『――ありがとう、思い出してくれて』
彼はそう言って、私に優しくキスをした。
何もできずに固まったままの唇に、微かに触れるような感覚。
胸の中に広がる懐かしさと嬉しさと愛おしい感情が、私の心臓をキュウと締め付けた。
今日は日曜日。
いつもより少し遅く目が覚めた私は、ゆっくりと起き上がるとのそのそとベッドから降りる。
あくびを一つ。
トイレに行って用を足し、キッチンへ。
食べなれたシリアルを棚から取り出し、冷蔵庫を開け牛乳パックを手に取る。
キッチンから数歩のところに置かれた木製のテーブルで眠い目をこすりながらシャクシャクと朝食にありついていると、
同じく眠そうな目をした小さな娘がゆらゆらと近づいてくる。
「おはよう」
「おはよお、ママ」
娘は手のひらで半開きの目をひとこすり、ふたこすりすると、ゆっくりとほほ笑んだ。
「パパはまだ寝てるの?」
「うん、パパおきてないよ、いけないよね」
「全くもう。パパ起こしてきてくれる?」
「うん、もうおきるじかんなのにねてたらわるいこだよね。」
娘はそう言うとスタスタと寝室へ戻り、まだぐっすりと眠っている夫に勢いよくダイブした。
「うごふッ!」
「パパー!もうあさだよ!おきなきゃだめなんだよ!」
「…う、う、ん…」
「ママー、パパおきない!」
キャッキャと楽しそうに戻ってきた娘を椅子に座らせると、娘の目の前に小さいボウルを置きシリアルをザラリと入れた。
娘が朝ご飯を半分ほど平らげたところで、ようやっと夫が目を覚ます。
「パパー!おはよお!」
「おはよう」
夫は自分用のシリアルを自分で用意すると、もそもそと食べ始めた。
テレビから子供番組の楽しそうな音が聞こえる。
「じゃあ、行ってくるよ」
スーツに着替え、ネクタイの位置を調節しながら夫は娘の方を見た。
娘はテレビにかじりつきながら「ん」とだけ返事をする。
「…じゃあ、ね、行ってきます」
少し寂しそうに夫が呟くと、娘は一瞬だけテレビから視線を外し
「いってらっしゃーい!」
大きな声で手を振る。
「いってらっしゃい、気を付けてね」
「うん」
私は玄関先まで夫を見送ると、扉が閉じるのを確認してから居間へと戻った。
…そんな、いつもと同じ、日常。
そう、穏やかでいつもと特に変わりのない一日。のはずだった。
…眠れない。
今日は一日中娘と家の中で遊んで過ごしていて昼寝もしなかったのに、何故か目がさえて眠れない。
いや、正確には少し眠った。娘を寝かしつけるために一緒にベッドに横になって、数時間は眠りに落ちていた。
それが突然目が覚めてしまい、今やさっぱり眠りにつけなくなっている。
今何時だろう…枕元に無造作に置かれたスマホを手に取り電源を付けると、0:30。
これはまずい、明日…もう今日か、月曜日からまた娘の保育園があるから早く起きないといけないのに。
慌てて目をつぶって眠ろうとする。が、眠れない。
薄目を開けて暗い天井を確認し、また目をつぶる。
キャッチーなメロディが脳内で再生され、あれ、これはなんの曲だっけ、どこかで聞いた事あるような、
そうそう、あのCMの曲だ、等と考えては睡魔が遠ざかっていくのを感じて慌てて頭を空っぽにする。
そんな事を繰り返し繰り返し、またスマホの電源を入れてみると既に2時間が経っていた。
…非常に、まずい。
なぜこれほどまでに寝ることができないのか、焦って原因を考えるが、その考える行為が余計に眠気を追い払ってしまう。
まさに、負の連鎖、『眠れないスパイラル』に捕らわれた時、それは起こった。
身体が…動かない。
微かに首を左右に動かすことはできるのだが、首から下はまるで人形のように動かない。
おお、これは金縛りというやつか。などと冷静な自分がいた。恐怖は一切感じない。
むしろ、懐かしいような、心臓がこそばゆいような、そんな気さえしていた。
一体なぜだろう。
ふと、実家で暮らしていた数年前のことを思い出した。
あれは、今と同じ、肌寒さが感じられる秋ごろのこと。
私の心はいつも寂しく、冷たかった。
当時学生だった私は、反抗期もあってか母親と仲が悪く、顔を合わせれば喧嘩するような日々を過ごしていた。
弟と比べ、私への接し方には棘を感じ、差別されているような感覚があってとても嫌だった。
あれはダメ、これもダメ、弟はいいけど私はダメ。
今思えば『娘』ゆえの母なりの心配だったのだろうが、私にとっては辛く、苦しいものだった。
父親は私が幼いころに離婚しその後行方知れず。子供にかまってくれるような優しい人でもなかったし、なにより外に『女の人』を作って
私たちを捨てていったような人間なので幼心でも「どうでもいい」と思っていた。
それゆえに、私は父や母からの愛情を感じ取ることができずに暮らしていた。
恋愛にもほど遠く、周りで付き合ったり別れたりして経験値を稼ぐ同級生たちを羨む事くらいしかできなかった。
私は、愛されることに、飢えていた。
そんな時、ある夜それは起こった。
頭だけ冴えていて、体が動かない、金縛り。
ああ、誰かが迎えにでも来てくれたんだろうか。
誰からも愛されない自分なんて、いなくても誰も悲しまないだろうし。
もしかしたら、このまま目をつぶればその『誰か』が連れて行ってくれるのかもしれないな。
そんな自暴自棄な事を考えていると、小さな声が聞こえてきた。
「そんな事ないよ」
…え?なに、いまの。
「そんな事、ないよ」
男の人の、声がした。
「なんでそんな事考えるの。君はまだ、生きてるのに」
うっすらと目を開けると、そこには私の顔を覗き込む、
(ほ、骨!?)
