薄暗い廊下に、小さく足音が反響する。もう長いこと手入れもされていない絨毯が、その音を中途半端に吸い取った。
 辺りを見回しながらゆっくりと足を運んでいた彼女は、ふと足を止めて壁に近づいた。日に焼け、黒ずんだ壁に、うっすらと亀裂のようなものがはしっていた。
 小さくため息をついて、壁の汚れを手にしていた手巾で拭う。布越しに触れたざらついた感触に、彼女はひとり眉を寄せた。
「……この辺りも、もうそろそろ駄目かしらね」
 ぽつりと呟いて、彼女は再び歩き出した。立ち止まる前より心持速く歩を進める。今だけは、頭を空にしておきたかった。

 自室へ戻ると、机の上に置いた覚えのない、しかし見覚えのある封筒が乗っていた。瞬間的に頭に血が上って、その勢いのまま封筒を丸めて放る。薄っぺらい封筒は、ごみ箱にさえ入れられることなく部屋の隅へと転がっていった。
 倒れこむように肘掛け椅子に座る。意識して呼吸を深くしても、先ほどの封筒の所為で頭から両親の顔が離れなかった。

 未だ戦火の及ばぬここから、彼女の父は前置きもなく姿を消した。誰にも何も告げることなく去った彼が戦地へと召集されていったのだと、彼の部屋に残された封書から知った。
 それでも、戦争が終わればまた帰ってくるのだと一縷の望みを抱いていた。彼女も、彼女の弟、母さえもがそう思っていた。
 帰ってきたのは、父の自筆の遺書だけだった。戦争は、終わらない。
 その後間もなくして、父の後を追うように母も急逝し、姉弟ふたりだけが遺された。それが、2年前のこと。姉は19、弟は16だった。
 ふたりで遺され、ふたりで生きていければいいと諦めた。諦めるしかなかった。
 けれどそれさえも危ういと、彼も彼女も知っていた。

 彼女が始めてそれを見たのは、家のことをすべて仕切っていた母が亡くなる少し前のことだった。見慣れた封筒を運んでくる、どこか異様な雰囲気を纏った人々。その封筒に書かれた、彼女の弟の名前。普段の優しい顔からは想像もつかないような鬼気迫る表情で、その封筒を火にくべる母。
 数日後、母に伴われて、彼女はこの辺り一帯の権力者一族の屋敷へ赴いた。そこで母は、その屋敷の主にきっぱりと言い放った。
「わたくしたち母娘のいる限り、家のものは戦になどやりません」
 反論する隙も与えず、唯一持参してきた鞄から、小さな箱を取り出す。彼女も見たことのあるその箱の中には、母が父から贈られた貴金属類が入っているはずだった。
「その代わり、相応の物は差し上げましょう。不服がおありならば、わたくしたちは今すぐここを離れますが」
 いかがですか、と問う母の目は、奥底まで冷め切っていた。目の前の相手に選択権がないのは明らかだった。母の資産と、今は亡き父の技術。代々受け継がれてきたそれらが、彼を今も支える糧であることは決して揺らがない。切り捨てることは、そのまま破滅と零落を意味していた。

 そうやって母が守った家族を、母亡き後彼女もまた守り続けていた。たったひとりだけ残された肉親。彼女の大切な弟。
 けれど、そんな母娘の行動が周囲に理解されることはなかった。かつては人望篤い資産家だった彼らを、使用人は次々と見限り、自ら職を辞した。隣人も最早力になってくれようとはせず、彼らは次第に見捨てられていった。
 邸は、彼女が懸命に維持しようとしても荒れてゆき、今ではふたりの居住範囲外は廃屋同然となった。それでも、残された資産はまだ豊富にあり、姉弟ふたりで暮らしてゆくぶんには、当分困ることはない。それでも、と万が一のために倹約し、浮いた資産は彼の徴兵免除のために惜しげもなく使った。
 ふたりで生活していくための犠牲ならば、それだって決して高すぎやしなかったのだ。

「……やっぱり、一度補修をしないといけないわ」
 脳裏にちらつく過去を追いやろうとするように、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。家の中の有様は思ったよりひどい。ついでとばかりに外を見に行って作ってしまったかぎ裂きに指を這わせ、思いため息をもらした。
 手近にあった繕い物の続きをしながら、これからどうするべきかの算段を練り始める。やっと消えた過去の影の代わりに、今度は現在の状況が彼女の頭を悩ませ始めた。

