「善は急げといいますし。」
一人暮らしをしているといつの間にか独り言が多くなってくるというのは本当のことらしい。いつの間にか声に出していることがあるな…と思いながら、最後の仕上げにコートを着込む。玄関につながる廊下へ出ながら指に鍵を引っ掛けて、短い廊下を数歩で抜けてブーツに足を差し込む。誰と約束をしているわけでもなかったが、大急ぎの身支度だった。理由は沙羅が自分で口にした通りだ。ぐずぐずしていると、せっかく真優からもらったエネルギーが抜けてしまって、また元の行動力のない自分になってしまうような気がした。今なら、今この瞬間なら動くことができる。使命感にも似た感情に後押しされて、沙羅は午前中のうちから飛び出すように自宅を後にしたのだった。
とにかく最初は「家にいてはいけない」という思いから一刻も早く自宅を飛び出すことを優先したのだが、どこに行くかまでは、厳密には考えていなかった。ちなみに昨夜綿密に立てた計画は、朝起きてから如何にして素早く外出の用意を整えるかということについて考えていたのであって外出プランについてはノータッチだった。とはいえ、昨日の今日だ。行くところの選択肢に、それほど幅があるはずもない。
(買うわけじゃないっていうか…買えないんだけどね…。見るだけとかでも別に怒られたりしないよね?お金持ってないし買わされようもないし、クレジットカードとかいうのも持ってないし!)
見るだけ、見るだけ、と心の中で繰り返す沙羅。行動に勢いはついていても基本的な思考パターンまでは変えようがないので、ついついこんなところで慎重派な考えが浮かんできてしまう。道中、それを懸命に振り払うようにしてやってきた。大きな通りの、目立つ場所に一際大きな窓が目を引く店がある。全面ガラス張りかと思うほど、店内が丸見えになるような作りになっているのである。当然、そんなデザインになっているのには訳があった。
気力をフルに費やして前へと運んできた沙羅の足も、そろそろ限界だった。その大きな窓から覗き見ることができる世界が、やはり遠い。ガラスの壁を前に、ついに沙羅の足が止まる。店の中は広く見通しがいい。客もそこそこ入っているが店の中が混雑していないのは商品が並べられていないからだ。そこは、VOCALOIDの専門店。VOCALOIDを売るためだけの店であるがため、そのVOCALOID達自身がスタッフに混じって自らの売り込みをしているのだ。歌って踊れてちゃんと普通に会話もできるのだから、その魅力を存分に感じてもらうには稼働させるのが一番だ。沙羅の視線の先では丁度いかつい中年男性を相手に桃色の長い髪をした美人さんが楽しげにあれこれ語っている光景があった。あのタイプは確か…ルカ、だっただろうか。その隣では複数から声をかけられて、きっといっぱいいっぱいだろうに満面の笑顔を絶やすことなくくるくると動き回るツインテールのタイプもいる。人気シリーズの初音ミクだ。外からであったが、懸命に店内を見渡してみると、やはり一通りのボーカロイドがスタッフとして中で動いているらしかった。もちろんそこにはKAITOの姿もあった。他のタイプと比べるとやや手持ち無沙汰らしく、さり気なく掃除をしていたりするのがちょっと不憫だ。とはいえ、客から声をかけられた時に浮かべる表情は、やはり昨日、真優のところで見たあのKAITOの表情とよく似ていた。
(とても入っていけるような空気じゃないなぁ…)
扉を開ける勇気なんてなかった。そもそも扉の前に行くための足が動いてくれそうもない。沙羅は店内から目をそらした。視線を引くと、手前の窓が目についた。大きな窓にはところどころにポスターが貼られている。各種VOCALOIDを宣伝するためのポスターだ。どのタイプも、アイドルのように魅力的な個性と容姿を備えていて、それぞれが人好きのするいい表情をして視線をこちらに投げかけている。無意識のうちに、沙羅はKAITOのポスターを見つめていた。こちらへ手を差し伸べながら爽やかに微笑むその表情を当然嫌う人はいないだろうけど、やっぱり色んなタイプを実際に目にしてみたところで、沙羅自身が気に入っているのはKAITOであることは間違いなさそうだった。
