山には、昨夜の内に雪が降った。
赤茶色に枯れた晩秋の景色を晒していた山々も、今朝にはもうあたり一面、銀雪に覆い尽くされていた。
かつては紅葉に彩られていた木々も、代わりに幾つものつららを枝に垂らし、その下を流れる谷川の水も、身を切るほどの冷気をはらんで飛沫を輝かせていた。
空には厚く暗い灰色の雲が立ち込め、陽光を遮られた薄暗い空の下、しんしんと粉雪を舞わせている。
その舞う粉雪の中を、一人の侍が、谷川に沿って歩いていた。
それは楽歩だった。
陣羽織に、手甲、脚絆を付け、傘を被った旅装束。
しかしその手甲と脚絆には鉄板が仕込まれ、羽織の下には鎖帷子を着込んでいる。
袖の内側には大量の棒手裏剣も収めていた。
それは戦装束だった。
楽歩は、自らの死出の道を歩いていた。
その楽歩の心に、庵に置いてきた凛の姿が過ぎった。
昨晩、楽歩に心も身体も差しだした少女は、その楽歩自身の術によって、今もまだ二人の残り香が立ち込める夜具に包まれて、眠っているはずだった。
術が解け、凛が目覚めるころにはもう、楽歩の命は燃え尽きているだろう。
(許せ、凛…)
楽歩は、吹き付ける粉雪に顔を伏せながら、心の中で詫びた。
大切に思えば思うこそ、凛を死なせたくなかった。
あの少女には生きていて欲しいと、強く願った。
ならば、復讐など捨てて、凛と末永く暮らせば良かったではないか。と、己の心が己に叫ぶ。
今からでもこの道を引き返し、あの少女を抱きしめて来いと、もう一人の楽歩が叫んでいた。
だが、駄目だ。と別の心がそれを否定した。
理不尽にも滅ぼされた我が一族、それに殉じたかつての妻、何よりもその妻を見殺しにしてまで果たすと誓ったこの復讐を、今さら捨てることなど出来ようか。
いや、出来ぬ。
侍として、忍びとして、それは不可能だった。
凛とのことは、一夜の夢だったのだ。楽歩はそう思った。
この復讐の旅の中で見ていた、夢の中での出来事。
い…ろ…は……
ふと、楽歩は凛の声を聴いた様な気がした。
夜、文字の練習をしながらいつも口ずさんでいた、あのいろは唄……
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔いもせず
いずれ散ってしまう美しき花よ、
此の世には不変の者などありはしないのだ。
私は今、この山々のように険しい現世を超えて行こう。
お前との浅き夢にも似たあの思い出に、酔ってしまわぬうちに……
「楽歩!」
「!?」
今度はハッキリと聞こえたその声に、楽歩は思わず足を停めた。
「凛っ!?」
振り返った視線の先に、凛が居た。
雪の中を走ってきたのか、藍鼠の生地に散らされた椿紋様の小袖は、乱れ、剥き出しの肩、胸元は開かれ、薄い胸に桜色の蕾がかすかに覗いている。
朱鷺色と白のいち松のくっきりとした伊達巻が乳の下をくびれるばかりに巻き付き、それで消えそうなその弱腰に、裾模様が軽くなびいて、爪先に友禅がほんのりとかかっている。
その脚先は裸足で、その白い素足の先が雪の冷たさに赤く滲んでいる。
裳裾はわずかにはだけ、浅黄の長襦袢の裏と、そこからこぼれるほっそりとした両太ももは、夜明けの雪よりもなお白い。
そして、ひたむきに楽歩を見つめる、その翡翠の瞳。
「凛」
その目に見つめられ、楽歩は思わず両腕を広げ、少女の元へと足を踏み出した。
「楽歩」
少女が駆け寄り、その腕の中へ飛び込んでくる。
楽歩は、その艶やかな華の様な少女の身体を、しっかりと胸に抱きしめた。
楽歩の胸を、鋭い痛みが貫いた。
一瞬、それが何の痛みか理解できずに呆然となった。
その間に、少女が楽歩から身を離していく。
楽歩の胸に、鋭い棒手裏剣が、鎖帷子さえも貫いて深々と突き刺さっていた。
その胸に赤い染みが拡がっていく。
「り…凛…」
胸の痛みと共に、全身に痺れが拡がっていく。
毒だ。
楽歩は気づいた。
毒をぬった棒手裏剣を打ち込まれた。
楽歩は雪の積もった地面に倒れ込んだ。倒れこんだ拍子に編み笠が外れ、雪交じりの風に乗って、どこかへと飛び去っていく。
うつ伏せに倒れた楽歩の身体から流れ出した血が、地面の雪と混じり合い、紫の色に染め上げていった。
(凛……)
意のままに動かない首を何とか動かし、自分を刺した少女を見上げた。
楽歩を見下ろす翡翠の目が、残忍な光を湛えて喜悦を浮かべていた。
それは、忍びの目だった。
「裏切り者、神威 楽歩。討ちとったり」
その口から発せられたのは、凛の声では無かった。
まだ声変わり前で少し高い、少年の声。
(そうか……こやつ……)
暗くなっていく視界の中で、凛に化けた少年の声が響いた。
「姉さんをさらった男め、思い知ったか。これでリンは自由だ。やったぞ、僕はついにリンを救ったんだ―――」
少年の悦びの歓声に、不思議と楽歩も嬉しくなった。
凛、凛、良かったな。
レンは、生きていたぞ――
粉雪が吹きすさぶ中、凛は裸足のまま庵を飛び出し、楽歩の後を追いかけていた。
昨夜、楽歩が最後に自分に術をかけようとしたことに、凛は気付いていた。
(私を眠らせる気だっ…!?)
