女画家は筆を踊らせている。
キャンバスは色鮮やかに。
まだ空の色も見ていない。荒々しく描きなぐって半刻。女画家はその腰まで伸びた翡翠の髪を靡かせて振り返った。
「ごめん、お待たせ。一段落ついたから行こう」
「ほんと、未久は描きたくなったら衝動に任せるんだね」
碧髪の冒険家が軽やかに笑った。
「描きたいものを描きたいときに本気で描くのが、一番いい絵に仕上がるから」
「未久のそういうとこ、好きだよ」
「そう」
未久は背中越しに返事をし、キャンバスを片付けながら、その冒険家に見えない向きで一人、苦笑いを浮かべた。調子が狂う。いつもの口説き文句は今日も健在らしい。
同じ宿に泊まっているという付き合いで、冒険家・海斗に四方八方を連れ回してもらって五度目。笑顔が引っ込んだところを見たことが無い。危ない旅も何度かあった。険しい表情を見たことが無い。それが少し不気味である。
けれども今は、そんなことよりも目の前が全てで。額の汗を拭って、見上げた。
巨大な塔が聳えている。放棄されて久しいのだろう。朽ちた門、色褪せた外壁、羊皮紙も板戸も無い窓、崩れた塔の尖端。廃墟の様相である。知り合いがいる場所、と旅に連れ出され、猛暑の砂漠を抜け、辿り着いた時には「え?」と情けない声を洩らしてしまった。けれども同時に、その退廃さに、画家として掻き立てられた。
雲が随分と速い。海斗によれば、ここの夏風は荒いらしい。天空で強風に煽られながら描き上がるのはどんな風景画だろうか。踊る心に任せて巨塔に踏み込んだ。
「――――ッ!」
「どう?」
呼び掛けは耳に入らず。ただ轟音のみが鼓膜を戦慄させた。ざあざあとも、どうどうとも。あるいは、ごうごうにも聞こえる。塔内部は暗く、瞳を上下に泳がせても何の音か定かではなかった。
なるほど、と察した海斗がマッチを一本擦って眼下に投げ落とした。
激流。上がる飛沫。マッチの火で小さな虹が作られて消える。
「滝?」
言葉を漏らしてから、ああそうかと一人で納得する。大瀑布が唸っているんだ。
「なるほどね。なるほ…………」
納得を呑み込みかけて吐き出した。見上げれば紛れもなく塔の螺旋階段。けれども、見下ろせば滝飛沫。それは余りに不可思議な光景だった。人工物の一つの完成形とも言える塔と、自然の自由さの象徴とも言える滝。その二つが見事に融和している。以前訪れた巨木の町は、人が自然に合わせていた。今まで訪れてきた大都市は、人が自然を征服していた。けれども、ここは違う。ここでは人と自然が対等に向かい合っている。それは余りにも不可思議な光景だった。
「たまには一通り見てから描いてもいいんじゃない?」
キャンバスを広げ始めた未久を、海斗が制止した。
指摘されて腕を止める。描きたい気持ちは山々だが、連れてきてもらった人の提案を無下にするのは、忍びない。そういうわけで、未久は、後ろ髪を引かれながら、海斗を追いかけて階段を登り始めたのだった。
一刻は優に経ったような気がする。無限に続くかと思われた螺旋階段はようやく上層に辿り着いた。
海斗が重厚な一枚板の扉を開ける。
「……すごい……!」
書庫が広がっていた。否。書庫が埋め尽くしている。本棚には装飾豊かな分厚い本が理路整然と並び。薬草学。蝙蝠の全容。あるいは、魔導書の類い。伝記や詩集といった柔なものは、一つもない。
だが、そんなことよりも、その書庫で紡がれている命に目を離せなかった。白猫。銀鼠。光る蛾。天井からは灰色柳がしだれ、床の無数の水溜まりを青飛び魚が跳ね回る。生き物が踊る? 生き物が舞う? いや生き物が遊び呆けるこの楽園を、人の叡知である書物が埋め尽くしている。ああ、ここは。共存でも相反でも正対でもない。ああ、ここは。無関心。同じ空間を分かつわけでもなく、ただ一方は寡黙に、他方は狂乱に、配慮も留意もなく、ああ、ここで。身勝手に過ごしている。
未久は不意に感嘆を呑み込むと、塔を描いた先程の絵画を、破り捨てた。
「未久?」
「ここは人に知られちゃ行けない場所。ここはずっと絵画の向こうで生き続けるべき。だから、分かりそうな絵は捨てた」
未久の言葉に、海斗は優しい笑顔を返して、次の部屋への扉を押し開ける。目の前にまた螺旋階段。二人は静かに登りだした。
