とある休み時間の事だった。


「たたたたた大変だああああああ!!」

次は自分の得意とする古文の時間なので上機嫌で机から教科書を掘り出していた我の耳に、その声は雷鳴のように響いた。即座に脳から発せられた信号に従い、ほぼ反射的に耳を手の平で覆う。キーンという音しか拾えなくなった耳を押さえながら、我は自分の机の傍らに息を切らせて立つ声の主を仰いだ。

「海斗殿…耳が痛いぞ。厠に間に合わなかったのか?」
「それどころじゃないんだって!!」

耳元で叫ばれ、また鼓膜が悲鳴をあげる。我の耳を一声で戦闘不能にさせるとは、海斗殿の声帯は一体どうなっているのか。

「海斗さん、お静かに願えませんか? 迷惑です」

我の隣から、流架殿が笑顔で話しかけてきた。だが、その顔は笑っていない。
直後、ぞわりと背中に悪寒が走った。

「か…海斗殿、何があったのだ?」

流架殿に見つめられたままだと怖いので、急いで話を切り替える。
笑顔で我を圧倒するのは芽衣子殿だけだと思っていたが、まさか流架殿もその技を持っていたとは。天も不公平な事をするものだ。何故、女性だけに男性を屈服させる力が備わっているのか。男性にはそんなもの無いというのに。

「めっめめめめめめめ…」
「海斗さん、貴方も日本人なら日本語を話して下さい」

あぁ、流架殿の視線が痛い。海斗殿、早く用件を申してくれ。

「めめめめーちゃんがっ…!」
「!」
「芽衣子さんがどうかしたんですか!?」

その単語が海斗殿の口から飛び出しただけで、その場の空気が一変した。
海斗殿のこの慌てぶりと、“めーちゃん”の単語から導き出される答えは一つ。
芽衣子殿に何かあったのだ。
芽衣子殿は先程数学の課題を提出しに出て行っただけだが、もしや道中でこの前のような輩に不意打ちを食らったとか…。
たちまち、緊張感が我ら三人の間に張り詰める。



「めーちゃんが…めーちゃんが…清輝先生と手を繋いでたっ…!」



その時、場が一瞬にして静まり返ったのは言うまでもないだろう。
いや、実際は他の生徒が友人と談笑する声などが聞こえていたが、少なくとも我らの周りだけは時間が止まったのではないかというくらい静かだった。

「……海斗さん、歯を食いしばって下さい」
「おおおお落ち着け流架殿! 気持ちは分かるぞ!?」

流架殿が右手で拳を作ったのを見て、我は慌てて海斗殿を庇うように立つ。

「流架ちゃん何で怒ってんの?」
「私は芽衣子さんに何かあったんじゃないかって心配したのに、脅かさないで下さい!」

流架殿の意見はごもっともだ。流架殿が居なければ、殴りはしないものの我も同じような事を言っていただろう。

「だって! めーちゃんが清輝先生と楽しそうに喋ってて…しかも清輝先生が手を握ってきたのにちっとも嫌そうな顔しないで笑顔で頷いて…『じゃあ明日また来ます』って言ってて…」
「今更ですけど清輝先生って?」
「数学科の氷山清輝先生だ。わりと最近着任してきた先生だな」
「ちょっと二人共! 僕の話聞いてよぉ!」
「聞いてますよ。それで、何が大変なんですか?」

流架殿も、そろそろこの話は打ち切りたいのだろう。半ば投げやりな口調になっている。その気持ち、我にも分かるぞ。

「何がって…だからめーちゃんと清輝先生が…」

少し顔を赤らめて、海斗殿はもごもごと話す。申し訳ないが、それでは何を言っているのか分からないぞ。
言い淀む海斗殿を暫く冷やかな目で見つめると、流架殿はおもむろに口を開いた。



