もう随分と歩いたのだろうか。
もと居た場所の跡形はすでに無く、日は殆ど西の山間に隠れ、東からは夜の闇が迫っていた。
辺りを見渡しても、この先にも後にも鬱蒼と茂る木々しかない。
私は周囲を見渡してから手頃よい巨木を見つけると、そこに向かって馬を引いた。
「さて、今日はここで野宿になるけど……ご要望はありますか? お姫様」
「……なにも。このマントが、十分暖かい寝床になるって事は昨夜実証したもの」
「おや、それは頼もしい」
馬の手綱を巨木の幹に括り付けてから、リンを地面へ降ろす。やはり、彼女の体は小さくて軽い。
そして周囲から乾いた小枝を集めて火を起こし、手荷物から少量の食物を取り出す。
流れるように野宿の支度を済ます私の動作に、リンはポカンと口を開けて見ていた。
「随分と手際が良いのね」
「慣れてるのよ」
腰布から小振りのナイフを取り出し、昨日市場で買ったばかりのオレンジを切り分けて皮を剥き、リンに手渡す。
リンはしばらく躊躇ったのちに、オレンジの実にしゃぶりついた。……が、その顔はすぐに苦く歪む。
「……なにこの味。すっぱい。……苦い」
「それだけあの国の土が最悪だった、って事ね。植物は土地の良し悪しに正直なのよ。覚えておきなさい」
「……いつも食べていたオレンジが甘かったのは」
「お取り寄せ」
途端にリンは口ごもり、手の中にあるオレンジをじっと見つめた。
「私は……本当に、何も知らなかったんだ……」
食べ物も、嗜好品も、身に着けるものから調度品、動物や花だって、望めばいつだって最高級の品が用意された。
そつの無い準備の良さに、それが当然だと思っていた。用意するためにどんな苦労があったのかも、自分は見ようともしなかった……。リンの顔色に、また影が差す。
それを横目に、私もオレンジの実を頬張る。……やはり酸っぱいし、苦い。とてもじゃないが美味しいとはお世辞にも言えない味に思わず顔が歪む。
「……なら、ちゃんとこの味を覚えてなさい。食べずに悔やむだけなら誰だって出来る。知らないなら、知れば良いのよ。これから」
「…………これから? どうやって」
「どうやってでも。何の為に、あんたの兄弟が命を代償にしたと思っているのよ。命を掛けて守られたのなら、あんたにはどんな事があっても生き抜く義務がある。知らない事は、知るしかないのよ。……一応聞くけど、これから1人でも生きるつもりは、ある?」
少々説教臭くなってしまっただろうか……。今しがた放った自分の言葉に内心舌打ちをしつつも、リンの方を向けば、彼女はジッとオレンジを見つめながら何か真剣に考えている様子だった。
しばしの沈黙の後、彼女は初めて強い意志を込めた眼差しで私を見つめた。その表情は、確かに頂点に君臨すべき者に相応しい顔付きに思える。
「まだ分からない…けど。――死ぬつもりは、ない」
……なるほど、この子は思っていた以上に生まれながらの女王だったのかもしれない。
思わず頬が緩む。成り行きまかせの気紛れな出来事だけれども、本来ならば仇である少女の前でこう思うのも不謹慎なのかもしれないが。――どうやら私は、この状況を少なからず楽しんでいるようだった。
「良いお返事を有難う。では、これからどうしようかしら」
「どうしようって……?」
「成り行きとは言え、私もあんたの亡命に手を貸したようなものよ。あんたが安全な場所に辿りつけるまでの水先案内位は付き合ってあげるわ。……あの召使の子に敬意を払う意味も込めて」
「……っ本当に!?」
「それに、ここで放っておいてもあんた土地勘無いでしょう? あんた1人にしたら彷徨った挙句に革命軍の兵士に捕まる……なんてオチが分かってるのに放って行けるほど、私も人間出来ていないのよ」
「…………あなた、ちょっと……怖い」
「なにを今更」
リンがジト目で睨む。そんな小さな少女から睨まれたところで、痛くも痒くもないので、わざと涼しい顔で鼻を鳴らして見せた。
再三に渡って訪れる、つかの間の沈黙。
……そして次の瞬間。すぐ隣から「ぷっ」と口から小さく空気が漏れる音が聞こえた。
すぐに、静寂だった森の中に鈴を転がしたような笑い声が響く。
私には何故こんな状況に陥ったのかすぐには理解できなかった。
目の前で、あの悪名高き悪ノ娘が体を折って無邪気に笑っている。
「……っあの子が、あなたを傍に置きたがった気持ちも、分かった……レン以外でお喋りがこんなに楽しいと思った相手が居なかったもの」
「もっと早く、あなたに会っていれば……少しは何かが変わっていたのかな」
そう言って、少女は笑う。彼女の笑顔を、私は初めて見た。
ここから一番近いのは、南に下った先の海だろうか。身を隠して船に乗る亡命者も少なくはないし、その海の先にはこの世界でも最大規模だろう青の帝国がある。当然、大きくてあらゆる人種を受け入れるその町を目指して逃亡する者の噂は数多く聞いてきた。
しかし、それ故に、海は駄目だ。
悪ノ娘にとって、今最も避けるべき敵は自国の民でもあり、海の向こうにある青の帝国でもあるのだ。
なんせ革命軍へ最も協力を惜しまなかったのが、その帝国なのだ。皇子自ら率先して、宮殿に攻め入ったという話も聞く程だから、その復讐心は底を知れない。