今度は短かった。多少登るとすぐに、宝石づくしの扉。海斗が静かに押しあける。
豪華絢爛というべき部屋が広がった。人の身長ほどもある年輪の浮きだった丸テーブルは、磨かれて艶よく照っている。乗っているのは、紫紺や紅の蝋燭。奥の一角には書斎とおぼしき黒机。上には、青く透けている羽ペンと羊皮紙のロール。加えて、砂時計と液体や粉などが入った複数のガラス容器。異国情緒溢れる絨毯は南西の砂漠国の一級品だろうか。
「いらっしゃい、海斗」
突然の声に振り替えれば、奥の部屋から女性が現れた。まず目についたのは、無数の装飾品である。ピアス。ペンダント。ブレスレット。アンクレット。ヘッドドレスに、額飾りに、宝石指輪。あるいは、金のモノクル。服はゆったりとしたオレンジの衣。髪は、肩ほど。蒼がかった翡翠色の未久とは対象的な、檸檬がかった新緑色。
「はじめまして、ぐみって言うわ」
「ぐみ、さん?」
「ええ、紅実よ」
真ん丸の可愛らしい瞳なのに、一挙手一投足から溢れ出る薫りは、妖艶の一言に尽きる。
「彼女が、俺の冒険記で時々出てくる錬金術師だよ」
海斗の言葉に、ああ、と納得する。以前立ち寄った街の現象を海斗の冒険記の中で解明していた。書斎机のガラス容器達で謎解きを行ったのだろうと推測をしてみる。
「よろしくお願いね」
差し出された手に握手する。ふと、疑問が心を過る。その根を探してみると、答えは紅実の手首に巻かれていた。
「それは……?」
「ん? ああ、これのこと?」
下げた顔の先には赤く滲んだ包帯。黒く褪せていない色は、つい先刻の出来事であることを伝えている。
「人の血を使った実験をしていてね」
未久は、明るく声色で紡がれた生々しい内容にぎょっとした。
紅実はというと、大したことじゃないようにくすりと笑ってから、ゆっくりと顔をあげて、未久の視線に重ねた。
瞬間、人の血などというどうでもいい単語は消し飛んだ。未久は、ただただ紅実の瞳に見入る。取り憑かれたように。呑み込まれるように。吸いとられるように。その瞳は、余りに艶かしい。笑っているわけではなく、決して睨まれているわけではなく。見つめられている訳でもなく。ああ、少しだけ細められているその瞳は。心を覗き込んでいるようで。けれどもどこか遠くに想いを馳せているようで。幽微で。儚げで。秋愁としていて。
ハッと未久は、我に帰った。同時に、海斗の冒険記に書かれていたことを思い出した。
《この錬金術師は、心を簡単に捕らえる》
ああ、正にその通りだった。役者か、商人か、あるいはペテン師か。紅実というこの女性は……、いや、紅実というこの「女」は、自分の仕草が何を伝え、自分の表情が何を掴み、自分をどう使えば世渡りできるのかを、知り尽くしている。
未久は、これほど「魔性」という言葉が似合う人に、出会ったことが無かった。心奪われた。その艶かしい足取りに、その妖しげな微笑みに、その朧な眼差しに、その誘うような声色に、その全てに。画家として戦慄した。躍動した。そして。そして……。
魔性から抜け出た瞳を見て、妖艶な錬金術師はくすりと笑った。
「中々ね。この女性が、海斗が伴侶にしたい人?」
「そう」
「いいわね。私の瞳に魅了されない男と、私の瞳に魅了されない女。お似合いよ」
冒険家は女画家の横顔を見つめて、眉をハの字に困らせた。
「ありがとう。けど、恋人どころかまだ友達にすらなってくれそうにないから項垂れている」
「何かしようか?」
「何か出来るなら、ぜひお願いしたいね」
議題の当人は、そんな会話は耳にも入らず。せっせとキャンバスを用意して、錬金術師にモデルを懇願した。
錬金術師は二つ返事で快諾した。
「顔が出回ったら困るだろ?」
「大丈夫よ。あなたが心に決めた女性は、妄りにこの場所を明かすような絵は描かないわ」
錬金術師が冒険家の瞳を見つめ、くすりと笑う。
冒険家は、塔の絵を破いた女画家を思い出して、溜め息。君の洞察力には負けたよ、と力無げに零した。
「あの、何の話でしょうか?」
「あなたが絵画以外には当分心を奪われそうもないって話よ。ねぇ、海斗?」
錬金術師が振り返った先で、冒険家がこの上ない苦笑いを浮かべていた。
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