に負けることがない。
だから、彼らは天才と言われていた。
そして、天才の彼らとの勝負で賭けるモノ。
それはお金ではない。
彼らとの勝負で賭けるのは、『自分の大事なモノ全て』。
だから、負けたらもうおしまい。
それ...イカサマ⇔カジノ【自己解釈】
ゆるりー
おはよう!モーニン!
全ての星が輝く夜が始まった!
ここは入り口 独りが集まる遊園地
朝まで遊ぼう ここでは皆が友達さ
さあ行こう! ネバーランドが終わるまで
案内人のオモチャの兵隊 トテチテ歩けば
音楽隊 灯りの上で奏でる星とオーロラのミュージック
大人も子供も皆が楽しめる
ほら、おばあさんもジェ...☆ ネバーランドが終わるまで
那薇
インビジブル BPM=192
とんでもない現象 どうやら透明人間になりました
万々歳は飲み込んで
ああでもないこうでもない原因推測をぶちまけて
一つ覚えで悪かったね
まあしょうがない しょうがない 防衛本能はシタタカに
煙たい倫理は置いといて
あんなこと そんなこと煩悩妄執もハツラツと
聞きた...インビジブル_歌詞
kemu
何を言ったというの
言葉一つにできない心
何を考えてたの
誰も知らないあの歌のこと
誰の声
ずっと前
一ミリでもいい
背伸びしてよ
目を瞑ってきこえた歌は
ララバイ ララバイ ラララララ...[歌詞]目を瞑って
ひっせん
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