「今日はみく姐さん宛になにか来てますか?」
はくが声を掛けると、取次ぎの男は苦笑して頷いた。
「たくさんあるよ。流石初音太夫。……あと、新しい『妹』の子にも一通来ているねえ。ついでに持って行って貰えるかい?」
「はい」
みく宛の、大量の手紙を手渡されて、はくは毎度の量の多さに感心しながらそれを手に、みくの部屋に向かった。
「みく姐さん、そろそろお着替え、お手伝いする時分ですよね。それから、お手紙の方も一緒に持って来ました」
「はくちゃん、ありがとう」
はくが声を掛けてみくの部屋に入ると、後姿だったみくの長い髪がさらりと流れて、その顔がこちらを向いた。その顔が僅かに上気しているのを認めて、はくは意外な思いがした。
その向こうに座っているのはりんで、こちらはしかめ面しい顔をして、可愛らしい顔が台無しになっている。
「じゃあ、おりんちゃん。私、着替えてくるから、今のところまで覚えておいてね」
みくは声を掛けて、着物の裾を軽く払って立ち上がる。りんはしかめっ面のまま、返事もしなかった。
「どうしました?」
着替えのために障子で繋がった隣室に入って、今までりんといた場所とを障子で仕切ると、はくはりんの耳に届かないよう小声で尋ねた。
「歌を教えているのだけどね、どうしても一箇所だけ上手く歌えなくて。思わず笑っちゃったら、すっかり不機嫌なの」
「あら」
「でも、筋はいいの。とてもね」
言いながら、みくは思い出したようにくすりと笑った。その表情が、いつもの大人びた微笑と違って、一瞬年相応の普通の娘のような顔に見えて、はくは一瞬瞬きをした。
「どうしたの? はくちゃん」
「……いえ」
問われて、我に返って慌てて今日みくが身につけると思われる白藍色の着物を広げる。それを見て、みくは少し首をかしげた。
「少し、違う気分」
「え?」
「薄紅色のがひとつあったよね? あれがいい」
珍しい、暖かい色の選択に、はくは少し意外な気持がしながらも、それを探すために、箪笥に向かう。
「ああ、そういえば、おりんちゃん宛のお手紙も一通混じってますよ」
ふと思い出して、障子を挟んで隣の部屋に居る筈のりんに届くように大き目の声でそう言ってやると、障子越しにもはっきりと分かるように、りんが大きく反応するのがわかった。みくとはくは顔を見合わせる。
「待ち望んでいた手紙なのかしら?」
みくは小さく呟いて、帯を解いてしまった着物の前を掻き合わせると、障子に向かって歩いて少し隙間を空けた。
「歌の練習は後にして、先に見て良いよ」
声を掛けると、りんは跳ね上がるようにしてはくが机の上に置いた手紙の束の中から自分宛のものを探し当てた。
「いい人からの手紙?」
「家の次女から。家の近況を教えてくれるって約束したから」
待ち望んでいた筈の手紙なのに、りんはそれをすぐに開かなかった。何度か迷うように手はそれの上を行ったりきたりして。ようやく心を決めたのか、手を止めた後もしばらく動かないで。それから大きく深呼吸をして、破ってしまうのではないかというような勢いでそれを開いた。
しばらくは、食い入るように文字を目で追って、それから、傍で見ていてもわかるくらいはっきりと、安心したように肩を落とした。
「どんな気を張るような事があるの?」
思わず聞いたみくに、りんはちょっと困ったように口ごもった。沈黙してしまったので、答えはないのだろうと、みくは障子を元のように閉め、はくが改めて持ってきてくれた着物に着替え始めた。
「廉(れん)の婚礼が行われてしまっていたらどうしようって、心配だったから。今はまだ、大丈夫みたいだけど」
おもむろに、障子越しにりんの細い声が聞こえてきて、みくは着物を肩に滑らせていた手を止めた。はくがそれを引き継いで、なれた調子でみくの体にそれを着せて行く。
「廉は、弟だけど。あたしは廉と恋仲で。ただでさえ不吉な双子が、さらにそんな事、赦されるわけもなくて。おまけに廉は大店(おおだな)の娘に見初められちゃうし。その娘と廉が縁付けば、貧乏武家のウチは安泰だし。……どう考えたって、あたしは邪魔で、でも、その婚礼は大反対って大騒ぎしたから。さらに邪魔で。もうどうしようもないくらいのじゃじゃ馬だったし、だから廓に売られて。あたしがいなくなったら、だれも婚礼反対する人なんていないし、廉は押しに弱いから、絶対に……」
