リンの頬の輪郭が、ようやくまともになってきた頃、養母は眠ったきりのリンの髪を梳いて、「さぁ、綺麗になったわよ」と声をかけた。
 だけど、俺は養母がリンに関わるのを断った。たぶん、リンにとっては養父母の「迷惑」になるのは嫌だろうから。
 俺は、会社が終わってから病院に直行し、病院で寝泊まりして、姉の様子を見守ってる。
 リンが倒れてから、半年が経とうとしていた。だが、目を開ける気配が無い。いつまでも意識が戻らないのは、精神的なストレスもあるかも知れないと医者に言われた。
「リン。起きれるようになったら、一度、海に行こうぜ」
 俺は声をかけた。
「知ってるか? 『テラ』では、星の一番暑い地方の海から、お化けみたいにでかい雲の塊が出来て、陸地に大雨と暴風を起こすんだ。古代の言葉で、タイフウって呼ばれてるものだってさ」
 話の種は尽きなかった。何せ、14の頃からモモと一緒に話したり聞いたりしていた「テラ」という不思議な星の情報は、俺の頭の中にみっちり詰め込まれているんだから。
 モモと連絡を取るのも、もちろん忘れてない。あいつは今、大学院で「テラ」の研究をしている。
 以前、「テラ」の写真が撮影されてから、モモの父さんはいくつかの情報と共にそれを本物の学会で発表し、「ホームプラネット」は、都市伝説と言う不名誉な呼ばれ方を返上した。
 今や、モモの研究も、「女の子のお遊び」じゃない。モモは、「テラ」で今も生命体が繁栄していると仮説を立てて、この数億年の間にどんな進化と退化が起こっているかを突き止めようとしている。
 俺は一度聞いたきりなので暗記できなかったが、「ノバなんたらかんたら」と言う、数字の羅列で名前を付けられた遠い星に、人間の残した「移住地」の跡があることが発見されたそうだ。

 リンが涙を流すことが無くなった。看護師さんが、「しっかり眠れてるってことですよ」と、ポジティブな意見を教えてくれた。
 少しずつだけど、リンは「生きる力」を取り戻しつつある。俺も、会社と病院の往復に慣れた。その代わり、話す内容が段々なくなってきた。
 「しっかり眠ってる」リンを起こすのも忍びないので、手を握ったまま姉の寝顔を見ていることも増えた。
 よく観てみると、リンはめっぽう綺麗な顔立ちの女だ。これで男を寄せ付けなかったのは、相当、会社でも「デキる女」だったのだろうと予想された。
 仕事が出来て、人付き合いもほどほど、おまけに感情をほとんど見せない冷静な女、となったら、男にとっては付け入る隙がない。
 そこまで「バリアー」を張って、本当にこの女は「恋」だの「失恋」だのが体験できたのか? と言うのが謎だ。
 「失恋」のあまり食事が喉を通らなくなった…と言う仮説を立ててみたが、本人が起きるまでその説も空論のままだ。
 もし聞いてみても、「あんたこそ恋人の一人も居ないの?」と逆に聞かれそうだ。
 候補として、モモの名前を挙げたら…たぶん、俺はモモから縁を切られる。俺達の間柄は、「テラ」と言う宇宙のかなたに浮かんでいる星を、崇拝してる信者みたいな関係だ。
 「テラ」に触れる知識が、俺達の心をつないでる。その関係に、俺は満足しているし、モモだって俺との約束を守るために博士号まで取ったんだからな。
 俺は小声でリンに話しかけた。「おい。目が覚めたら、すごい世界になってるぞ? 時代遅れになる前に、ちゃんと起きろよ」

