その記憶に確証が持てますか?
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目覚めたのは彼の部屋だった。確か彼と話していたら首元に何かを当てられて……、それで?
——“こんなところまで来るなんて、本当に馬鹿だな”——
最後に聞いた言葉を思い出す。そうだ、それで気を失ったんだ。
「起きたんだ」
声のかけられたほうを見る。カーテンがない窓を背にした彼が座り込んでいた。
「すみません。長いこと寝ちゃったみたいで……帰りますね」
「帰る? 何をおかしなことを」
彼が不思議そうに首を傾げる。私も同じ動作をする。
「だって、ご迷惑になるでしょう」
「出る必要なんてないだろう。ここにいれば安全なんだから」
はて、なにかが噛み合っていないような。
これまでの生活に危険なんて感じてはいなかったのだが。
「君を傷つける奴らはここにはいない」
そこまで話して、彼は黙り込んでこちらを見つめる。
傷つける? そんなことをされた心当たりもない。
何より不思議なのが、彼の表情も態度も淡々としたもので、冗談を言っている雰囲気でもないこと。
帰してくれる様子はない。監視でもしているかのように、彼は私から一切視線を逸らさない。
そもそも警告を無視してまで会ったのは私だ。そして一番の目的を果たしてもいないままで。
「わかりました。しばらくお世話になります」
彼との対話で、彼が私の前から消えようとした理由を知るべきだ。
幸い、今は逃げずに話をしてくれる気でいるらしい。私を逃す気もなさそうだけど。
「先生。どうして私の前からいなくなったんですか」
「君を傷つけたくなかった。聞いていなかったのか」
「聞いていましたよ。どうしてそう思ったのかを知りたいんです」
「俺は、何かを壊さないと気が済まない時があった」
それはきっと事実だろう。
部屋の中のものがいくつか壊れているのは、きっと彼のせいで。
私が押し入った時、彼は携帯電話すら投げ捨てていた。
多分、私の前ではなるべく隠していたんだろう。
「今はそんな風には見えませんが」
「君を気絶させたのが俺だということを忘れたのか」
「手癖が悪いんですね」
「煽っているのか?」
彼が隠しているものはそれだけではないだろう。
物に当たりたい時は誰にでもある。でもそれだけでグミちゃんが私を止めるとは思えない。
彼が壊したい何か。その中に人間が含まれていないことを願って止まない。
初めて訪れた彼の部屋は殺風景なものだった。
ノイズしか聞こえないラジオ、電源の入らないテレビ。
あとはダイニングテーブルと一脚の椅子、一人様冷蔵庫、それにベッド。ぱっと見つかるものはそれだけだ。
冷蔵庫の中は綺麗さっぱり何もない。
「先生、食事はどうしているんですか」
「多分、缶詰とかは探せばあると思う」
「先生が食べる分なくなっちゃいますよ」
「俺はいいんだ」
もうずっと食べていない気がする、記憶が飛んでいるだけかもしれない。彼はそう言った。
人は何も食べないでいると、三週間から一ヶ月程で死に至るらしい。
彼が学校を去ってから一月は経っている。彼の命の終わりは、いつ訪れてもおかしくないはずだ。
だけど目の前の彼は、最後に学校で見た日と何も変わらないように見える。
「待って、ねえ、先生。薬はどうしているんですか」
「退院してからずっと飲んでいない」
ベッドの下を探せば薬の袋が出てきた。
処方された日付と量が書かれており、確かに一回分すら減っていなかった。
一切の医療行為をやめれば彼の体はもたなかったはずだ。……あれ、それはどこで聞いたのだったか。
最初は彼の記憶力が落ちているだけだと思った。
だけど彼はただ私を観察するだけで、一日中窓の前から動こうとしない。眠る時ですら体勢を変えなかった。
ともかく、薬にしろ食物にしろ、彼は生命維持に必要なふたつを摂取せずとも生きながらえている。
彼は食事を私に譲った。本当に何も口にする様子はなかった。
代わりに、君は食べなさいと言って、缶詰と何かの錠剤を差し出してくる。
「病気を治さないといけないだろう?」
まただ。彼と私の認識がすれ違っている。私が彼の言葉に返事をする度に、彼の表情がわずかに緩む。
かつて見た夢の内容を思い返す。何も聞こえないまま、彼によく似た少年の前で命を終える夢。
彼が私に、違う『私』を重ねて見ている。
まさか、事故の時のように、記憶が逆行しているのだろうか?