 それから長くはない時間が経った頃、彼女は控えめなノックの音で我に返った。慌てて返事をすると、ドアを開けて部屋に入ってきたのは、静かな面持ちをした彼女の弟だった。
「どうしたの、こんな時間に」
「……姉さん、今時間いいかな」
 おずおずとそう切り出した彼に軽く頷き、無言で話を続けるように促す。それでも一瞬だけ躊躇ってから、彼女に問いかけた。
「封筒の中身、見た?」
「見てない」
 つい強い口調で返して、彼女はふいとそっぽを向いた。それを見て、彼は安堵でもしたかのように息をつき、彼女にそっと一枚の紙を見せた。
「それ……!」
 彼女はそれきり絶句し、信じられないとでも言いたげにその紙を凝視した。彼がちょっと目を伏せる。
「ごめん、先読んで中身抜いといた」
「貸しなさい」
「嫌だ」
 命令でもしているような強い口調で言った彼女に、彼も即座に言葉を返す。それから一呼吸だけ間をおいて、彼は再び口を開いた。
「俺、行こうと思ってる」
「駄目よ!」
 悲鳴のような彼女の声。それにもただ、彼は沈黙を返しただけだった。
「そんなことしないで!まだうちには余裕があるわ、行く必要なんて何処にもないの。さあ、その紙を寄越しなさい、今すぐよ。破って、火にくべてしまいましょう」
「姉さん」
 何処までも静かな、しかし力強い一言が、彼女の言葉を遮った。
「確かに、今うちには余裕がある。……余裕がないのは姉さんだ」
「何、言って――」
 否定しようとするも、彼女自身言葉が上滑りしていることに気付き、声が途切れる。それに追い討ちをかけるように、彼は小さく言った。
「知ってる。全部――ごめん」
 最後に付け加えられた謝罪は、彼女の耳には届かなかった。
 知られていた。すべて――家のことも、あの人たちのことも。見捨てるだけでは飽き足らず、自分たちを、この家までをも貶めようとしたあの人たちのことも。
 どうして、知られてしまったのだろう。うまく隠せていたはずだった。ふとしたときに向けられる言葉も、いつの間にか増えている家の傷も、ひそひそと交わされる根も葉もない噂も、――それらを私が黙っていたことも。
「……どうして……」
 ぽろりと零れた問いには答えることなく、彼が口を開く。
「あんな、嘘っぱちの、悪意だらけの言葉で姉さんが貶められるなんて、もう嫌だ。我慢できない。今しかないんだ。今しか」
「やめて!」
 どこか思いつめたような言葉を、彼女が必死に上げた声が遮る。
「貴方が気にすることじゃないわ!あんなの、身内を奪われて殺された人たちが僻んでるだけよ、自分達の身内からしか死者を出さないのが怖いんだわ!――ねえ、だからお願い。行かないで――私、嫌よ。貴方まで、父と母に続いて貴方まで失うなんて、絶対にいや。お願い――行かないで。行かないって言って」
 そう言う声は震え、語尾は今にも消えそうに濡れていた。そんな彼女に、彼はきっぱりと言った。
「確かに、戦に行ったら死ぬかもしれない。殺されるだけかもしれない。……でもこのままじゃ、俺より先に姉さんがあいつらに殺される。――だから、行くよ」
 告げるなり、彼女の返事を待つことなく彼は踵を返して部屋を去った。
 引きとめようとした言葉を舌先で凍りつかせたまま、彼女はひとり呆然とその場に残された。

 その夜は新月だった。僅かな星影の下、邸から一人分の影が滑り出て、門扉へと向かった。
 と、唐突にその足が止まる。
 どこからともなく、バイオリンの音色が聞こえてきていた。人影は、その音色に耳を傾けでもしているかのように、しばらくの間そこに佇んでいた。バイオリンが一際高い音を奏でる。やがてその人影は門を抜けて敷地の外へと出て行った。
 その姿が完全に闇に紛れてもなお、バイオリンの音色は朔の夜空の下で響き続けていた。

 どこまでも静かな夜に響く、微かな靴音。やはり何も言わずに去るつもりなのだと彼女が察するのには、それで十分だった。
 用意していたバイオリンを構え、ゆっくりと奏でる。長い間使われていなかったにしては、保存状態は極めて良好だった。澄んだ音色は、彼女の記憶の中のそれと寸分違わない。
 唯一の贅沢だったバイオリン。手放せば、他のものとは桁違いのお金になると知りつつも、決してそうしなかった。それはきっと、このバイオリンこそが、父と母を亡くす前の家族の象徴のようなものだったからだ。
 そう、だから願おう。この音色が、いつかかつての自分たちを取り戻させてくれることを。再び、自分たちを引き合わせてくれることを。
 そして、思う。――どうか無事で。
 待っている。信じている。このバイオリンの音色とともに、ここで、再び相見える日を。
 いつまでも――。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

籠の音色

こんにちは、あるいははじめまして。cettiaです。
「籠の音色」、楽しんでいただけたら幸いです。

この小説は、りちか様の「君、死にたもうことなかれ」というイラストを拝見して浮かんだアイデアで書かせていただきました。
ただし、これは原作者様の意向に沿って書かせていただいたものではないことを、ご承知おきください。解釈等も勿論違うと思います。

内容としては、書きたかったのは「弟の無事を祈ってバイオリンを弾く姉」だったのですが、色々と脱線しました←
途中時系列が前後したのと、場面が細切れになったのが読みにくかったかなあと。最大の反省ポイントです…。それと長さですね。これでも短くしたはず←

あくまで二次創作的な扱いになると思いますので、人格崩壊などはご容赦ください。

最後になりましたが、読んでくださった皆様と、この小説の公開を快諾してくださったりちか様に、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

ご意見・ご感想等お寄せいただければ嬉しいです。

りちか様の素敵なイラストはこちらhttp://piapro.jp/t/kjD6

もっと見る

閲覧数:387

投稿日:2012/04/02 18:27:43

文字数:3,720文字

カテゴリ:小説

オススメ作品

クリップボードにコピーしました