 1年後、リンの入院先を変えた。俺の職場に近くて、もっと最先端の医療を施せる病院に。
 リンは脳波測定を受けて、「睡眠」と「目覚めに届かない不定期な覚醒」があることが分かった。医者に指示されて、俺が姉の名前を呼ぶと、微かに意識が「覚醒」の状態になる。
 俺の声は届いてないわけじゃなかった。それを知れただけでも、この十数ヶ月は無駄じゃなかったって納得できた。
 脳波測定器をつけたまま、リンは眠っている。脳波が「睡眠」の時は、出来るだけ放っておく。でも、充分な睡眠を取らせたら、俺が率先して声をかける。
 医者から聞くに、俺が会社に行ってる間は、ほとんど「睡眠」の状態らしい。俺が病院に来る頃になると眠りが浅くなり始め、俺の声に反応して「不定期な覚醒」が起こる。
 お姉さまは、弟におしゃべりを要求しているらしい。俺も、「テラ」以外のことを話すようになった。
「たまに『家』に帰ると、母さんが魚の捌き方教えてくれるんだ。父さんが最近趣味で釣りを始めたから。『真鯛が釣れたぞ』なんて言うから期待してたら、たい焼きくらいの稚魚だったりしてさ。キャッチアンドリリースくらい心得ておけって思っちまったよ」
 喋るのに飽きると、時々俺は小唄を口ずさんだり、一人でしりとりをしたり、「起きろー。おーい。起きろー」と繰り返したり、とにかくリンの脳に刺激を与えようと試みた。
 体のほうは、すっかり健康体なんだ。後は、心の問題。リンの中にあった、「理想の娘を求める親」と言う暗示を解いて、父さんと母さんのことを重荷に感じないようにすること。

 次の年の2月。天候が「冬季」に設定されて、雨の代わりに雪が散布されるようになった。
「リン。外真っ白だぜ。いくら『季節』が必要だからって、さすがに寒くて息凍りそうだよ」と、いつも通りに話しかけると、リンの手が震えてるのが分かった。
「どうした? 寒いのか?」と、俺もいつも通りに一人でしゃべって、リンの肩にしっかりブランケットをかけなおしてやった。
 でも、震えは止まらない。ナースコールを押して、リンの手が震えてると伝えると、看護師さんが来る前に、リンが小さな声で呻いた。
「リン。どうした?」もう一度聞くと、リンの目から涙が一滴落ち、瞼が開いた。
 乾いた唇が震えるように動き、何か言おうとしている。「レ…ン…」と、リンが俺の名前を呼んだ。
「リン。分かるのか?」と、俺は囁くように聞いた。
「声…聞こえて…た」と、リンは言って、にっこり笑った。

 脳波測定器をつけるために、剃っていた髪が生えそろう頃、リンは退院した。意識を取り戻した直後は車椅子生活だったが、リンは積極的にリハビリを受け、退院するときは自分の足で歩いた。
 しかし、まだ時々ふらつくらしく、よく俺が肩を貸していた。有休を使わずに3年間頑張って通勤していた俺は、長期の休みを取ってリンのサポートをした。
 リンが、一人で身の周りのことができるようになるまで、丸1ヶ月はかかっただろうか。
 暇つぶしに見せた天体図を見て、リンが「イヌワシ座はどれ?」と聞いてきた。
 Y字になっている星座を指さして見せると、リンは顔を明るくした。その星座に重ねられたイヌワシの絵は、片足を鋭く南に向け、両翼を上に広げている。
「まるで、飛び立った瞬間みたいね」と言って、リンはイヌワシの足先を指さす。「此処に、『テラ』があるんでしょ?」
「そうだよ。今じゃ、常識だからな。しっかり覚えておけよ?」と、俺が言うと、「覚えるわよ。1年間みっちり授業を受けたもの」とリンは言う。
「聞こえてたなら、さっさと起きろ」と俺が冗談を飛ばしてリンの額をつつくと、リンは何も言い返さずに笑ってた。

 父さんと母さんについてだが、リンはなるべく二人にも「普通」に接するように努力していた。
 でも、努力が必要な状態じゃ、また神経すり減らすことになる危険性もある。
 そこで、リンは俺の所に同居する事にさせて、養父母との接点を少なくした。そのかいあってか、ある日、俺はリビングで昼寝をしたまま起きていないリンを発見した。
 あの「完璧ねーちゃん」が、よだれ垂らしてソファで眠りこけている不細工な寝顔を、俺は写メに撮ってやった。
 その暢気な顔は、もう泣いてない。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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Home Planet/第五話

序章もエピローグもない5話でしたが、
ここまでお付き合いありがとうございました。

彼等のその後はきっとハッピーエンドへ続くでしょう。

この物語はフィクションです。

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投稿日:2020/06/02 15:10:19

文字数:3,183文字

カテゴリ:小説

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