17.王女と女王
木を植える祭りの興奮も冷め遣らぬまま、海辺の町には再び夜が来た。
夕方に降った雨のおかげで、今夜はしっとりとした空気が世界を満たしている。一番大きな行事の『木を植える祭』が終わって、下町は今頃、お祭り騒ぎだろうなとリンは想像した。
本日の晩餐会は、少し海から離れた会場だ。潮の香りが少し薄くなる代わりに、濃い森の静けさがあたりを満たしている。
森の中に浮かび上がる、貴賓たちの招待用の大理石の建物は、明かりにぼんやりと照らされて、まるで大きなかがり火のようである。
昼間に大きく盛り上がったせいか、本日の晩餐会は、落ち着いた雰囲気で進行していった。この会が終われば、各国の代表は、それぞれに青の国を視察してまわり、帰途につくのである。この晩餐会が、実質的な締めとなる会なのであった。
「リン様」
会場を少し離れ、それは広場というべきかもしれない石造りのテラスで休憩していたリンに声をかけてきたのはミクだった。
森に輪郭を囲まれた星と雲の下で、二人の少女が向かい合う。
「今日は私、驚いてしまったわ。あなたが、あんなこと考えていたなんて素晴らしいと思いました。さすが、人の心をよく掴むわね」
リンの頬が桜色に染まる。
「ありがとうございます!でも、なんだか子供っぽかったかしらと、後から恥ずかしくなってしまいました」
リンの相好がはた目にもわかるほどに崩れる。
「わたくしも、早くミクさまのような、素敵な演説が出来るようになりたいです」
にこっと照れながら微笑むリンに、ミクも口の端を上げて微笑を向けた。
「そう。……その必要はないと思いますよ。リン様は、そのままで十分、大勢の人びとの気持ちを掴むことがおできになります。
私が言葉を使うのも、大勢の人の心を掴みたいがため。目的さえ果たすことが出来れば、言葉は手段に過ぎないのです」
ミクの目に、ほんの一瞬だけ曇りがよぎった。
「ミクさま……?」
しかし、リンにはその正体は分からない。
「ミクさま、わたくしは」
「リン様」
ミクが、顔を上げた。リンの瞳を真正面から臨んだ。
「私も、カイト様をお慕い申し上げております」
雲が風に裂かれ、南国の星明りが隙間から射す。ミクのドレスのグラスビーズが、かそけき光にちらちらときらめいた。
リンが笑う。
「わたくしも青の国が好きです! カイトさまは素敵な方ですよね! ミクさまとあたしとカイトさまの3つの国が、これからも協力できたら素敵だなあと」
「リン様。告白は先を越されてしまったけれども、私はカイト様を手に入れたいの」
かぶせるように発言したミクに、リンの口が、笑みのままで固まった。
「リン様。私はね、カイト様の心と体と、そこについてくるすべてのものを手に入れたいのよ」
ミクが、にこりと笑ってリンの手を取った。
「祝福してくださる?リンさま。私とカイトさまの未来を」
急に、虫の声が大きく聞こえ出した。リンは、かみ合わなくなったままゆがんでいく会話を、どうすることも出来ずにいた。
ミクは深い緑の瞳が夜の輝きでリンの視線を縫いとめる。その迫力に、リンの喉は渇いて舌は口蓋に張り付いていく。
「ミクさま、あの、わたし、カイトさまに告白なんて、そんなつもりじゃ……」
「大丈夫、リン様。私はあなたのことを愛しているわ。……かしこく可愛らしい王女様。同じ大陸のお隣同士ですもの、リン様との友情は、変わりませんわ。
たとえ、青の国の王を夫に持とうとも」
ミクは、この上なく慈悲深い微笑みを向けた。黄の国の王女、リンに向かって。
「リン様。どうかご理解いただけませんか?私の緑の国は小さい。急斜面が海へなだれ落ちる地形でございます。つまり、国民を養うには、作物が必要なのです。
それゆえ、豊かで大きな青の国と仲を繋いでおかなくてはなりません」
「でも!黄の国も、穀物は豊かに採れます! 油の木の実や、果物も!」
「ええ。お隣ですもの、存じております。……でも、青の国は、素敵ですよね。リン様自身が昼間おっしゃったように」
リンは絶句した。ミクは、何を考えている?