ぼんやりと淡い青緑に光る骸骨がいた。
(え、なに、誰!?)
「怖がらないで」
寂しげに声が響く。
「ぼくは、君に呼ばれてきたんだ」
(私が、呼んだ!?…ああ、死神?)
「いや、ぼくは死神じゃない。ぼくは」
「…幽霊、かな。自殺、したんだ…」
学校の理科準備室に置いてあるような、人骨標本のようなそれは、動かない私の身体に馬乗りになるようにして顔を覗き込んでいた。
「ねえ、なんでそんな悲しい事考えてるの」
目玉の無い二つの黒い穴が、悲しそうにゆがむ。皮膚も筋肉もないただの頭蓋骨のはずなのに、そう感じられた。
不思議と恐怖はない。
(…だって、私は誰にも必要とされてない)
(誰も私のことを見てくれない)
(誰も…私のことを好きになってくれない)
(そんなの、生きてる意味ないじゃん)
思って、目頭が熱くなる。
今まで自分の中に押し込んできた感情が、今にも流れ出してしまいそうだ。
「ねえ、そんな事、ないよ」
唇も舌もないその骨から、切なそうな声がした。
「だって君はまだ、生きているでしょう?」
(…どういう、こと?)
「…実はぼくも、君と同じなんだ」
カタカタと青白い歯を小刻みに鳴らしながら、骸骨は言葉を紡ぐ。
「ぼくも…誰にも見てもらえない、誰にも必要としてもらえないと思って、自殺したんだ」
「でも、それは間違いだった…だって」
スルリと骸骨の腕がベッドをすり抜け、私の背中に回される。
「幽霊になってしまったら…死んでしまったら、こうやって君を抱きしめることができない…!」
骸骨の肩が微かに震えている。
「ぼくと同じ≪気≫を感じて、ここに来たんだ…ぼくも寂しかったから、君の≪気≫に引き寄せられて、ここまで来た」
「そしたら君が…ぼくと同じことを考えてて、ぼくと同じ悩みを抱えてて、寂しそうにしてて」
「気がついたら、声をかけてた」
「君の≪気≫に触れて、感情に触れて、心臓はないはずなのに、こんな骨だけの身体のはずなのに、切なくて、」
「胸が、苦しくなった」
ギュっと私を抱きしめる感覚が伝わる。
「ねえ、ぼくは…きみが、すきだよ」
そう言われた瞬間、涙がとめどなく流れ出した。
誰かに必要とされたかった、誰かに「好きだ」と言って欲しかった。
そうすることで、自分に存在する価値があることが分かるから。
ここに、居てもいいと感じることできるから。
「だから、生きて」
骸骨は言った。
「ぼくは、君が好きだよ。だから…ぼくみたいにならないで欲しい、生きていて欲しい」
胸が締め付けられるような感覚に襲われながら、私は涙でぐしょぐしょの顔を骸骨に向ける。
(私を、そっちに連れて行ってよ)
(せっかくあなたにそんな風に思ってもらえたのに、私はあなたを抱きしめることができない)
「ダメだよ、ぼくは死んだことを後悔しているんだ。生きていれば、ちゃんと君を抱きしめることができたのに、」
「…ぼくには、それができない」
(だから、私が、)
「それは、ダメ。」
骸骨は私の髪を優しく撫でると、ゆっくりとキスをした。
「生きて、愛してもらって欲しい、幸せになって欲しいんだ」
「君が、好きだから」
決して温もりなど感じるはずのない骸骨から心地よい熱を感じ、私はまた涙があふれた。
「そろそろ夜明けだね、行かなきゃ」
窓の外を見ると、僅かに空が白んでいた。
(待って)
(…もう一度だけ、キスして)
(…お願い)
「…っ」
切なそうにゆがむ頭蓋骨が、私の下唇をついばむ。
それは下にゆっくりと降りていき、左の首筋にも落とされた。
ギュゥっと心臓が押しつぶされるような感覚に、私はぎゅっと目を閉じた。
「寂しいときは思い出して。ぼくはいつでも君の傍にいるから…」
(…それで、いつの間にか寝ちゃってたんだよね)
「そんな事もあったね」
目の前の骸骨がくつくつと小さく笑う。
(なんで今ごろ思い出したんだろう。大切な体験だったはずなのに)
「ぼくは嬉しいよ」
(なんで?忘れられて怒るところじゃない?)
「ううん、まさか。だって…」
「ぼくが必要なくなるくらい、君は今《寂しくない》ってことでしょう」
(!)
「本当に良かった、大好きな君が、幸せになってくれて」
暗く空いた眼窩に優しい色を感じて胸が鳴った。
窓の外では、月曜日の一日が段々とやってくる音がする。
「もう、本当に行かなきゃ」
(…そう、)
「…最後に、」
徐々に解かれる身体の緊張とともに、骸骨の声も小さくなっていく。
『――ありがとう、思い出してくれて』
彼はそう言って、私に優しくキスをした。
何もできずに固まったままの唇に、微かに触れるような感覚。
胸の中に広がる懐かしさと嬉しさと愛おしい感情が、私の心臓をキュウと締め付けた。
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