……まぁ、無理もない話だ。いつだったか……ミクは照れくさそうに笑って、私に彼を紹介してくれた時があった。
その時「婚約者」と呼ばれた彼はミクと同様に随分と軽装ではあったが、彼がかの帝国の第一皇子と知るまでに時間は掛からなかったと思う。
『最愛の娘を殺された帝国の皇子の怒りに触れた』
残念ながら、その噂話は的を射ていたと言えよう。
身を隠して船に潜りこむことならできる。しかし、リンも私も双方が皇子と面識があると言っても良い。
対岸の大陸に渡ったところで、キリの無い逃亡劇が待っているだけに違いない。……それよりも。
「多少道中が厳しいかもしれないけど、西外れの山を越えた先の国へ向かおう。この辺の民であの厳しい山脈を越えようとした者は少ない。……が、山の向こうはまるっきりの別世界よ」
世界を記した古い地図に指を滑らせながら、大陸を分断するように聳え立つ、世界でも最も高い山を指す。
「…………行った事、あるの?」
「…………昔のことよ」
リンは多少不安を顔に滲ませながらも、地図をジッと見つめながら頷いた。
海を渡って帝国へ向かおう……と言い出さない辺り、自分の状況を冷静に判断する程度の能力は備わっているようだ。
我侭三昧を繰り返していた割に、随分と賢い少女だと思う。
これからの旅路を想定して真剣に地図を見ているリンの横顔を眺めていたら、ふいに彼女が「あっ」と思い出したように声を上げた。
そして申し訳なさそうな表情を浮かべて、私へと振り返って顔色を伺いだす
「あの……、こんな状況じゃないって、分かっているけど……山へ向かう前にどうしても立ち寄りたい場所があるの」
ほんの少しの時間で良い。我侭な事を言っているのは承知だ。少女の目がそう訴えている。
……どうも、彼女のこの目は、時折ミクが見せていた眼差しと似ている気がする。そして、私はいつだってこの目に弱かった。
「…………どこ」
「町外れの、この港なんだけど……」
そう彼女が指し示したのは、ここからさほど遠くなく、どの街からも外れた辺鄙な場所だった。
「ここに町らしき場所はなかったはずだとおもうけど……」
「知ってる。ここには、何度も来た事があるから」
「こんな場所に? 女王様が喜ぶようなものは無かったでしょう?」
「そう、何もない場所。誰もいない場所。だから、私達はよくお城から抜け出してここまで来ていた。私には、この場所に意味なんてなかった。……だけど、レンがよく行きたがっていたから」
「どうせこの地を離れるなら、最後にレンが好きだった場所に行きたい」
これを、私からの最後の我侭にする。
リンはそう呟いて、奥歯を食い締めた。
――そういえば。この港に纏わる言い伝えを教えたのは、私だっただろうか。彼女だっただろうか。
ふと、思い出した伝承を口の中で転がしてみる
『願いを書いた羊皮紙を、小瓶に入れて』
『海に流せばいつの日か……願いは実るでしょう』
コメント0
関連動画0
ブクマつながり
もっと見るザン……と波の音が響く。
街から見て西南の外れに位置するこの港……いや、港だった場所と言うべきか。この場所には寂しいだけの海と、既に人の気配も感じられない廃れた町跡しか無かった。
ここは昔、漁業を生業とする人々が集まった小さな港町があったと聞いた事がある。しかし、さらに南の方角へ下った先に帝国と結...残された者(5)【悪ノ二次】
ズサ
彼女は、……ミクは私にとって世界で誰よりも大切な少女だった。
それはとても遠い過去、まだ私も少女と呼べる程の年齢だった頃に……私は幼かった彼女に拾われたようなものだった。
……いや。その当時の事を語る必要は、今は無いだろう。
ミクという少女を、一言で語るなら……そう。彼女は、あんたとは丸っきり「正...残された者(3)【悪ノ二次】
ズサ
翌日の昼過ぎ。宿から出た私は、すぐさま処刑会場となる広場へと向かった。
広場は既に大勢の人数が集まっており、街の人々は皆、皇女の悪行や非情ぶりやどんな酷い仕打ちを受けていたかを口々に物語っていた。
そのどこか興奮した面持ちに半ば狂気じみた空気が混じっている。どんな人物であれ、目の前で人が殺されると...残された者(2)【悪ノ二次】
ズサ
黄色の国の王政が崩壊した。
今、街の人々はその話題で持ちきりだ。
黄色の国は、他国の国民である私達から見ても酷い有様だった。
絶対王政。極悪非道。民の貧窮など嘲笑うように見下して、王族貴族達は贅沢三昧を繰り返していたという。
そしてなにより……その頂点に君臨していたのは、まだ齢14の少女だったと...残された者【悪ノ二次】
ズサ
狂ったように、帯人はアイスピックをリンにむけて振りかざした。
リンはとっさに包丁でそれを防ぐ。
しかし、帯人のほうが圧倒的に強かった。
数歩、リンは下がって体勢を立て直す。
その瞬間、はじかれたように帯人が私の手を引いて走り出した。
灰猫も先頭を走る。
「雪子、怪我は!?」
「大丈夫。服が切れただけ...優しい傷跡-魔法の音楽時計- 第07話「みんなの声」
アイクル
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想