ぼんやりとした思考がゆっくりと輪郭を整えていく。雨戸の隙間からこぼれるのは、早春の白い光。まだ寒々しい空気の中、そこだけが柔らかな春の気配を湛えていた。
今日は良い天気みたいだ。パソコンの内側の天気は外側の天気と連動している。つまり、現実世界も天気が良いという事だ。きらきらと柔らかな日差しはしかしまだ眠い目には眩しすぎる。
すうと布団の中で息を吐いて吸って、また吐いて。頭の片隅に引っ掛かっていた夢の残滓を振り払い、カイトはゆっくりとベッドから起きあがった。うん、と伸びをして眠気を振り払う。
と、誰かの歌声が聞こえた。甘く可愛らしい、少女の声。ミクの声。声の遠さからして、居住区ではなく録音室に行って歌っているようだった。ミク、珍しく早起きをしたんだな。そんな事を思いながらカイトは部屋のカーテンを開いた。
淡い、水色の空が広がっていた。今日も良い天気だ。まだ少し肌寒い空気を感じながら白い陽光を体いっぱいに浴びる。からりと窓を開けて外の冷たい空気を吸い込むと、徐々に細胞が覚醒していく感じがあった。気持ちいい、朝の空気だ。冷たい空気の中、柔らかく跳ねるような音に合わせてミクの歌声がどこからか甘く響いている。
この身体も、日光もなにもかもゼロとイチで構成されているのだけど。そんな単純なもので出来上がっているのが嘘のように感じられた。
リビングへ向かうと、カウンターの向こう側、台所でメイコとルカが朝食の準備をしていた。今日はオムレツらしい。バターの溶ける良い匂いがリビングいっぱいに満ちている。幸せな匂いだ。自然と頬がほころんでしまうのを感じながらカイトはおはよう、と言った。
「おはよう」
「おはよう、兄さん」
「おはようカイト。なあに朝からにやにやしちゃって」
カウンターの向こうでメイコがそうからかうように言う。その言葉に微かに頬を染めてカイトは言った。
「うん、いい匂いだから。メーちゃん美味しそうだね」
「もうすぐ朝ごはん出来上がるよ」
メイコの言葉通り、ほわんと湯気の立ったスープをルカがダイニングテーブルに運んできた。カイトも朝食を運ぶのを手伝っていると、おはよう、と新たに明るい声が響いてきた。
「おはよ」
「おはよ。いいにおい~」
寝間着姿のままでリビングに入ってきたのはリンとレンだ。
リンはまだ寝ぼけているのかもしれない。ろれつがいまいち回っていない。その幼い様子に思わず笑みをこぼしながら、オムレツだよとカイトは言った。
「もう朝ごはん出来るって。リンちゃん、オムレツだよ」
「おむれつ」
メイコのオムレツの味を思い浮かべたのだろう。リンが何とも幸せそうな笑みを浮かべる。その横でレンが、間抜け面、とからかうように言った。いつものじゃれあいにも知らず、頬がほころびる。
「カイト、そろそろミクを呼んできて。スープが冷めちゃう」
メイコの言葉に、わかった。とカイトは頷いた。
玄関からサンダルをつっかけて家を出た。朝の冷たい空気がしんしんと部屋着姿のカイトを浸食してくる。
パソコンの中といえども設定温度は外気と同じくらいに設定されている。携帯電話などではそこまで再現できないけれど、このパソコンの中は人と同じような環境に設定されているのだ。上着を着てくれば良かったかな。とカイトが少し後悔をしながら肩をすぼめて歩いていると、隣の庭先から声がかかった。
「おはよう、カイト」
声をかけてきたのは、がくぽだった。上着を脱いで乾布摩擦をしている。この寒さのなかもろ肌脱いで乾布摩擦とか、どうなんだろうと思ったが、この古風な彼らしいとも思ったり。
「おはよう、がっくん」