語る口調の中ほどから、段々声に涙が混じり始めたと思ったら、とうとう声が途切れてしまった。みくはそろそろと、まだ結ってなくて長いままの帯を引き摺って歩いて、障子に隙間を開けて向こう側を覗く。黄金色の髪が畳に向かって流れて、下を向いているりんの顔を隠してしまっていた。だけど、震える肩が、しきりに顔のあたりを拭っている掌が、全てを物語っていた。みくはしばしそれを黙って眺めて、それから、おそるおそるといった様子でそこから出て行って、普段のみくからは考えられない不器用そうな手つきで、ゆっくりと、りんの頭を数回撫でた。
一度触れられて、ピクリと動いたその肩は、二度目三度目で更に大きく上下して、その後、目の前に立ったままのみくの足に両手が回されて、しがみつくように顔が押し付けられた。
部屋に響く嗚咽を聞きながら、みくは最初驚いたような顔で、しがみついてきた温かい体を見つめていたけれど、やがて、ゆっくり腰を下ろすと不器用な、それでも先ほどよりはややなれた手つきでりんの背中に手を回した。
「家で、私に優しくしてくれたのは廉だけなの。みんな、跡取り息子との双子のあたしは、要らない子だと思っていたから」
「そうなの」
「あたしには、あの子しかいなかった。あの子がいなければ、あたしの居場所なんてなかった」
「うん」
「だから、あたしは、あの子を失えないの」
「そうね」
「だけど……」
嗚咽が搾り出されるように漏れる。
「知ってる。無理なの。あたしがどんなに想ってみても、もう、変えられないの」
抱きしめたりんの向こう側から、はくが気遣わしげにみくの顔を窺った。それに気づいて、みくは少し首を横に振ってみせる。
もうすぐ店に出る時間だから、はくが気にしてくれている事は判っていた。だけど、今のみくにはどうしてもそのしがみついてくる手を離す事はできなかった。
★・★・★
明け方、お勤めが終わってみくが部屋に戻ると、はくは安心したように笑った。
「遅れて出たのは、大丈夫でしたか?」
「殿は甘やかしてくださるから」
苦笑で返して、それからひらひらと手を振る。
「一人で着替えるから戻っていいよ」
「はい」
はくが去ると、一人の部屋で帯を解いて楽にした姿勢で、窓辺に腰掛けた。片手を伸ばして、煙管に手を伸ばし、火鉢からそれに火を移す。深く吸い込むと、胸の奥まで煙で満たされるのが感じられた。
窓からは、冷たい月明かりが差し込んで、明け方とはいえまだ暗い部屋を仄かに照らしていた。
みくの目は、それらに向けられては居たけれど、それらを見ては居なかった。思考も視線も、もっと過去のものを、自分の通り過ぎてきた道を追っていた。
りんを見ていて思い出してしまったのは、丁度りんと同じ年頃であった自分の姿。
みくも丁度今日のりんのように、一途に、ただひたすらに想う人がいた。りんと違うところは、その相手はみくを慈しむばかりで、色恋の対象としては受け入れてくれなかった事であったけれど、みくは心の底からその人を恋していた。
その人を手に入れるためならば、何でもすると思った。どうかどうか、一人の女としてみて欲しいと、ずっと思っていた。胸を焼くような、苦しい熱情だった。
今でもその優しい眼差しを、いつも笑顔であったその顔を思い出すと胸が苦しくなる。
「みく、お前は僕の妹だ。今までも、そしてこれからもだ。僕は妹として君をずっと慈しんでいきたいと思っているんだ」
穏やかなその声。耳に馴染みの良い優しい声。
「君の恋情はきっと、ひと時の憧れのようなものなんだよ。あまりに一緒に居すぎて、錯覚してしまっているだけだ。いまにきっと、僕なんか及ばないような立派な人が現れる」
優しい口調で、残酷な事を言い放つ。どんなにみくが想っているか、その視線や仕草や言葉の中から厭と言うほど実感しているであろうに。彼はあくまでもそれに気がつかないフリをして、良い兄を続けようとしてくれる。
みくにはそれが、とても苦しかった。
ぶるりと震えて、みくは我に返った。寒気が忍び込むのに気づいて、自分の感傷に苦笑して立ち上がる。白み始めた空を隠すように窓の障子を閉めて、それから布団へと向かった。
⇒第五話へ続く。
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