「貴方の言葉は、甘いだけの砂糖菓子。口に含めど後には何も残りません」

 彼女はそう言って、短い髪を掻き上げた。

 雨の多い土地、襖の外からは絶え間無い雨垂れの音が伝わって来る。
 その音を背に、俺は小さく苦笑した。



<それは終わる事なく・レン>



「それはまた手厳しい」
「率直に言え、とおっしゃったのはそちらでしょう」

 強い瞳で俺を見つめる美しい少女。流石この宿の一番を誇り、界隈一の美女であるミクと肩を並べるだけある。
 ただしミクとリンでは性格が随分と違うというのも周知の事実。
 可憐で大人しくたおやかなミクと、優雅で激しく鮮やかなリン。正直、何も知らない状態でこの二人をぱっと出されて「さあどちら?」と問われたら、俺は間違いなくミクを選ぶ。だって、やはり大和撫子は夢だろう。男の。
 ただ、現実はそう上手くは行かないもので…

 俺はそっと上目使いで、目の前にしどけなく座る少女を見た。
 取り繕おうとはしていないのがよくわかる、無関心で自然な仕種。そのくせ童女の様な天真爛漫さの影に背筋が粟立つような妖艶さを感じさせるのだから、全くたいしたものだと思う。正に花、こちらにうなだれたところを摘み取ってやりたくなる。

「それにしてもなに、リン。お客様をそんな風に見ているの?ミクとは大違いだ」

 ミク、と名を出すと、白い肩が跳ねた。まあ、共にこの街の「一番」を争う者同士、相手を意識して当然だろう。
 面白くてリンを見ていると、呆れたような瞳が返って来た。てっきり反論が来ると思っていたから、少し意外に感じる。

「…私だって心のある言葉を掛けられれば心を込めて返します。貴方はもう少しご自分を省みた方が宜しいのでは?」
「そんな小憎らしいことを言うのなら、もう来てやらないよ」
「私がお気に召さないのでしたら、どうぞ、そうなさって下さい」

 つい、と逸らされる顔。その珠のような肌と伸ばされた首筋の線が余りに美しくて、手を伸ばして柔らかな布団に押し倒す。

「リン」

 耳元で小さく囁く。
 お決まりの睦言の裏に、一かけらだけ真摯な想いを込めて。

「俺は、君を」



 言葉を続けることは叶わなかった。

 唇を塞ぐ、柔らかく甘い感触。それが彼女の唇だと理解した瞬間、胸の奥から熱い衝動が込み上げて来た。
 噛み付くように口付けを返す。

 言葉を封じられただけだ、というのは分かっていた。
 間近で見詰めた彼女の瞳には―――俺が手にしたどの娘とも違い、陶酔の色など微塵も無かったのだから。





 最初にこの街に足を運んだのは何時だっただろう。
 良く覚えてはいないが、そう昔の事ではなかったと思う。

 最初は、現実逃避の手段の一つだった。
 ちやほやされるのが嬉しくて、愛しているという睦言は心地よくて、花園に溺れるのに時間は掛からなかった。
 愛だの恋だの、俺にとっては遊びのようなものだ。母譲りの顔で囁けばどの娘も頬を染める。
 けれど―――幾らこうして夜咲く花を手折ったところで俺の何が変わるわけでもない。
 長兄の背を越えることは出来ず、次兄の様には生きられず、只半端ものの三男として眉を潜められるだけ。
 それが酷くもどかしい。何もせずそう思ったところで無責任な焦躁でしかないけれど、なら俺は一体どうすれば良いのだろう。
 今更何をしても遅いのかもしれない。大体、最初に顔を背けて安易な道に逃げ込んだ俺に、今更歩むべきだった道に戻ることなんて許されるのだろうか。

 ああ、ああ。
 誰か教えて欲しい。どうすれば良いのか。
 俺が望んだものは、こんな安易で怠惰な破滅への道ではなかった筈なのに。

 なのにどうして。
 どうして俺は―――…

 いつの間にか心の底に巣食っていた、自分への強烈な嫌悪感。それはじわりじわりと胸に染み出し、俺はその感覚を忘れる為にまた花を食い散らす。それでは何も変わらないというのに。
 俺が花に微笑みかければ、どんな形であれ必ず甘い蜜を口にできる。
 なのに、段々その甘さに嫌気がさして来た自分を、自分自身で気付いていた。
 でも俺は、他にやり方を知らなくて…

 そんな時。


「お子様は家に帰るべきでは?」


 ―――突然そう言ったのが、リンだった。

 それまでに何度も肌を重ねていても、今一つ甘さを見せない娘だったから印象には残っていた。
 でもそれは単に矜持のせいであって、何時かは俺に靡くだろう…そうも思っていた。驕っていた、と言っても過言ではなかっただろう。
 だから、その時の俺は笑って尋ねた。

