*第1幕─第1場─*
「もう少し、水を多くしてみようかしら・・」
咲いたばかりの花弁に艶が少ない事を感じ、ミクは呟いた。
多種多様のバラが咲き誇るミクの小さな庭園は、夜の天幕と月明かりで守られている。
城の裏手にあり、目立つ場所ではない庭園は亡き母から譲り受けたもので、ミクにとって唯一の安らげる空間だった。
事務官の少ない緑の王国は周囲の国より脆弱で、ミクの一日は多忙な国務に追われ続けている。
主な生産物は豊かな木々や美しい華だが、気候に左右されやすいそれらは国の財政を安定させるには足りない。
しかし、ミクは先代から築かれてきた老齢な木々茂る森や人の瞳を和ませる華たちを誰より愛した。
貧しくとも、国に住む人々には常に笑顔があり、贅沢さえしなければ互いを助け合って暮らせる事を知っている。
こうしてバラの新種を育て、他国に輸出し、なおかつ自分の育てたバラが人の心を和ませることができるのをミクは誇りに思っていた。
「・・・あ、ひっかかっちゃった」
バラ達のご機嫌伺いをしていたミクは、バラのトゲに髪を絡ませてしまい足を停めた。
緑の国の住人は全員が見事な緑色の髪をしていたが、ミクの髪は他の者を抜きん出る美しさだ。
腰下まで細く柔らかに伸び、シーン・マカライトのような濃碧の色は国中の男が溜息をつくほどの麗しさがある。
それに加え、ミクの吸いこまれそうな両眼を正面から見据えると、瞬間に心を鷲掴みにされるほどの感奮で言葉が出なくなるのだ。
ミクは引っかかった髪を解こうと指でつまんだが、バラの茎が揺れるのを見て指を止めた。
そして、手近にあった園芸用のハサミを取ると、バラではなく絡まった自分の髪を切った。
地面にパラパラと落ちる自分の髪を見てホッと息をつき、
「折れなくて良かった」
揺らめくバラの茎に安堵し、ミクは喉の渇いているバラ達に再び水を与え始めた。
庭園は20平方メートルほどの小ささだが、ミクにとってはちょうど目の届く範囲だ。
一通りの世話が済んだところで、庭園の真ん中に置いている切り株のイスに腰掛け、月を見上げた。
今日は半月で、傾きからすると13時頃だろう。
そろそろ寝ないと明日の業務に支障する事は分かっているのだが、ミクは深く息をすることのできる今の時間を終わらせたくなかった。
朧ろな月明かりが薄いバラ達の花弁に反射し、まるで空中に雪が舞っているような美しい景色。
時折撫でるように過ぎる風が反射光を散らし、ミクの身体を包むように弾む。
お母様が生きていれば・・・。
過去を思い出しても仕方ないのに、こんな夜は涙が出そうになる。
病弱だった母親は、ミクを産んだ事により病を長引かせて眠るように亡くなった。
周りの誰もがミクのせいではないと慰めたが、ミクは常に自分を責めていた。
自分が生まれなければ、母親が死ぬことはなかったのかもしれない・・そんな可能性で自身を責め、まるで償うかのように自分から公務に打ち込んだ。
ミクは小さく首を振ると、立ち上がって庭園の左へ目を向けた。
城から2キロほど離れた場所に建つ国境向こうには、黄の国が白い煙を上げていた。
国土からは尽きる事のない石油とレアメタルが掘り出され、緑の国より財力と兵力を備えた国。
頼りない前王とは違い、決断力のある姉と英知に優れた弟の双子が治めているという。
まだ母親が生きていた幼い頃は、月に一度の訪問で双子と遊ぶ事が何より楽しかった。
交互にお互いの国を行き来し、交流を深めるのは大人達にとっては戦争を未然に防ぐ一つの手段だったに違い無い。
しかし、まだ年端のゆかないミク達にとっては、自分に跪かない同年代の友人を嬉しく思っていた。
敬語も無く、打算も無い遊びの時間は互いに待ち遠しく、会うたびに親しさを増していった。