「海斗さんって、芽衣子さんの事好きなんですか?」



疑問形になっているが、その言葉には確信がこもっている。答えをもう予測出来ているのだろう。
途端、海斗殿はそれこそ茹でた蛸(たこ)のようにかぁっと顔を赤らめた。

「いややややたた確かにめーちゃんは好きだけどアイスやがっくんや流架ちゃんだって好きだし…」

ぶんぶん手を振って必死に訴える海斗殿。だが残念な事に、呂律が回っていない。それ以前に、我々の好感度は海斗殿が毎日最低五つは食べるあの氷菓子と同位なのか。

「だったら何でそんなに動揺してるんですか?」
「だって、あのめーちゃんが先生の前ですっごい可愛く笑ってたんだよ!? いつも怖い顔で不良を蹴散らすあのめーちゃんが!」
「悪かったわね、怖い顔で」

何とも言い難い程絶妙なタイミングに、その声はその場に反響した。見る見る海斗殿の顔が、首に巻いたマフラーのように青くなっていく。

「で、あたしは海斗の許可を取らないと先生と喋る事も出来ないの?」

片眉を跳ね上げ、すっと細めた目で海斗殿を見つめる芽衣子殿。どこからか分からないが、聞いていたのだろう。必死に話す海斗殿に気を取られていたせいで、人一倍気配に敏感な我でも芽衣子殿の気配を感じ取れなかった。流石芽衣子殿だ。

「いや…そういうわけじゃ…」
「だったら変な事言いふらさないで」
「だっ…だったらめーちゃんは何で清輝先生の手を握ってたの!?」

おぉ、自ら芽衣子殿の地雷を踏みに行くとは。海斗殿の勇気に乾杯だ。
だが、

「はぁ? あたしが何しようが海斗には関係ないでしょ」

それに返した芽衣子殿の言葉は、海斗殿にとって致命的な一撃となった。気のせいか、海斗殿の頭に矢のような物が刺さったように見えた。

「恋人同士ならいざ知らず、あたし達は友達でしょ? それ以上でも以下でも無いわ」

しかし芽衣子殿は追撃の手を緩めない。海斗殿にとって効果が抜群であろう言葉の矢を、次々と放つ。

「それにあたし、束縛する男ってキライなのよ。束縛するって事は相手が自分以外の誰かを好きになるのが怖いから…つまり自分に自信が無いからでしょ? 男なら、どーんと構えなさいっての」

あぁ芽衣子殿! もう止めてやってくれ! もう海斗殿の体力はゼロだ! それどころか、海斗殿は絶望のあまり段々砂化していってるぞ!

「大体海斗はいつも…」
「めっ…めーちゃんの分からず屋あぁぁ!!」

涙と鼻水で汚れた顔を拭いもせず、海斗殿はうわあぁぁんと喚きながら教室を転がるように飛び出して行った。海斗殿が激情にかられて逃げ出す時はいつも気にして追いかけるのだが、今回はそっとしておこう。

「……何なの一体」

芽衣子殿は海斗殿が消えた教室の入り口を眺め、呆れながらそう言った。芽衣子殿の中での海斗殿の地位を少しでも上げる為、ここは親友(とも)として我が海斗殿の潔白を証明せねば。

「芽衣子殿、海斗殿に悪気は無い。只、芽衣子殿が清輝先生と手を取り合ったところを海斗殿は目撃したそうなのだ」
「『じゃあまた明日来ます』と芽衣子さんが言ったのも聞いたみたいです」

総攻撃を受けた海斗殿を少し気の毒に思ったのか、流架殿は助け舟を出してくれた。



「……それって、あたしが清輝先生に兄貴のサインあげるって約束した時の事?」



またもや場が静まり返ったのは、もうお分かりだろう。
何故、この二人は空気を変えるのがこんなに上手いのだろうか。因みに誉めてはいないぞ。

「さ…サインですか?」
「言ったでしょ? あたしの兄貴はプロの空手家だって。それで、どうやら清輝先生は兄貴のファンらしくて、あたしに兄貴のサインをくれるよう頼んできたのよ。で、承諾したら凄く嬉しそうに手を握って来たってわけ」
「そ…そうだったのか…」

完全に海斗殿の早とちりではないか。なんと人騒がせな。

「それでは、海斗さんが誤解をしていたんですか…」
「そうよ」

盛大な溜息を漏らすと、芽衣子殿は持ち主の居なくなった椅子に腰を下ろした。

「何なのあいつ…自分は警戒心ゼロなくせに、あたしに近づく男はばっちり警戒して…」
「しかし、海斗殿は心配だったのではないか? 芽衣子殿に悪い男が近寄るのが…」
「悪いのはあいつよ」