だけど生徒の私を認識しているし、自分が教師を辞めたことも自覚しているらしい。
いくら考えても目の前の彼の意識が何なのか、まるでわからないし、錠剤を飲まない私をどうするかもわからない。
ベッドの下の薬箱にはサプリメントもあった。そのどれかだと信じて水と共に流し込むと、しばらくしてから眠気が訪れた。
睡眠薬だったか、と思う頃には意識をまた手放した。
破壊衝動があるとは言ったが、彼は私にも物にも手を上げる様子はなく。
寝ても覚めても彼は定位置を変えようとはせず。
まともな対話を望もうともずれた回答しか得られず、一日で知覚している時間はわずか数時間しか許されず。
缶詰があるとは言ったが数には限りがある。
いくら私しか食べていない状況だろうと、買い出しもできないこの状況では、限界が訪れるのは近いかもしれない。
出入り口に近づくこと以外は、私が部屋の中でどう過ごそうと、彼は気にした様子はなかった。
彼の携帯電話は、投げつけた衝撃のせいなのかまともな文字を表示しない。
薬箱の中身はサプリメントと睡眠薬くらいのもので、特別何か危険なものがあるわけでもなく。
あと唯一見ていないのは、同じくベッドの下から見つかった、古ぼけた小さな黒い手帳だけ。
「先生の望みって、なんですか」
「誰にも疑われず、ただの人間として死ぬことさ」
「死ぬって……」
「俺がどうして食事をしないか、考えなかったのか」
ひとは食べないと生きていけないだろう?
確かにそうだ。だけど今の彼は、その法則に当てはまらない気がした。
彼は自覚しているのだろうか。私が訪れてからかれこれ七回は夜明けを経験している。
加えて、一ヶ月も私の前から姿を消していた。ただの人間なら、もう既に限界を迎えているはずだ。
記憶だけでなく、時間の感覚すら壊れているのだろうか。そこまで考えて首を振る。
壊れている、だなんて。彼に対してそんなことを考えるなんて失礼だ。
文字で得られる情報を探して、手帳を開いた。
折り畳まれた紙がひらりと舞い落ちる。広げてみればそれは、新聞記事の切り抜きだった。
『男性不審死事件 大学の同級生を殺人容疑で逮捕』
容疑者として乗っていた名前は彼のものだった。驚いて手帳を取り落とすが、やはり彼は気にも留めない。
「先生、もう既に誰かを傷つけた後だったんですか?」
「そうだ。俺は人殺しだよ」
彼が、ひとを殺していた? そんな人が教師になんてなれるわけがない。事実なら十年は塀の中だろう。
落とした手帳が開いているページは、グミちゃんの筆跡が刻まれていた。
彼の事件について調べたのか、それとも当事者の家族だから事実を書き記したのか。
読み進めてわかったこと。彼は人を殺していない。
あの場で見つかった血液は、亡くなった青年のものではなかった。
青年は心臓発作を起こして亡くなった。血など流れようもない。
彼が刺したと思っていたものの正体は、自らの右手首だった。
生まれ持った傷のような痣の上から何度も何度も切りつけ、抉りつけた。
どうして生きているのか、なぜ手首が正常に動いているのかわからないほどの出血。
それが横たわった青年に降りかかった。
つまり。彼は既に壊れていたんだろう。そしてその事実を、未だに理解できていない。
彼の手首の痕が切り傷のようなのも、実際に切ったのだから存在して当然だった。
だけど本来ならもっと凄惨な痕で残っていないとおかしいのだ。
グミちゃん曰く、当時つけた傷は綺麗さっぱり消えたらしい。
さらに過去へ頁をめくっていく。筆跡が知らないものになった。
おそらく手帳本来の持ち主である、彼の父親のものだろう。
そこにあったのは、彷徨う影の影響で亡くなった者は、全て心臓発作で亡くなったということだった。
なぜ、どうやってそれを起こさせたのかはわからない。
だがその能力は本人が自覚せずとも今も引き継いでいるのだろう。
今を生きる彼が爆弾を抱える理由。それは犯した罪が返ってきたからだ。
問題は、その意識が誰のものなのか。
生前の少年でもなく教師の彼でもない、それらが混ざり合った別のもの。
彼は言った。誰にも疑われず、ただの人間として死にたいと。
ならば。未だ死ねないと苦しむ彼を、これからも誰かを殺したい衝動で苦しみ続けるかもしれない彼を終わらせるべきではないのか。
私なら、それができる。
部屋からは、彼が持つには不自然なメスが転がり出てきた。おそらく最初に彼が「やらかした」時のものだろう。
「刺さないのか」
はっとした時、私はメスを握りしめていた。私を見ても、彼は取り上げることはしなかった。
「私には刺せませんよ。あなたを止めるべきだとわかっていても、そうする決意がありませんから」
「君が俺を見放せばいいんだろう? 簡単だよ。俺はね、もう君の名前も思い出せないんだ」
「思い出せないって……」
「ここに来て、一度も名前で呼んでいないだろう。名前だけじゃない、どうやって出会ったのかも、何を交わして過ごしたのかもほとんどわからない。君が大切だったこと、守りたかったことしかもう覚えていないんだ」