だが、ミクの母親が亡くなってからは、兄弟姉妹の居ないミクが父親の公務を支えて母親の代役をし、大人達との会話に加わらなければならなくなった。
年に一度の両国パーティには双子のリン王女とレン王子も参加していたが、二人は同年代の貴族が創る社交界を取りまとめるのに忙しそうで、遠目にしか窺えない。
本来ならミクも加われる年齢なのだが、母親の代わりに父親と同年代の貴族相手に笑顔と輸出入等といった政治の話をし、自国との交易を呼びかけねばならなかった。
最後に見たリンは、美しい生成りのシルクに淡い彩虹のレースを編みこんだドレスを着ていた。
ビロードの生地に黄金の宝石が縫いこまれたリボンが頭角を飾り、幼さの中にも女を感じさせる。
幼い頃からしているリボンは、リン王女のトレードマークになっており、誰もが最初に褒めていた。
そんな姉の傍へ、常に控えめな姿勢で立つレン王子は、ミクより2歳下だが大人より機転の利く才を備え、女性貴族から途切れることなくダンスの相手に誘われていた。
どんな相手からの誘いにも笑顔で応え、かといって誰か一人を特別扱いするような事は無い。
リン王女に何か言われれば「失礼」と相手に会釈し、姉の我儘を最優先に叶える。王子というより召使のような扱いなのに、レンは周りからの目を気にしていないように見えた。
程よく鍛えられた筋肉とスラリと伸びた足は黄金律のような整合さで、身長はミクより少し低いが、あと2年もすれば確実に追い抜くだろう。
見惚れるに十分なレンが2間向こうにいるというのに、ミクは自分の唇や鎖骨を舐めるように見る中年男の話し相手をしなければいけないのだ。
それが、母親を死なせた責務なのだと自分に言い聞かせ、必死に笑顔を作る。
ミクが成長するほどに、色目を持った男が近寄ってくる事に嫌悪しつつも、行けばリンやレンを見る事ができる嬉しさが勝る。
歳月がどんなに流れようと、ミクの中では二人が唯一の友達と呼べる人間なのだ・・いや、だったと言うべきなのかもしれない。
大人達に囲まれるミクの傍に、双子は近寄ろうとはしない。
それが拒絶なのか忘却なのか・・・ミクはどちらにも考えたくない、思いたくないと怖がっていた。
態度だけでなく、自分を拒否するような言葉が二人から発せられれば、楽しかった思い出全てが消える様な幻影におびえていたのだ。
ただ、二人の笑顔を見る事ができればいい。
母親のお古に少し手を加えただけのドレスを身につけながら、ミクはパーティへ行く度に思う。
・・・・二人に、会いたい。
はしゃいで笑い合った森の小道。
雨上がりの水たまりを踏み、ドロだらけになった昼下がり。
草むらに転がって見上げた雲の色。
何もかもが、遠い。
遠いのに、その思い出がミクの支えになっている。
三人で遊んだ日を想う度、心の奥底にある優しく柔らかな塊に甘い痛みが走るのだ。
「眠らなきゃ・・・」
ミクは自室に向かいながら、もう一度だけ黄の国を見やった。
石油で創られた艶やかな黄の城の蛍光は、緑の国には永遠に真似することができない。
あまりにも違いすぎる差を羨ましいとは思わないが、その差が緑の国をより下の層へと追いやるのは確かだ。
国同士の締結も、意志の発端も、財力のある国を優先するのが世の摂理。
けれど、友情は違うと信じたい・・・いや、思いたい。
・・バラが綺麗に育ったら、まず黄の国へ贈ろう。少し淡い黄色はリン王女。碧の縁をしたバラはレン王子へ。
そのバラを見て、少しでも私を思い出してほしいと希望を持ち、ミクはドアを閉じた。
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