とはいっても…。そう思い、諦めを含んだため息をつきそうになった時だった。
「ね、君。入らないのかい?」
「ふぅわああ?!」
「ちょっ、何その悲鳴っ。」
完全に死角だったため全く気づかなかったが、いつの間にか店の入口から店員らしき人物が出てきていたらしい。油断のためとんでもない悲鳴があがってしまったのは確かだったが、沙羅としては全速力で逃走しなかったことを評価してもらいたいところだったりする。そんなことを主張する余裕などありはしないが。やましい事があるわけではないが、おっかなびっくりギスギスとした動きで声のした方向を見ると若い男性の店員が「おいでおいで」と手招きしていた。眼鏡の向こうの理知的な瞳が真っ直ぐに沙羅を見ている。
「えっ、と、いや…あの…。」
お金ないですし。冷やかしですし。申し訳ないですし。言うべきことが色々ありすぎてどれから言うべきか迷ってしまったがために、素晴らしくしどろもどろになる。
「あーっと、ごめんね、完全に驚かせちゃったみたいだ。ずっと店の中を見ていたみたいだったからさ、入ってきてくれないのかなって思ったんだけど。」
そう言ってぽりぽりと後頭部を掻きながら笑う男性の言葉に、向こうからもこちらの姿が丸見えになるという事実に思い至る沙羅。これは盲点だった。中の様子を見るのに集中していたから、もしかしたら投げかけられていたかもしれない中からの視線に気付くこともなかった。
「いや、ちょっと気になることがあってね。もしかして、KAITOを気に入ってくれたのかなーって。」
「あっ…。」
どうやらじっとKAITOのポスターを眺めていたところを見られていたらしい。気恥ずかしくなって顔が熱くなった気がしたが、沙羅はなんとかこくりと頷く。
「実際に色々見てみたけど、やっぱりKAITOが一番すきだなーってちょうど、思ってたとこで。」
「そっか!じゃー丁度よかった!!」
「あっ、でもそのっ…!」
ぱっと表情を輝かせた相手に沙羅は焦った。お金持ってないので、というセリフは実際に口に出そうとするとひどく恥ずかしいような気がしたのだ。しかし、本当のことなのだから言うしかあるまい。
「ごめんなさい、その…私、そんなにお金持ってないんで、今日はもう、帰ろうと思ってて。」
そして多分、もう来ることはないのだろうけど。しかし、そんな沙羅の思いとは裏腹に「待ってました!」という言葉が返ってきて混乱する。お金がない人を待っていたとはどういうことなのか。ものを買う場所に来ているのにお金を持っていないなんて普通はおかしいのだから。
「これさ、すごく真面目な話なんだけどさ…。ちょっと助けると思って相談に乗ってもらえないかな。中でゆっくり話ができれば嬉しいんだけど。」
「……。」
正直とても怪しい、と沙羅は思った。詐欺か軟派か下手をすると闇商売という筋もありえる。騙されないための第一歩は、相手の領域に踏み込まないこと、である。沙羅は慎重だった。訝しむ表情を隠そうともしない沙羅に、男は困ったように眉尻を下げる。
「だよね、怪しいよねぇ僕。あのーなんだったら警備員同行でもいいんだけど…っていってもウチの警備員じゃ信用できないよね。えと、なんだったらボディガードを呼んできてもらって、一緒にとかでも全然…ああっ、でもそれじゃぁもう来てもらえない気がする!!!」
一人でしゃべり続けている店員を尻目に、この隙に抜き足差し足で逃げられるような気が…なんて考えていると、男が突然がばりと物凄い勢いで頭を下げた。きっちり90度でこちらに旋毛が見えている。
「ほんと、ごめんなさい!!信用してもらえるいい方法を思いつかないけど、どうしても!どうしても助けたいKAITOがいるんだ!」
“助けたいKAITOがいる”
結局、その一言が沙羅の気持ちを動かす引き金となった。
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『すっとキ...【VanaN'Ice】背徳の記憶~The Lost Memory~ 1【自己解釈】

ゆるりー
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