「……だけど! ミクさまはわたくしと違って、緑の国で、ご立派な女王として活躍されていらっしゃるのに、海の向こうの遠いカイトさまと婚姻を結ぶなど」
と、にこり、とミクが笑った。あ、とリンは気づいた。
「ミク様、女王をおやめになるのですか……?」
そうなのだ。緑の国の王は、世襲制ではない。力のある、認められた者が国の顔として王となるのだ。
「しかるべき時が来れば」
ミクがはっきりとうなずき、リンは平衡を失いかける。
ミクがやめた後は次の優秀な王が立つ。緑の国には自分達の王を育てる独自の制度が整っており、王になるべき優秀な人材はつねに育っている。黄の国の、王の一族が、能力に関わらず代々政治の頂点を継いで行く王政とは違うのだ。
「そう。私は緑の女王です。緑の役に立つこと、それが私の仕事、そして生きる価値です」
リンの体は、すでに感覚を失っていた。今は昼なのか、夜なのか。目の前のミクは、優しいのか、それとも……?
「もし、リン様が私の立場でしたら、当然そう考えるでしょう?」
リンは追い詰められていく。
たしかに、王女リンが願うのは、黄の国の発展だ。初めは、国のためには見知らぬ男であるカイトとの結婚も余儀なしと思い込もうとしていた。黄の国の諸侯らはリンにそれを望んでおり、誰よりも強固な絆を青と結ぶことが、リンが守るべき黄の人々のためになるとリン自身も信じようとしていた。そんなリンであるが、実際に青の皇子に会い、人柄に触れるとともに、無理やり縁を繋いでしまおうという意思は消えていったのだ。
今はただ、隣国のミクと仲良くしていろいろ教えてもらい、カイトの国の良いところを吸収する。そうして黄の国をもっとよくしていこうと思っていた。先ほどまで、カイト皇子やミク女王に会ったらその話をしようと心を高鳴らせていたのだ。
なのに。
自身よりも聡明なはずのミクが、何をいっているのだろう?
リンの思考は、完全に停止していた。
ミクは言葉を続ける。
「……わかるわ。リン様。カイト様は、素晴らしいお方。私でなくても、隣に添いたいと思うだろうと」
ミクが、くるりとリンに背を向けた。
「ですけれども、私は小国の女王。貴女は大国の王女。背負う物も立場も違うわ。
支えてくれる諸侯も後ろ盾も何もない私の生きる道を、……めぐまれた貴女には、祝福していただきたいわ」
わたくしが、恵まれた?
強烈な違和感に、リンの心がはじかれたように叫んだ。
「ミクさま!待って!わたくしは!」
「カイト様」
ミクが、こちらへやってくるカイトに気づいて声を発した。
青の皇子、カイトがのんきな笑みを浮かべて、リンとミクの元へやってきた。
「リン様。昼間は、本当に驚きました」
「カイトさま、」
リンはすがるような気持ちでカイトの次の言葉を待つ。カイトはまっすぐにリンに笑みを向けて微笑む。まぶしい笑顔は、何よりも今のリンの味方のように思えた。
「リン様。本日は本当にありがとうございました。青の国と黄の国は、大国同士でさまざまな過去があるために、本当は、僕は不安だったのです。これからの関係について」
「カイトさま、こちらこそ!」
リンは急いで返事を返す。ミクがじっと会話を見つめている。そうだ、ミクさまは少々疲れているのだ。異国に来て、レンも体調を崩したではないか。百戦錬磨のミクさまも、遠く離れた土地に来て疲れており、少々、親しいリンに向かって意地悪を言っているだけなのだとリンは必死に考えようとした。
「黄の国の王女様が、本日青の国に対して向けてくれた親愛を、私も国の者も、これからどんなに歴史を重ねても忘れることはないでしょう。青と黄の国、過去にはいろいろありましたが、私とリン様なら新しい時代を築いてゆけると思います」
リンは、ひたすらにうなずく。
「カイトさま。わたくしも……わたくしも、貴方の心使いを嬉しく思います」
「ありがとうございます。リン王女様」
王女様。
お飾りの娘。カイトとは違う、本当のお飾りの女。何度も何度も、悪い意味で使われたその言葉にリンが竦んだ。
カイトがそのまま言葉を繋げた。
「では、リン様。遠く離れ、性格も違う国ではありますが、どうかこれからも、宜しくお願いいたします」
「こちらこそ。どうぞ、お願いいたします!」
ほっとしたリンに笑顔が戻る。大丈夫だ。ミクがその気でも、カイトはまだ結婚など考えていないらしい。
「丘の上でリン様がおっしゃったとおり、僕らが協力して、良い世界を築きたいですね」
カイトが、なんと、ミクに手を差し出した。
「ええ」
ミクが、カイトの手を取った。
「青の国は、気候にはめぐまれている。しかし、僕も国民もみんなのんびりなおかげか、大分技術面では、そちらの大陸には劣ってしまっている」
カイトが、ミクに向き合った。
「青の国にないものが、そちらの大陸にはある。うらやましいかぎりです」
カイトに手をとられ、ミクがすっと目を細める。
「私は、リン様も、カイト様も、うらやましゅうございます。広大な土地に、あふれる実りは、緑の国のうらやむものです」
もしかして。
リンの背筋に、ひとすじ、冷や汗がすべりおちた。
あたしは、間違った? 青の国民に好かれようと同調するのではなく、カイトやミクに目を向けて欲しいのならば、かれらの持たぬ物を自分が持つと、見せ付けるべきだった?