「子供って。俺の歳はリンと同じだと思っていたけれど」
「叱られるのを待って悪戯を繰り返す、そういうのを子供と言っているのです」

 俺はその時に初めて、リンの顔をしっかりと眺めた。
 綺麗、と。ただそうとしか見ていなかった顔立ちが、全く違ったものに見えた。

「…俺が、そうだと?」
「ええ、顔に書いてあります。…逃げても何も良くならないのは病と同じ。遅かろうか何だろうが、手を打てば悪化は遅れるでしょう。手遅れにならないうちにさっさとお帰りなさい、と言っているのです」
「今までそんな事言われた試しがないけれどね」
「そのお綺麗な造作に皆見とれていたのでしょうね。無理もない」

 褒められているのだろうに、全く褒められている気がしない。
 俺と同い年の娘だとは思えなかった。
 多くの人と接しているからだろうか、ずっと年上の様な気さえする。
 俺にはない、余裕。そしてそれを支える―――その心。

「…ねえ、リン」

 ふと頭の中に浮かんだ事を、俺は特に何も考えずに口にしていた。

「俺は君を愛している、と言ったら、どうする?」
「あら」

 リンの瞳に、小さく光が閃いた。
 面白がるような、嬉しがるような、欝陶しがるような、痛みを堪えるような…そのどれでもなく、どれでもある光。

「私も勿論、レンを慕うていますとも」
「…本気?」
「お聞きになりたいのは、本音と建前のどちらですか?」

 つまりそれは、本心は表に出している感情とは大分違うということ。俺が気分を害さないだろうと分かっていての事なのか分からないが、驚くほど率直なことだ。誤魔化す事は嫌いなのだろう。
 袷の乱れた服をそのまま、俺はリンを組み敷く形で首を傾げた。

「冷たいな、心からの愛なのかもしれないのに。嬉しくないの?」
「お戯れを」

 直ぐにでも情事に縺れ込みそうな状態だというのに、腕の中に閉じ込めた白い顔は驚くほど平静な色を湛えていた。
 声もまた、同じ。

「貴方は私を愛していない。上辺ばかりの愛の告白は、私には唯々虚しく聞こえます」

 名の通り、凜、と輝くような強い眼差し。
 そこにはあの、他の娘達にあった、全てを曖昧にするような緩やかな甘さはなく―――飾り気ないだけに内側から滲み出る輝きが、はっきりと感じられた。

 初めは、ただの興味だった…と、思っていた。
 でももしかしたら、俺はその時には既にリンに恋をしていたのかもしれない。





 俺はその夜を境にして、他の娘に興味を持てなくなった。
 美しいかんばせも甘やかな言葉も、以前のように心を満たしてはくれない。
 頭を占めるのは、つれないけれど情の深い言葉と鮮やかな微笑み。回された腕の優しさと、不釣り合いな程に華奢な身体。
 逃げられれば追いたくなる、その男の性を上手く利用されたのだという疑念も拭えない。
 ただ、彼女がそこまでの駆け引きを楽しむ性格かと考えると…否。寧ろリンが好むのは真っ向からの直球勝負だろう。
 そして、だからこそ、今の俺の言葉ではリンの心は揺らがない。
 何度も彼女と夜を過ごし、それを確信した…してしまった。
 今の、踏み出すことが怖くて、想いを軽薄な冗談に紛らわそうとする俺では、言葉を受け止めてすら貰えない。


 応えて欲しいなら変わらなければ。
 痛みを怖がらずに踏み出せる、自分に。


 そして俺は初めて、欲しいものの為に動いた。


 他の娘に手を伸ばす事なく、ただリンだけの元に通い、真面目に家業を学ぶ。そんな俺を、家族は歓迎してくれた。
 遅くなろうが、やらないよりはまし。リンの言葉は、少なくとも俺には有効だったらしく、勉強は意外とすんなりと身に付いた。正直嬉しい。

 何かしたら、その分応えてもらえる。
 本当はそんな優しい世界にいたのだと気付いた時、泣きたくなった。

 そして、出来るなら常に俺の隣にリンが居て欲しいと…そう、強く思った。

 身請けは出来ない。したいに決まっているけれど、少なくとも今は不可能だ。俺自身の使える金額はたいした事はないし、私欲で家を動かすなんて以っての外。
 だから、じっと待った。数ヶ月に一度、忍ぶようにリンに会いに行くのを慰めとして、燻るようにじわじわと胸を焼く思いを糧にして。
 家にいるようになったせいか、縁談も幾つも舞い込んで来る。
 でも、そのどれも受ける気にはならなかった。
 どうせ家の体面を保つための結構は、とうに長兄が済ませている。しかも夫婦仲は睦まじいのだから文句の付け様もない。俺は好きな様に相手を選ぶことが出来る。