だけどやっぱり見ているだけで寒くなってくる、と肩をすくめながらカイトが生垣越しに挨拶を返すと、一緒にやっていくか、とがくぽが手ぬぐいを差し出してきた。
「健康にいいぞ」
「ううん、止めとく。おれがやったら風邪ひいちゃうよ」
そう言ってカイトが苦笑していると、がらがらがら、と縁側の引き戸が開いてぐみが顔をのぞかせた。
「あれ、話し声が聞こえると思ったらカイトさんか。おはようございます」
「おはよう、ぐみちゃん」
「兄さん、ご飯出来たよ。そんな事やってないでさっさと食べちゃって」
「そんなこととか言うな、妹よ」
「こんな冬場の寒い中で乾布摩擦だなんて、そんな事で十分です。ごめんなさいカイトさん、寒いのに引き留めて」
からりと快活に言って。つ、とぐみは視線を中空に向けた。
「ミクちゃんの歌声ですよね。相変わらず可愛い声だなあ」
そう言って、ぐみはミクの歌声に重ねるように、ちくたくちくたく、と小さく口ずさんだ。
「この歌、私も好きです」
「我もだ」
それずれ頷く隣人兄妹に挨拶をして、カイトは居住区を後にした。
きらきらと電子の光が満ちる通路を抜ける間も聞こえるミクの歌声。甘い少女の歌声。重厚な筈の曲がテンポの速い、軽やかにきらめく音に変換されている。気が付くと、伴奏が録音のものではなくピアノの生音に代わっていた。わくわくと何かの始まりを予感させる音。マスターが弾いているピアノの音だ。
こんな朝早くからピアノを演奏するなんて、きっとミクが弾いてとねだったのだろう。思わず苦笑しながらカイトは録音室の扉を開いた。
扉を開けた瞬間、極彩色の音が溢れだした。空気の質が違う、と思った。冷たい空気の中、凛と鮮やかに輝く白い朝のひかり。
ひかりであふれ返った空間の中央で、ミクは歌っていた。画面の向こう側にはピアノを弾くマスターの姿。飛んで跳ねて、踊って。じゃじゃ馬のような無邪気な音符が早朝の冷たい空気を鮮やかに染めている。連なるトレモロ、重なる和音、踊る三連符。
呼びに来たのを忘れてカイトは思わず聴き入ってしまった。ミクが最初に教わった曲。古めかしい童謡はマスターの手とミクの歌声によって新しい音となって鳴り響く。
最後の一音が響いて、カイトは拍手をした。
「あ、お兄ちゃん。おはよう」
歌い終えて微かに頬を上気させたミクが振り返った。画面の向こう側、ピアノを弾いていたマスターもパソコンの前に寄ってきた。
「おはようございます、朝から弾くなんて珍しいですね」
そうマスターに声をかけると、画面の向こう側で苦笑する気配が伝わってきた。
「まだ寒くて指も思う通りに動かなかったのだけど、ミクがあんまり楽しそうに歌うものだから」
「あれ、ミクがまた、わがまま言ってねだったんじゃないですか?」
「わがままばっかりじゃないもん、私だって」
そうむうと頬を膨らませて。けれど直ぐに、機嫌よくふふふと笑った。
「ねえマスター、後もう一曲」
「あら。カイトは朝ごはんを呼びに来たんじゃない?」
「あ、そうでした」
ミクの歌声とマスターの演奏に聴き惚れてすっかり忘れていた、とカイトは頷いた。
「ミク、朝ごはんが出来てるよ」
「そうか、朝ごはん忘れてた」
朝ごはんの言葉に空腹を覚えたのだろう。ミクはそう言ってお腹を押さえた。その様子に思わずカイトが笑みをこぼすと、画面の向こう側でマスターも笑顔を見せていた。
Master 昨日の終わりと明日の始まり・1
ばあちゃんマスターです。
なんかもう、タイトルが思いつかずに適当です。
そして人名も思いつかない…
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