芽衣子殿は清々しい程ばっさりと言い切った。
……海斗殿が退場していて良かったと思う。

「勝手に勘違いしてるあのバカイトが悪いのよ。勉強教えてって言ったくせに自分は変な雑誌読んでたりするし…ちょっとアイスをつまみ食いしたら子供みたいに大泣きするし…弱っちいくせにあたしを護ろうとして怪我するし…」

至極不機嫌そうに話す芽衣子殿。だが、そこには嫌悪の念が微塵も感じられない。寧ろ、その話し方には頼りない弟を心配する姉のような優しさが滲み出ている。

どうやら、我が気遣う必要は無いみたいだ。

アイスの染みが残る机を見下ろし、芽衣子殿はふっと笑った。



「ホント馬鹿よね…海斗って…」



この部屋に居ない人物に向かって呟かれた言の葉は、少し嬉しげな色を含んでいた。




* * *

「うぅ…めーちゃんの分からず屋っ…」

勢いで教室を出て来てしまった僕は、戻るに戻れず廊下をうろうろ歩き回っていた。通りすがりの生徒が、廊下を行ったり来たりする僕を不審な目で見てくるけど、そんなのどうでもいい。

「めーちゃんのばかっ…めーちゃんのどんかんっ…めーちゃんの…」

その名を言えば言う程目頭がつんと熱くなり、視界が歪む。



めーちゃんに嫌われた。



それは僕にとって、アイスを丸一日食べれない事よりも過酷な事だった。
僕はめーちゃんが大好きだ。勿論、アイスやがっくんや流架ちゃんだって好きだけど…めーちゃんを“好き”はそれらと少し違うんだ。

どう違うのか分かんない。

そして、めーちゃんと清輝先生が手を取り合った時に沸き上がった、怒りとも悔しさとも呼べない感情が何かも分からない。

只、めーちゃんが先生に微笑んだ時、言い様のない不安が胸を支配したんだ。



だって、僕の前じゃめーちゃんはあんな風に笑わないから。



僕は廊下の壁にもたれると、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。

「…ばかだ…僕…」

めーちゃんの言った通り、僕は自信の無い小さい男だ。力も器も無い僕じゃ、めーちゃんを護れない。それこそ、がっくんみたいに強くなきゃ、不良と戦うめーちゃんを護る事なんて出来っこないんだ。



「咲音さんって、良い身体してますよね」



ふと、そんな声が壁ごしに聞こえてきた。『咲音』と言うワードに反応して、僕の耳は自動的にその声を拾う事に集中する。

「氷山先生って、本当に咲音さんが好きですね」
「それは勿論、初めて見た時からずっと好きですよ」

どうやらこの声は清輝先生みたいだ。もう一人は、保健室の弱音白先生かな。
でも、それより重大な情報を僕は入手してしまった。



清輝先生がめーちゃんを、好き…?



ごくりと唾を呑み込み、僕は壁にぺたりと張り付いて聞き耳を立てる。どくんどくんと脈打つ心臓の音が、間近で聞こえているみたいだ。

「…確かに健康的な良い身体をしてますね」
「でしょう? 凄いですよね」



い…イイカラダ…!?



その言葉が僕の頭をぐるぐると駆け巡る。

た…確かにめーちゃんはイイカラダしてるけど…ナイスなバディをしてるけど…!

冷えた熱が瞬時に復活し、顔に集まっていく。
僕は慌てて走り出した。

危険だ。めーちゃんに清輝先生を近づけるわけにはいかない。



僕が、めーちゃんを護らなきゃ…!


ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

巡り会えたこの場所で 6

先生ごめんなさい。
初登場なのに誤解を受けるような扱いしてごめんなさい。

あ、兄さんは通常運転なので問題無いです。


というわけで、話の本筋とは関係無いけどカイメイです。
一話完結させるつもりがまさかの二話になるという…orz

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閲覧数:639

投稿日:2010/04/18 01:05:37

文字数:4,628文字

カテゴリ:小説

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