 だから…どうしても諦められない。

 あの、闇に咲く一人の娘を。






 なのに、別れは突然に訪れた。



 その日も、俺はリンに会いに行っていた。
 氷雨の降る冬の夜、しかし宿の中は春かと思う程に温かかった。
 俺は薄闇に浮かぶ数か月振りの愛しい姿に心を躍らせ―――

 ―――そして、異変に気付いた。

 その顔を覗き込んだ瞬間に目に飛び込んだ、リンの強い瞳に満ちる絶望の色。
 何故そんな顔をするのか、俺には分からない。
 リン、リン、何があったんだ。

「リン、どうかしたのか」
「…いえ、別に」

 青い瞳が憂いに沈む。
 厭わしげな目は―――こちらを、意図して避けている。

 それに気付いた時、世界が真っ暗になるかと思った。
 喉が一瞬で凍り付く。

「…リンは、俺を嫌っているのか?…その…」
「いえ!」

 思いがけない程激しい否定の言葉に、俺は思わず目を丸くする。
 しかしリンの声に驚いたのは彼女自身も同じだったようで―――リンは、真っ青になって口元を押さえた。
 沈黙が、闇を満たす。

「…リン?」
「…」

 灯の下、リンは何度も口を開き、閉じる。
 その余りの悲壮さにその肩を抱きしめたくなるも、触れた途端に拒絶されたらと思うと…動けない。
 唇を噛む。

 ―――俺は、まだ、「こう」なのか…!

 数分とも数時間とも分からない沈黙を破ったのは、リンの囁きだった。
 何時もの張りのある声とは違う。それは別人かと思うほどにか細く、弱々しい声だった。

「違…本当に私は、貴方を嫌ってはいません。でも…駄目、もう駄目なのです…貴方と、普通に接せない」

 青い瞳が強く閉じられる。
 場違いにも、俺はその長くしなやかな睫毛に見惚れてしまった。
 こんな時でさえ、リンは美しい。
 それに気付いた時、胸が痛くなった。

 俺は、彼女なしに生きていく自分を想像出来ない。

「お願い、…お帰り下さい。そしてどうか、もう私の元へはいらっしゃいませんよう。貴方なら喜んで迎える娘は数多くいらっしゃるでしょう」


「……分かった」

 口から出たのは、思ったよりも平静な声。
 心とは繋がっていないかのように、声帯は何時もの通りに震えた。

「ならば俺は君の願いを受け入れ、もうここには来ない。代わりに、とは言いたくないが…リン、何故そんなに辛そうな顔をしているのか、教えてはくれないか」
「…」

 一瞬リンの視線が泳ぐ。しかし、彼女はさほど躊躇いを見せずに口を開いた。
 もしかしたら彼女もまた、心と体が噛み合っていないのかもしれない。

「…約束、を」
「約束?」
「ええ。今までレンに言ったことはなかったけれど、私はずっと約束が果たされる日を待っていました」

 艶やかな唇が息を吸う。
 そしてその喉から絞り出すように、悲痛な声が漏れた。



「でももうその日は…遥かに遠くなってしまった…」



 駄目なのか。
 俺は、読み取ってしまった。リンの沈んだ瞳の中に映る、彼女の心を。

 ―――あのひとでなければ、約束は果たせない。



 そしてそれは、俺ではない。









 文字を書く手を止め、窓を濡らす雨を見詰める。
 彼女は言った。もうここに来ないで欲しいと。
 俺はその言葉を受け入れた。
 そのかわり、俺は、リンが勤めを終える日を待つ。あの宿には行かない、代わりにリンをここに連れて来るのだ。
 それが言葉遊びに過ぎなくとも構わない。
 もし年季が明けるまでリンがあの場所に居たなら、その時は俺の我が儘に付き合って貰う。
 ―――無理にでも。

 燻り続けた俺の恋心は、何時の間にか手段を選ばない暗い熱へと変わっていた。

 最近、考える事がある。俺を愛していると言ってくれた人達の中に、もしかしたらこれと似た思いをしていた娘も居たのかもしれない、と。
 思い上がりかもしれないけれども、もしもそんな娘がいたのなら…俺はどれだけの苦痛をその娘に与えていたのだろうか。



 想えば叶う、それが世界の理ならどれだけ良いだろう。
 現実には、それはただの夢見事だ。
 俺が想いを寄せてくれた人達に想いを返せなかった様に。
 俺が想いを寄せた相手が、この手を取るのを拒んだ様に。
 リンが少しでも俺を愛しているのか、愛してくれるのか、それは分からない。あれだけ多くの女性と付き合っておきながら、俺はリンの心を理解できない。
 それでも、俺が彼女を愛しているのは事実だ。
 待てというなら幾らでも待つし、望みがあるならそれに縋りたい。たとえそれがどんなに儚い望みでも、縋ることを止められない。



 俺は、雨が降るたびに夢見る。
 初めて愛した君を、真実この手に抱く日のことを。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

それは終わる事なく・レン

レンはリン以外を恋愛対象として見ていません。というか、本気での恋を向けられていたとは思っていませんでした。
なのでミクの気持ちには最後まで気付かなかった。そもそもミクの最期の時辺りは、リンの所にしか行ってません。

恋闇楼を聞いて、レンのコンプレックスにめちゃくちゃ共感しました。
先達が優秀だと苦労しますよね…わかります…

閲覧数:1,452

投稿日:2011/02/16 04:29:22

文字数:5,777文字

カテゴリ:小説

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