教会の鐘がその大きな音を二回響かせた時、私はルシフェニア王宮の厨房にいた。
レヴィン大教会の鐘は、王都ルシフェニアンのどこにいても判別できる。この王宮にもすぐ何時かわかってしまうほど大きな音が届くので、教会の周辺で鐘の音を聞けば耳が壊れるのではないかと、この国にきた幼い頃の私は感じたほどだ。不思議なことに、教会の周辺で鐘の音を耳にしても、「もうこんな時間なのか」と思うだけでそれほど大きな音には感じない。世の中には不思議なことがあるものだ。
献立を考えるのは時間がかかるのに、いざ調理を始めると次の行動が何か考えずともこの体はスムーズに動く。使用人の仕事は天職なのではないかと感じるほど、私は自分の仕事に自信を持っている。
それは養母であり侍従長マリアムの教育のおかげでも、数年間侍従をやっていた慣れからくるものでもない。なんだか遠い昔、誰かのためにひたすら料理を作ったり、家畜の世話をしたり、主に仇をなす邪魔な人間を排除したり……そんなことをやっていた気がするのだ。私にそんな記憶はないのに。
「あ、ネイ。お疲れ様ッス。リリアンヌ様のおやつッスか?」
「お疲れ様、シャルテット。今日はマドレーヌにしてみたの。エルフェゴートに行った時、とても上手に菓子を作る人がいてね。レシピを覚えたから、ぜひリリアンヌ様にも食べてもらいたいなって思って」
「へえー。私も食べてみたいッス。有名な菓子職人にでも話を聞いたッスか?でもエルフェゴートにそんな噂はなかったような……」
「ああ、その人は使用人なの。料理がとても上手で、その時はガレットを食べたんだけど、これがまた本当に美味しくて。あの人ひとりで店を開いてもいいくらいよ」
「あー!羨ましいッス!ネイだけズルいッス!」
「いや、別にお菓子を食べにエルフェゴートに行ったわけではないからね?」
同僚のシャルテットが調理器具の後片付けを手伝い始める。今でこそ慣れたものだけど、時々彼女は持ち前の馬鹿力で何かを破壊することがある。先日は花瓶を割ってマリアムに苦笑いをされていた。
考え事をしていても手は勝手に動く。今日のリリアンヌ様のおやつ当番は私だ。本当は同じように新しく覚えた別のブリオッシュのレシピを試したかったが、昨日のメニューがブリオッシュだったので献立が被るのを避けた。いくら日によって作った人間が違っても、リリアンヌ様は製作者のことよりも味が気になるらしい。よほどその料理にハマっている時期でなければ、一度でも同じ料理が続くと彼女の機嫌を損ねることになる。
「最近はリリアンヌ様の機嫌が悪いッスから、おやつの時間くらいは笑顔でいてほしいッス」
「無理もないわよ。緑の娘が見つからない以上、カイル様の心が自分に向かないとずっと突きつけられているようなものだもの」
「使用人は政治のことに口を挟むべきではないッスけど、今も人が殺されていると考えるとやっぱり悔しいッス。私達は、ただ雇い主の世話をするしかできないッスから」
緑の娘が見つからないというのは表向きの話だ。私は緑の娘が誰か知っている。先日、キール邸に諜報に向かった際に掴んだ情報だ。その時にレシピを仕入れたが、その考案者ともう二度と会うこともないだろう。いずれ彼女は親友を失うのだから。
おやつをリリアンヌ様の元に届けた後、あまり人がいない時間を見計らって場所を移し、緑の娘の情報を伝えるつもりだ。エルフェゴートの歌姫・ミカエラを私の手で殺すことになる。そうなれば、彼女に思いを寄せるアレンはどう思うだろうか。
偉大なる王・アルスとアンネ、彼女たちルシフェニア前王夫婦はもういない。赤猫の魔導師が仕組んだ病で命を落としたから。
勇敢な騎士団長・レオンハルトはもういない。私がリリアンヌ様に情報を吹き込み、アレンをそそのかし、殺させたから。
悠久の魔導師・エルルカはもういない。弟子を連れて逃げて行ってしまったけれど、もう一人の弟子であるミカエラはもうすぐ消える。
侍従長マリアムはまだ生きている。いずれ計画の邪魔になるから、どこかで隙を見て排除できればいいのだが。
「マドレーヌ、焼き上がったみたい。折角だからシャルテットも味見していってよ」
「いいッスか!?じゃあ、お言葉に甘えて一口……本当だ、最高ッス!きっとリリアンヌ様も喜んでくれるッスよ!」
「ありがとう。私、シャルテットが作るおやつも好きよ。機会があればレシピを教えてあげるね。じゃあ私、そろそろ行くから」
マドレーヌを皿に盛り付けてお盆に乗せる。さて、これから恐れ多くも偉大なるリリアンヌ様に届けに行かなくては。
きっと、マーロンにいる「お母様」の命令で赤猫の魔導師や私が、大切な人の命を奪い続けていると知ったら、アレンはどうするのだろう。正義感の強い彼は、私に刃を向けるだろうか。それとも、別の誰かを身を挺して助けに行くのだろうか。
私は知っている。彼は一介の召使などではなく、ルシフェニアの王子でありリリアンヌ様の双子の弟だと。私は様々な情報や噂を仕入れてきた。噂好きの使用人を装って、私たちに都合のいいようにリリアンヌ様へある事ない事を話した。そのお陰で余計な意見を持つ大臣や目障りな他の使用人を消すこともできた。
一介の使用人が実は大国の運命を操っている。だけど私もまた、「お母様」の手駒に過ぎないのだ。私が真の意味で自分をさらけ出すことはできない。本当の身分を名乗れば、私は存在する事を許されないから。誰も私自身の意思を聞いてはくれない。こんな生まれ方でなければ、アレン達ともっと違う方法で出会い、仲良くなれていたのかな。
我儘三昧で国民の嫌われ者のリリアンヌ、「悪ノ娘」は孤独だ。
だけどそれを影から操る私もまた「悪ノ娘」。誰かの影に潜み、その糸を引く者。私自身は役割を買われているだけ。本当の私を好きな人はこの世界に一人もいない。
孤独を背にしてでも、私は科された任務を果たさなければならない。
いつかマーロンに帰る時、それは「お母様」にとって邪魔な「三英雄」「悪ノ娘」を消した後だろう。
共に笑い合い話をした人達の笑顔を奪うのは酷く心苦しい。だけどそうしなければ私の居場所はない。あの人に認めてもらえない。あの人のためだけに存在する私は、あの人の道具であり続けなければいけないのだから。
──ああ、いったいどこで歯車を間違えてしまったのだろう。
本当はリリアンヌ様、アレン、シャルテット、みんなと楽しく話をしていたいだなんて、そんな余計な感情を得てしまうだなんて。
それは許されない。緑の娘を殺し、終わりの引き金を引かなければいけない。
私は人形。あの人の操り人形。ただそれだけなのに。
どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
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