ここにいれば誰も君を傷つけない。
彼は矛盾に気が付いているのだろうか、私をここに閉じこめ続ければ、いずれ彼より先に私が死ぬことを。
「全部煩わしかったんだ。君を傷つける奴らも笑って無視する奴らも、俺を否定する奴も何もかも……何もできなかった俺すらも。全部壊れてしまえばいいとさえ思った」
今口にしているのは何の話だろうか。音無事件の後、彷徨う影という怪物としてだろうか。
「なのにいつまで経っても俺だけがそのままでいる。痛みに耐えて苦しんでも、何度も薬を飲まずとも死なない程度にしか苦痛はやってこなかった。……あるいは、それそのものが罰だったのか」
疲れた。誰でもいい、何でもいい。これ以上何かを壊してしまう前に、誰かを傷つける前に。俺を終わらせてくれ。ここに、ただ息をしているだけの俺を。
彼の独白は、道の説明をするみたいに淡々と語られた。もう、感情を込めることすら疲れてしまったのだろうか。
「俺は、夢の中で何度も君を殺した。現実でさえ、何度も君を殺そうとしては思いとどまった。どうして眠らせたのか、もうわかるだろう? これはただの正当防衛だ。殺さなければ、殺されるんだよ」
彼は本当に死を望んでいる。それが救いになると本気で信じている。
向かい合って、彼の胸に手を添える。
確かな鼓動。彼は未だに生きている。
それを私が終わらせる。……本当に?
「……ひとつだけ、聞かせてください。ねえ、神威先生。先生は、私のことが好きですか」
少しの間を置いて、彼が答えた。
「ああ、きっと好きだったよ」
過去形だな、と思った。そして、それが最後だった。
*
合鍵を持ち去ったのか、と気が付いたのは彼女と話した一週間後のことだ。
丁度連絡が取れなくなって、母から鍵を借りて初音先生と共に無理やり押し入るまでにはさらに二日かかってしまった。
「ルカちゃん!」
彼女はどこだ、と靴のまま上り込んで、すぐに見つかった。
彼女は床に座り込んでいた。だけど、
「ねえ、ルカちゃん! どうしたの、しっかりして!」
「……」
肩を揺すっても彼女は目の前の私に反応を返さない。
涙を流して、表情はひとつも変わることはなく。感情が抜け落ちてしまったかのように。
はくはくと、時折口が開くのをただ見ていた。
「グミさん」
「初音先生、ルカちゃんが」
「私たち、間に合わなかったみたい」
え、と初音先生の視線の先を見て、そこで初めて転がっているものに気がついた。
お兄ちゃんだったものがそこに眠っていた。
その表情は本当に眠っているようなのに、胸に突き立てられたメスと、紅に染まる白衣だけがその部屋で浮いていた。
まさか、と彼女をよく見る。彼女の手は、服は、赤に塗れていた。
『間に合わなかった』。ああ、そうか。彼を止めたのは彼女だった。
だけど、彼女自身がおそらくその事実に耐えられなかったのだ。
ふと、何かが聞こえた気がして、耳を澄ませた。
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「……した」
「わたしが、ころした……」
「ゆるして……」
何回も何回も、ずっとそれを繰り返し言っていることに気がついて、背筋を悪寒が走っていった。
「ルカちゃん、お願い、しっかりして……」
彼女のせいじゃない、そう声をかけたいけど、かつて兄が同級生を『死なせた』のと状況は違う。
彼が殺した証拠が見つからなかったあの時とは異なり、彼女は間違いなく自らの手で彼を殺した。
被害者が死を望んでいても、手を下した事実が彼女を苦しめている。
何が絶対に許さない、だ。彼女の身体を確かに死なせはしなかった。
だが、心はもうここにはない。
また何も守れなかったのだ。大事な友達は、心を壊してしまった。
ごめんなさい。ごめんなさい。
紡がれる言葉は彼女のものか、私のものか。
いくら謝罪を重ねようと、答えが返ってくることはない。
Memoria --『Symphony』--
【Symphony】英語で『交響曲』。シンフォニー。
管弦楽の多楽章楽曲。
memoryのパラレルワールドのこのシリーズも、七年経ってようやく完結です。
この結末に向かって走り続けました。
本編はハッピーエンドですが、パラレルではバッドエンドもあり得るのでこんな結末になりました。
なぜなら私がバッドエンドが好きだからです。
First 『Preludio』 :http://piapro.jp/t/UARx
Second『Traumerei』:http://piapro.jp/t/r3WP
Third『Fantasia』 :https://piapro.jp/t/Wf-U
Fourth『Serenade』 : https://piapro.jp/t/07JB
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