眠らせ、そして一人で出て行くつもりだ、と凛は悟った。
だから、咄嗟に自己催眠をかけて自ら浅い眠りに落ちたのだ。
楽歩が庵を出たら、その気配ですぐにでも飛び起きるつもりでいた。
だが、師である楽歩の術は思った以上に強力だったようだ。
凛は楽歩が想像していたよりも早く目覚めたものの、その時すでに楽歩は居なかった。
(楽歩…私を置いていかないで……)
粉雪は時が経つに従いどんどん強くなり、視界を白く染めて行く。
初めはハッキリと残っていた楽歩の足跡も、いつしか新雪に埋もれ消えてしまった。
雪に視界も足跡も見失い、いまや傍を流れる谷川の冷たい響きだけが、凛の耳に聴こえるのみだった。
「楽歩……楽歩ぉ…」
呟いた愛しき男の名に応えるように、何処か遠くで、かすかに、
「…りん…」
と呼ぶ声が聞こえた。
「楽歩っ!?」
その声だけを頼りに雪の中を走る。
そして、辿りついたそこには――
――雪を血に染めて冷たく横たわった愛しき男と、その傍らに立つ自分の姿があった。
「リン…? リンだよね!?」
自分と同じ翡翠の目が、自分を見つめ、自分と同じ顔が自分の名前を呼ぶ。
「僕だよ、姉さん。弟のレンだよ!」
「レン…? そんな、死んだんじゃ……」
「うん、いちど病で死にかけて、山に捨てられたよ。でもお頭に拾われて助かったんだ」
お頭、それは那須衆の頭領のことだった。
偶然拾われ一命を取り留めたレンは、そのまま忍法の才を認められ、忍びとなっていたのだ。
そして、那須衆の忍びとして裏切り者の楽歩を追ううちに、その手元に生き別れの姉がいることを知った。
そのいきさつを、レンは興奮気味に凛に話して聞かせた。
凛は、レンの話を聞きながら、その身を震わせ、両の手で顔を覆った。
「レン……レン……」
両手で覆った顔から、嗚咽交じりの声と、涙の粒がこぼれ落ちた。
「リン…助けに来たよ……」
レンは、むせび泣く姉の肩をそっと抱き寄せた。
「レン……ごめん…なさい…」
「謝るのは俺の方だよ、リン、遅くなってごめんな」
「……レン…」
凛が顔から手を離し、弟の顔を見上げた。
幼い時からずっと探していた弟だった。
とうに死んだものと、諦めていた弟だった。
「ごめんね…レン…」
凛の翡翠の目が怪しい輝きを放ち、レンの意識を吸い込んだ。
次の瞬間、レンは凛を抱えたまま、高々と宙を舞っていた。
天と地が逆転し、雪の大地と暗い空が視界を回り続ける。
粉雪舞う銀世界に、鮮やかな色彩の渦が舞いあがった。
二人の美しき姉妹は、固く抱き合ったまま、傍を流れる谷川の急流の中へ、激しい水飛沫を上げて飛び込んで行った。
水面に小袖の艶やかな色彩が花の様に拡がった。
それはまるで、水面に咲いた大輪の椿の花のようであった。
その花は急流に乗って下って行きながら、音も無く暗い水底に沈んで行き、そして、二度と浮かび上がることは無かった。
――了――
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