「リンさま。昼間は本当に感心いたしました」
「リン王女様。青の国の民にすっかり人気です。僕もがんばらないと」
ミクとカイトが笑いあう。嫌な予感がした。
やめて。ちがうの、やめて。あたしがほしいのは、そういう答えではなくて、
もし、カイトさまとミクさまが結婚したら、黄の国はその仲に加わることは出来ない。
黄も、青も、小麦と葡萄を生産し、ライバルであり、隙あれば互いの市場を食おうとしているのに。本当に必要なのは、黄にとっても、青にとっても、緑の国の持つ、加工と工芸の技。どちらも、相手よりもよりよく融通してほしいと思っている。緑の国がほしい。緑の国の技が欲しい。……相手より早く。
もしかして、初めから、無理だったのか?三つの国で仲良くなどと、無理だったのか?
「カイトさま、あの」
「カイト様。私と、次の曲を踊ってくださいますか?」
欠け始めた月が、やがて地平へと傾き始める。
「ええ、よろこんで」
遠くから聞こえる音楽に乗せて、カイトはミクの手を取った。
待って。
待って。ミクさま。待って。
手を伸ばしかけたリンの手を、ミクの黒のドレスの裾がすり抜けた。
「あ……」
音楽はかすかだが、まるで二人はすぐ側で楽隊が演奏しているかのように、ぴたりと息を合わせて踊り始めた。
くるくると、ミクのドレスが動く。熱帯の夜空の湿気を含んで、暗い色に星のようなビーズがきらめく。対してカイトは鮮やかな白地に海の青の飾り線。
まるで昼と夜のように、二人は合わさってくるくると回る。
「あの、カイトさま……ミクさま」
リンは、ただ、呆然と、動けぬ太陽のようにそこに立ち尽くして、二人の舞を凝視していた。リンは小さな黄色の太陽のように、夜の闇に押しつぶされ、頼りなく風に吹かれていた。そして、小さな太陽を見るものはいない。
見向きもされない太陽。光っても照らしても、誰も省みることのない王女。
飾られるけれども、見てはもらえぬ虚しい飾り。
「わたくし、お飾りなのね。……黄の国だけでなく、憧れのミクさまとカイトさまにとっても、わたくしは、価値のない飾りであるのね……?」
二人は談笑しながら部屋に戻っていく。
何かひとこと、ふたことリンに声をかけたかもしれなかったが、リンには届かなかった。聞いていなかった。否、聞こえていなかったのだ。
「ミク、さま。カイト、さま……? ミク、さま……」
華やかな明り、音楽、談笑する国を担う人々が、まるで一枚の絵のように、リンの目の前にあった。絵の世界には、入ることはできない。ミクとカイトは、そこへ、入っていってしまった。
「そう……」
リンの目から、しずかに涙が流れ始めた。
彼女は声も嗚咽も無く、ただただ、ふたりが消えていった光の部屋をみつめ、湿った風の吹く暗い夜の中で、ただひとり立ち尽くしていた。
涙の最後の一滴が喉を伝ってしばらくした後、リンは歩き出した。ここ8年間そうしてきたように、力強く、落ち着いた足取りで。
「メイコ。ガク。明日の予定もあるわ。今宵はお暇いたしましょう」
しかし、海の輝きと喩えられたその瞳は、雲を引いたように光を失っていた。光を失った瞳が、視界のすべてをなめつくすように映した。
つづく。
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